2 さておき、金がやばい #1
「……倒産?」
真冬の昼過ぎ、日曜日。外気温は八度といったところだろうか。日本晴れの冬は日差しこそ暖かいが、吹き荒れる風のせいで全く温かさを感じることができない。そんな寒空の下、枯草四重郎は路上に棒立ちになり、間抜けな声を出した。四重郎の周りだけ、さらに気温が二度ほど下がったのではないかと思われた。
客の入らない店の看板が、無駄な存在感を主張している。呆然と立ち竦む四重郎に向かって頭を下げている中年は、看板と同じロゴの入ったエプロンを着ていた。四重郎は前々から禿げた頭と頼りなさそうな顔が妙に印象的だと思っていたが、それが頭を下げているとなおのこと頼りなく見える、などと身も蓋もないことを考えた。
「ごめんね。私もまさかこんなことになると思わなくて」
四重郎は店の看板を眺めた。新規開店にしては客が少ないとは思っていたが、よもやこんな事態になろうとは。まだバイトを始めて間もないのだが――四重郎はため息をついた。
「……そっすか」
「うん。エプロンは記念に取っておいてよ」
四重郎はため息をついて、背中に背負っているリュックに手を掛けた。これも運命だろうか、と思う。
「いや、返しますよ。いつ終了ですか? ああ、給料日十五日でしたね。それまでに、新しいバイト探します」
四重郎はリュックを地に下ろし、ファスナーを開いた。まだ新品同様の店のエプロンが顔を覗かせた。これも近日中に使用されないのだと思うと、やるせない気持ちがこみ上げてくる。
「ごめん、今日」
「……え?」
「もう、店閉める」
「……今日?」
「うん」
四重郎は驚いて、どうしようもないほどに情けなく笑う店長の肩に両手を掛けた。
「それは困りますよ。今月もバイト見付からなくて家賃待って貰っていて、来月こそはって話をしていたところで――」
食料は確保してあった。問題なのは家賃の方で、バイトが見付からなかったために払うことができなかった。この食料品店にバイトが決まった時、初給料でまとめて払うと大家に約束していたのだ。不慮の事態とはいえ、来月も払えないということになると、本当に部屋を追い出されかねない――……。
「ごめん。とにかく、今日で終わりなんだ」
四重郎は信じられない、と訴えかけるかのように店長の目を見た。店長は目をそらすわけでもなく、苦笑いをしていた。どうしてこの状況下で笑っていられるのだろう。なめられているのだろうか?
四重郎はしばらくの間、何も言えずに店長を見ていた。それが何の意味も成さない行為であることに気がつくと、目を閉じて両腕を下ろした。ふう、と店長が安堵するのが見えた。
「……わかりました」
四重郎はポケットの携帯電話を探した。だが、ポケットには携帯電話なんて入っていない――そうだ、先月の生活費のために携帯電話は引き払ったのだった。あてもなくズボンの右ポケットを四重郎の右手が探索したが、右ポケットに強烈な消失感を覚えて、四重郎はその手を止めた。
リュックのファスナーを閉めることも忘れ、それを肩にかけると、四重郎は店長に目もくれずに引き返した。
「ごめんね! ほんと、ごめんね!」
謝るくらいなら金を出せ、と心の底から思った。生活が掛かっている人間を働かせているのだ。笑顔で「ごめんね」では済まされないこともあるだろう。
さて、どうするべきか。四重郎は財布から十円玉を二つ三つ取り出すと、宙に舞わせた。再び右手でそれを掴むと、ジャラ、と音がした。四重郎はその音を確認してから、今の時代、街には中々ないものを探して歩き始めた。
「……一分との戦いか」
そう、公衆電話だ。
枯草四重郎。十九歳。四月に高校を卒業して大学受験に失敗した彼は東京で一人、フリーターをやっていた。大学受験を諦めて仕事を探し始めたが、未だに会社の面接は通らない。一般企業で働こうと思うなら、せめて大学くらいは出ていて欲しい――それが、数多の通り過ぎた会社が決まって口にする台詞だった。何も特技がないのでは仕方がないと、四重郎も少しは考えた。
だが、既に時は十二月の終わりに差し掛かっていた。
三ヶ月前までやっていたバイト先でクビになり、ようやく見付けたバイトでこの仕打ちだった。実家から仕送りを貰っていたが、それも着実に少なくなっていった。生活費に消えていく貯金は既に底を尽き、本当の危機というものを四重郎は身に染みて感じていた。
「……探せば、まだあるもんだな」
四重郎はようやく見付けた電話ボックスに入り、十円玉を静かに投入すると、目的の番号にダイヤルした。携帯電話がなくとも、これくらいは暗記している。トゥルルル、とリングバックトーンが流れ、四重郎は生唾を飲み込んで目的の声を待つ。
『もしもし?』
「母さん? 四重郎だけど」
『オレオレ詐欺には引っ掛からないようにしているので』
「ちゃんと名前言っただろうが人の話聞けよ」
『なによー、そんなに怒らなくても良いじゃない』
四重郎はため息をついた。
「そういう状況じゃないんだよ。実は、金が底をついて」
『やっぱりオレオレ詐欺じゃない』
「……もういいから、父さんに代わってくれないかな」
『うそうそ。どうしたの?』
「バイト先潰れて。来月の家賃が払えないんだ。悪いんだけど、仕送りってことでお金貰えないかな」
ひといきに話すと、受話器の向こうでため息が聞こえた。仕送りが最近なくなっていたのは、家の事情が厳しいからだと四重郎も聞いていた。それでも大丈夫だ、なんとかすると話したのは四重郎だった。
『ごめんね、うちもぜんぜん余裕ないのよ』
「そこをなんとか、ならないかな」
『あ、それなら、いっそのこと帰って来たら? 仕送りは無理だけど、一緒に住むなら――なんとかなると思うわよ』
「それじゃあ、こっちに来た意味がないだろ」
『どうせ、受験失敗してバイトやってるんでしょ? どこで仕事しても一緒じゃない』
四重郎はその言葉を聞いて、受話器を持ったままで固まってしまった。苦虫を噛み潰したような顔をした。
大学受験のためにと言って、東京に来た。確かに、四重郎が東京に留まり続ける意味は、もうなかった。
「……そうだな。ちょっと、考える」
帰りたくはない。だが、親に迷惑を掛けてまで東京に残るというのも、筋違いな話ではある。
『そっちで生活するんでも構わないけど、顔出すだけでも良いから、たまには帰って来なさい。みんな心配してるわよ』
四重郎は複雑な心境になった。だが、ひとまずは礼を言う事にした。
「ありがとう」
『いつでも! お母さんの胸に! 飛び込んで』
四重郎は通話を切った。