25 駄目な俺でもいいか
気が付くタイミングは、幾らでもあった。初めて出会った時から、雨音詩織の様子は普通ではなかった。気が付かないうちに橋の上に着地していたこと。その下で起きた交通事故。まるで猫が飛び出したかのような交通事故の現場。飛び出したのは猫ではなく、雨音詩織本人だったのではないか。
寒さに震える詩織の唇は、綺麗な桃色だった。
自分は『ドーラー』だから、自由にはなれないと言っていた。もしも夢が叶うならば、料理人になりたいと言っていた。
「――――え?」
水族館に行った時。尋常ではないほどに常識知らずだった。ホテルの利用方法、本の買い方さえ知らなかった。
マグネ、ネットと戦った時。連れ去られた詩織は、何が起きても嘘のように沈黙していた。寒さに凍えたであろう夜の公園で眠ったままだった。平然と三上はそれを回収した。
詩織のことなど、気にする素振りもなかった。
何よりも、パルスドールの位置を確認することが出来るようになった時、四重郎はマグネ、ネットと、もう一人の所在を確認していたではないか――――
「馬鹿な……!! 誰が通した!?」
三上が取り乱している。この状況では、誰が誰かも分からないだろう。詩織のパルスドールを造ることが出来たのなら、当然四重郎のパルスドールも制作することは可能だったというわけだ。
強烈な吐き気の代わりに、四重郎は口から血を吐いた。真っ赤な血――パルスドールにはない鮮血が、刺した本人の詩織へと降り注いでいく。四重郎の意識は目眩と共に揺れ、そのまま倒れそうになる。
言わなければならなかったことは、言えないままに。
意識が暗転していく――――……
『お前はいつも諦めてばっかりだ!!』
一馬の言葉が蘇った。仕方がないだろう、さすがにこの状況では。こればっかりは、どうしようもない。
自分は、よく頑張った。
『本人は頑張ったって言うんだけど、あたしにはただ諦めが良いって言い訳して、なあなあで終わってるようにしか見えなくてさ』
そんなことはない。人間、努力してどうにか出来ることと、出来ないことがあるのだ。諦めなければいけない、妥協しなければいけない瞬間はいくつもある。四重郎はただ、その『諦めなければいけないタイミング』を心得ていただけ。
『四重郎さんには――自由に歩くための足も、未来を掴み取るための腕も、真実を見破るための眼もあるのですから』
それは、パステルの姿だったから得られたものだろう。
本当に、そうだろうか?
今まで、どれだけのことを諦め、どれだけの努力をしてきたのか。
自由に動くための足は人の目に縛られ、未来を掴み取るための腕を自分自身で折り、真実を見破るための眼を一生懸命瞑ってきた。
前に進むことを恐れたのだ。
『本当は、何だってできるんです。私には分かります。いつも、いつも、一生懸命になってしまうぎりぎりのところで、抑えてしまうんです』
『それは、どうして』
また、駄目だったらどうしようか。そんなことを、心の中では考えている。何度やっても、どれだけ努力をしても、自分では無理なのではないだろうか。そんなことを決め付けている。
何故なら、四重郎には未来が見えてしまうのだ。自分が失敗する未来。だから、見えてしまう未来が真実になることを恐れている。
『それは、本当の未来じゃないです。きっと、先があるはずです』
あるのだろうか? 本当に、先があるのだろうか?
ならば、言わなくては。
顔を上げ、胸を張り、前を向き、風を切り、横っ腹が痛くなっても、
もう一歩だけ、前へ。
「――――駄目な俺でも、いいか?」
四重郎は突き刺さった剣を抜かず、そのままで詩織を抱き締めた。まだ詩織には何が起こっているのか分かっていないようで、呆然と空を見上げている。
恭平と宗之助が屋上に現れた。その尋常ではない光景に顔をしかめた。遅れて、リズとイザベルが扉から顔を出した。
三上はただ、四重郎を見ていた。
「一生懸命頑張って、それでも駄目だったら、どうしようもないけど」
「……四重郎さん?」
鈍い痛みはやがて鋭いものに代わり、勢いによって死んでいた衝撃は確かな痛みとなり、四重郎の思考をどす黒く染めていく。それでも、四重郎は喋ることをやめなかった。
「やっぱ、失敗するのは、怖いから」
誰もが、自分のことを頑張っていない、みたいに言うから。沢山の人たちが、自分から離れていく気がするから。
一人になるから。
「どうして? ……どうして、こんなところにいるの?」
「駄目な俺でも、一生懸命、やるからさ。そばにいてくれよ」
膝をついた。何しろ傷が深すぎて、どうしようもない。そのまま、横向きに倒れた。
「やっぱ、そんなんじゃ無理かなあ」
四重郎は目を閉じた。
「救急車を!! 早く!!」恭平が叫んだ。
リズとイザベルが走って屋上から出て行った。四重郎の意識は遥か彼方に飛んで行ったまま、動かなくなっていた。四重郎のそばで呆然と四重郎を見ていた少女が、呟いた。
「――――いますから」
パルスドールの少女が、呟いた。
「ずっと、そばに、いますから」
四重郎は目を開くことはない。小さな少女の瞳から、涙が溢れた。
「駄目じゃない、ですよ? 四重郎さんはずっと、ずっと、頑張っていますよ?」
まるで、そこに人がいるように。
「――――どうして?」
恭平が憤怒の表情で三上に詰め寄った。一体どうしていいのか分からないようで、三上は目を逸らしていた。恭平が三上の胸倉を掴む。抵抗する素振りもなかった。
「何故、こんなことをした!!」
苦し紛れに、三上は言った。
「……仕事を、続ける、ためだ。これは事故だ」
「過失だ!! 四重郎君がここに来たら刺されるよう、仕向けていたんじゃないだろうな!!」
「なっ!? そんなことをするか!!」
四重郎のそばで、パルスドールの少女が泣き叫ぶ。目を閉じている四重郎には、その言葉が届くことはなかった。
「お願いです!! 目を開けてください!!」
恭平が四重郎のそばで語り掛ける少女の存在に気付き、元凶を放置する。青白くなっていく四重郎と紅に染まっていく床を見て、絶望の表情になる。
「恭平さん!! 四重郎さんを助けてください!!」
「……そんな」
恭平が戸惑いの瞳で四重郎を見た。状況は絶望的だった。
「三上さん!!」
三上は歯を食い縛り、目を背けた。
「研究室へ、連れて行きなさい。利川恭平」
パルスドールの少女の背後から、声が掛けられた。恭平が気付いて、顔を上げる。眼鏡を掛けた白髪の男性だった。頼りなさそうに見えていたはずの彼は全くこの状況に慌てず、四重郎を見ていた。
「社長」恭平が呟いた。
「救急車は間に合わない。パルスドールの基本的な成分は人間と全く同じだ。なら、君にはそれができるだろう」
「駄目だ。パルスドールは改良を重ね、既にかなりの部分が変わっている。人に使うことはできない」
三上が言った。驚いた宗之助が三上を見たが、恭平は気付いて立ち上がった。
「いや、できる」恭平は自分自身が信じられないようだった。
風向きが変わった。恭平は流れるように、そのパルスドールを見た。雨音詩織もまた、恭平を見詰め返す。
「詩織ちゃん、四重郎君を担いで!! 研究室へ!!」
「えっ……!? は、はい!!」
「まだ間に合う!!」
詩織が四重郎を担ぐ。恭平はそのまま、扉へと走った。詩織もそれに続く。
「……無駄だ。替えのボディは存在しない」
去りゆく恭平を見て、三上がぼやいた。残されたのは宗之助と、三上の二人だった。三上は思わぬ失態に何も言えずにいたが、宗之助は三上を責める訳でもなく、屋上から外を見ていた。




