3 さておき、金がやばい #2
電話ボックスから出ると、十二月の冷たい風が四重郎の肌を刺した。四重郎は電話ボックスから離れ、当てもなく歩いた。
『株式会社パルスは、ついに人間を完全に再現した二足歩行ロボット、パルスドールを世に広めました』
都心を思わせる巨大なモニターから、最先端らしい会社のニュースが流れている。四重郎はそれを眺めた。都心に住んでいても、決してこのような最先端の研究に関わることなどない。事情は同じだった。
東京に留まり続ける意味などなかった。四重郎は、ただ帰りたくないだけだった。それが分かっていたからこそ、どうしようもなくやるせない気持ちになった。
四重郎はあの場所が嫌で、何にも活躍できない自分を知っている環境が嫌で、東京に出てきたのだから。だが――どうせこの場所でも活躍できないのであれば、戻っても同じなのだろうか。諦めるしかないのか。
「俺は、よく頑張った」
だから、それで良かったことにしよう。ずっと、そう言い続けてきた。また、同じことを繰り返すだけ――挑戦して失敗したので、元の場所に戻っただけだ。そう考えると、少しは気持ちも落ち着くだろうか。
それは――とても、寂しいことだ。
「あれ? おっさん?」
感傷に浸って街を歩こうと思っていたのに、声を掛けられてしまった。仕方なく四重郎が声のする方を見ると、人ごみの中から活発そうな女性が歩いてきた。明るい茶髪をボブカットに、目の覚めるような真っ赤なショートダッフルコートに身を包み、鞄にウサギやクマのマスコットを沢山付けて、いかにも年頃の学生といった出で立ちだった。瞬間、まずいものと対面してしまったかのように四重郎の表情が固まる。彼女は東雲真理。四重郎の高校時代の同級生だ。
「やっぱりおっさんだ!」
笑顔で駆け寄って『おっさん』はないだろう、と四重郎は思った。
「東雲?」
東雲真理とは、特別仲が良かったわけではない。いや、一般的な感度ならば仲が良い悪いの問題ではなく、他人の部類に入るだろう。話したことすら初めてではないだろうか。何故声を掛けてきたのだろう。無視する方が自然なのではないだろうか。四重郎はなんとも妙な気分になった。
「なんでこんな所にいるんだよ。お前も上京してきたのか?」
「おっさん、クラスメートの進路もちゃんと見てないの? あたし、あんたとカズ君と同じ学校受験したんだけど」
普通、自分にあまり関わらない人間の進路なんてちゃんと見ていないだろう、と四重郎は思った。試験場に彼女もいたということだろうか。それよりも、カズというのは一体誰のことなのだろうか。
「知らんよ。それと、人のことおっさんって呼ぶな」
「ええ、似合ってるのに」真理は唇を尖らせた。この娘は自分に喧嘩を売っているのだろうか。
程なくして、クレープを売っている屋台から両手にクレープを持ち、こちらに寄ってくる人影があった。おそらく、真理の恋人なのだろう――四重郎は居たたまれない気持ちになった。極力速やかにこの場から去りたい。だが、その人影に見覚えがあり、四重郎は恋人の顔を確認してしまった。
「あれ? 四重郎?」
鳥取一馬。メッシュの入った茶髪に同色のモッズジャケット、黒いブーツ。四重郎とは対照的にかなり見た目に気を使っている。四重郎の数少ない、古い友人だ。
「カズ君。苺クリームと小豆クリーム」
カズとは、鳥取一馬のことだったのか。四重郎は少し納得がいった。
「はいよ」一馬は両手に持っていたクレープを渡した。嬉しそうに真理はそれを頬張っている。両方共お前が食べるのか、と四重郎は心の中で突っ込みを入れた。
たいして仲が良いわけでもない手前、四重郎がそれを言うのをためらっているうちに、一馬は四重郎に向き直った。
「奇遇だな、こんな所で会うなんて。バイト帰りか?」
一馬があまりに自然な口調でそう話すので、四重郎は返答に困ってしまった。
「ああ、いや――」
「頑張れよ、応援してるから」
一馬は何気なくそう言っているのだろうが、四重郎にとっては耳が痛くなる言葉だった。
「食料品やってるのか」
一馬が四重郎にそう言うので、四重郎は今更ながら背負っているリュックのファスナーを閉め忘れていることに気が付いた。慌てて確認すると、忌々しい食料品店のエプロンが顔を覗かせていた。それをリュックの中に押し込み、ファスナーを閉じる。返し損ねてしまったか。
「そうだ、大学で機械工学のサークル作ったんだよ。来年、一緒にやろうぜ」
思い出したように一馬がそう言った。リュックを背負い直そうとしていた両手が、ぴたりと止まった。
大学受験に失敗したあの日から、一馬は自分が当然のように一年遅れで大学に来ると思っているようだった。実際は受験する気もなく、勉強もしていない。それがどうしてか、後ろめたい気持ちにさせられた。
どうせだから、今言ってしまおう。四重郎はそう思い立って、リュックを背負い直した。
「――実は、バイト先クビになって。新しいとこ探すまでに金を使ったから、貯金できなくなっちまったんだ。入学資金だけでもって思ってたけど、ちと厳しいな」
「……じゃあ、もう一年先送りになるのか」
「いや、もう働こうと思ってさ。家も厳しいし、どのみちまともな仕事には就けないなら、今からでも変わらないと思って」
本当は、就職面接にも通らない現状ではあるのだが――四重郎がそう言うと、一馬は予想外といった表情で四重郎に詰め寄った。
「そんな事ないよ。今からでも一緒の大学行こうぜ。大学行って就職先探すんだって言ってたじゃないか」
仮に大学受験に合格し、入学費用が払えたとしても。そこから先、大学でやっていけるのか。それは、完全に未知数だった。
「そもそも、受験に合格できそうにないしな」
「……今年、受けたのか?」
結局、受けなかった。四重郎はそれを口に出して言うことはなかったが、一馬には伝わったようだった。
「……そんなに、やばいのか」一馬はぼやいた。
「え、なになに? おっさん、就職すんの?」
クレープを頬張りながら、真理が口を挟んだ。四重郎は黙って後ろで食べていろ、と思ったが、口には出さなかった。
「マジでおっさんだねー!」
何故嬉しそうなのだろうか。四重郎は苛立ちを隠せなかったが、必死に苦笑いをした。
「費用が問題なら、うちの親に相談してみるか? うちわりと金には余裕あるし、一人分くらいどうにかなると思うけど」
一馬がそう言って携帯電話を取り出すので、四重郎は慌てて静止を掛けた。
「い、いいって、いいって! そんな、資金援助してもらうような、できた人間じゃねーからよ!」
一馬は取り出した携帯電話を持ったまま、四重郎を見た。
「……それで、いいのか?」
「大丈夫、大丈夫」
親に迷惑を掛けられなくて実家に帰ろうという話まで出ているのに、一馬に迷惑を掛けることなど論外だった。一馬は見るからに落胆していたが、笑顔になった。気を取り直したようだ。
「……でも、大学は行こうぜ。目指していたものじゃないか。地道にバイト続ければ、次は受けられるだろ?」
「ああ……まあ」
「その後のことはさ、協力するから」
四重郎はどうにも答えることができず、曖昧な笑みを浮かべた。四重郎が軽く手を上げると、一馬は真理と去っていった。去り際に、真理と一馬が話している声が聞こえる。
「なんであいつと仲良いの?」
「何が?」
「どう見ても人として釣り合ってなくない? 友達ってさ、普通似た者同士で集まるものじゃん」
「……どうしてお前はあっけらかんとそういうことを言えるのか、俺は疑問だよ」
つくづく、頭にくる女だと思う。特に、全く悪気のなさそうなところが。
ふと、太陽が落ちて暗くなって来ていることに気が付いた。時計を見ると、十七時を指していた。
橙色に染まる夕日の向こうに、一馬と真理がいる。大学生活を満喫するように、楽しげに笑いながら――……。一方ではそれをただ眺めながら手を出すことが出来ず、実家に帰ろうとしている自分がいた。
諸君、どうだろうか。
これが格差というものである。
「……仕方ねえさ。本気で頑張ったって、うまくいかないことだって、あるんだよ」
思わず誰かに説明するように心の中で呟き、口では言い訳をしながら、誰も居ない道で四重郎は二人を眺めていた。
「青年、青年」
誰も居ないと思っていた。誰かに聞かれていたのだろうか。四重郎が振り返ると、手招きする人影があった。
「食うか?」
クレープ屋のオヤジだった。
「……どうも」