12 こぼれ落ちていくんだ #4
『……仕方ねえさ。本気で頑張ったって、うまくいかないことだって、あるんだよ』
何を頑張っていないと言うのだろうか。何も知らないくせに。四重郎がどんな思いをして東京まで出てきたのか、どんな思いで大学受験を失敗したのか、どんな思いで仕事をすることに決めたのか。何も知らないくせに。
四重郎は自分自身にそう言い聞かせることしかできず、ただ駆け抜けた。ビルを出て、橋を渡り、繁華街へ出て、人ごみの中をぶつかりそうになりながらも、四重郎は速度を緩めることをしなかった。
「四重郎!?」
不意に、駆け抜ける四重郎の腕を掴んだ者がいた。四重郎が驚いて振り返ると、そこには一馬がいた。しまった、と四重郎が気付いた時には既に遅かった。気が付けば、その場所はパルスドールになってから詩織と訪れた喫茶店の下。バイト上がりに歩いてきた一馬と鉢合わせたのだ。
「どうしたんだよ、その格好」
一馬は四重郎のスーツ姿を見て、そう呟いた。四重郎はどう返答するべきか迷った。藪から棒に一馬に気持ちを押し付けてしまいたい衝動を押し殺して、四重郎は笑った。
歯を食いしばったままの、不自然な笑みだった。
「ちょっと、会社の面接受けてきたんだけどさ。あまりに緊張したもんで、走って来ちまったよ」
四重郎がそう言うと、一馬は四重郎の袖を離した。
「……そうか」
一馬はバイト先の制服を手に抱えたまま、微動だにしなかった。四重郎は乾いた声で笑った。
「いやあ、ちょっと失敗しちゃってなあ。多分、受かってないかもしれない。まあ、仕方ねーな」
そう言って、四重郎は頭を掻いた。
「……昔とおんなじだな」
四重郎の笑い声が止まった。四重郎が見ると、驚くべき光景がそこには広がっていた。
あの、爽やかな笑顔で有名な。穏やかで有名な、鳥取一馬が涙していた。
四重郎は目を見開いた。
「お前は『いつも』諦めてばっかりだ!!」
鳩尾に剣を突き刺すように、一馬は四重郎に言葉を突き刺した。四重郎は胃の辺りが痛くなる感覚を覚えた。
「東京の大学に行くって言った時、初めてお前が本気を出すのかと思ったんだ!!」
思えば、一馬は初めから今の学校を志望していた訳ではなかったかもしれない。今更、そんなことが頭の中を横切った。
「やっと、一緒に頑張れる気がしたんだ!!」
『あなたは、何も頑張っていない』
一馬の背後に、先程の面接官が見えた。まるで、
まるで四重郎が何も努力していないかのような口ぶりだった。
「『また』、諦めんのかよ!!」
四重郎は、何の事情もなく未来を諦めたことなどない。
「一馬には分からねえよ」
成功しかしていない人間には。四重郎の、失敗する男の理屈など伝わらない。そう思った。四重郎は一馬に背を向け、その場から逃げ出した。
「四重郎!!」
何故、誰も彼も自分を否定するのだろうか。何故、誰も四重郎の選択を認めないのだろうか。結果を出さなければ、努力は報われないのだろうか。
だとするならば、四重郎がこの身体で報われることなど、一つもないのと同じではないか。
結果の出ない才能。結果の出ない選択。妥協。後悔。様々な思いが四重郎の中を駆け巡った。
努力をしても、決して優秀な者には追いつかない頭脳。鍛錬しても、決して四重郎よりも早くから鍛えていた者には届かない肉体。他の者に突出しないコミュニケーション能力。決して格好良いとは言えない顔。何もかも、何一つとして『他の誰か』に敵わないことの悔しさ。
七階のマンションの階段を上がり、四重郎は階段の下に零れる何かに気が付いた。それは、四重郎の涙だった。
分かるわけがない。何か一つでも誇れることのある者には、この気持ちなど分かるわけがなかった。結果が出せず、妥協を繰り返し、泥沼にはまっていく人間の気持ちなど――――……
四重郎は、たった一人の部屋の扉を開いた。
「きゃっ……」
扉を開けたまま、四重郎は硬直した。家には、今はもう一人住んでいたのだ。肩で息をしながら、扉を開いた体制のまま、四重郎は奥にいる少女の目を見た。
「四重郎さん……? おかえりなさい」
どう反応していいのか分からず、四重郎の頭は真っ白になってしまった。
詩織は四重郎の帰宅を確認し、笑顔で皿に広がる料理を見せた。
「四重郎さん、今日はお疲れ様でした! なんとなんと、今日はエビチリを作っちゃいましたよ!」
その時、たった一人、四重郎の結果を信じてくれる人間に出会った。
「よ……」
四重郎は、両腕を回した。
四重郎が泣いていることに気が付いたのか、詩織は手にしていた調理器具を床に落とした。カランカラン、と無機質な音が辺りに響いた。
「四重郎さん……?」
「頑張ってないわけじゃないんだ」
四重郎は誰に言っているのかも理解していなかった。
「俺は本当に、一生懸命やっているんだ」
ただ、誰かに聞いて欲しかった。
「でも、こぼれ落ちていくんだ」
努力したことが、端から端へ水のように。
「思い描いた未来に辿り着けないんだ」
取り落としてきた出来事の全てを、四重郎はさらけ出した。
「どうして、みんな人のことを怠けているみたいに言うんだ」
必死で、四重郎は叫んだ。
「俺は頑張っていないわけじゃないんだ!!」
瞬間、四重郎の背中に伸びてくる手の感触があった。
「四重郎さんは、頑張っていますよ」
小さな子供をあやす母親のように、四重郎の背中は撫でられた。
「必ず、努力は報われます。前を向きましょう。振り返らず、一歩一歩を大切にしましょう」
何か、途方もない暖かいものに包まれた気がした。それは四重郎にとって、たまらなく居心地の良いものだった。いつからだろうか、思えば遠い昔から四重郎はこれを求めていたのかもしれないと思った。
「四重郎さんには――」
四重郎は結果を求めて努力していたわけではなかったのかもしれない。
「自由に歩くための足があるのですから」
ただ、自分の努力を誰かに認めて欲しかったのかもしれないと。
それから先のことを、四重郎は覚えていない。小さな子供のように泣きじゃくった四重郎は泣き疲れるとその場に崩れ落ち、詩織はそれを支えた。四重郎の意識はなく、そのまま眠ってしまった。
詩織は四重郎を畳に寝かせ、すっかり冷めてしまったエビチリをラップに包んだ。掛け布団を四重郎に掛けてやると、自身も眠くなったのか、詩織は小さな欠伸をした。
「自由に歩くための足も、未来を掴み取る腕も、真実を見破るための眼もあるのですから」
眠り際に詩織がそう呟き、微笑んだことを、四重郎が知ることはなかった。




