11 こぼれ落ちていくんだ #3
四重郎は詩織の手を引いて、家まで止まらずに走った。道中一馬以外の同級生――特に東雲真理に会わないように細心の注意を払った。本当は四重郎だとばれることなどあり得ないのだが、女言葉を話すことも、女として対応することも、どうにも慣れていない。このままでは、どこかにボロが出てしまうかもしれないと思った。
不思議と止まらずに走ることができた。やはり、この身体は作り物なのだと感じる瞬間でもあった。これだけの華奢な――見た目にも体力があるとは言えない女性の姿だったら、繁華街から四重郎の家まで二十分は掛かる距離を走り通すことは出来ないだろう。
四重郎は七階への階段を一気に駆け上がり、多少なり上がった息を整えた。
「四重郎さん」
「……元に、戻してくれ」
詩織は頷いて、四重郎のヘッドセットを操作した。ピピ、と軽い電子音がして、四重郎の視界は反転した。
何かが地に崩れ落ちる音を横で聞き、四重郎は目を覚ました。スーツに着替えた四重郎の、元のままの姿だった。崩れ落ちたのは、先程まで四重郎が操作していたパルスドール――あっと・パステルだ。
四重郎は身体を起こし、ヘッドセットを外した。
「遠隔では、戻せないのか」
「あ、実はリモコンがあります。どちらでも操作できますよ」
詩織は四重郎に操作用のリモコンを渡した。四重郎はそれを受け取り、中身を確認してからパルスドールのポケットに入れた。
「どうですか、四重郎さん」詩織が少し得意気な顔をして聞いた。
「大したもんだと思うよ」
まるで夢のような午前中が終わった。四重郎はヘッドセットを外し、時間を確認した。既に時刻は正午を回っていた、もしかすると一馬のハプニングがなければ遅刻していたかもしれない。四重郎は不幸中の幸いだと思いつつ、立ち上がった。
「そろそろ、ですか? お昼ごはんくらい――」
「いや、あんまり入りそうにないから。このまま行くよ」
四重郎はそう言って、鋼のように重たい腰を上げた。やりたくはない。やりたくはないが、やらなければ。これが自分の選択なのだから。四重郎は自分にそう言い聞かせ、いつもと同じ深緑のジャンパーを羽織った。革靴に足を滑り込ませると、不思議と緊張してくる。
「四重郎さん、頑張ってくださいね」
あまり、望みはないが。四重郎はそう答えようとして、振り返った。詩織は目を閉じ、両手を祈るように合わせていた。驚いて、四重郎は開きかけた口を閉じた。
「四重郎さんには、自由に歩くための足も、未来を掴み取るための腕も、真実を見破るための眼もあります。だから、きっと大丈夫です」
それは、祈りの言葉か何かだろうか。四重郎が詩織の言葉に返答するべきかどうか悩んでいると、詩織は目を開いて四重郎に笑い掛けた。
「美味しいご飯を作って、待っていますから。頑張ってくださいね」
なんと心強いものだろうか。応援してくれる人間がいるということは――四重郎は思わず、そんなことを考えてしまった。
「ありがとな」四重郎は扉を閉めた。
本屋で発見した質問に対して、四重郎はある答えを定めた。学校生活では、あまり目立たなかった。失敗したことも多いので、会社に就職することができたら、これまでの失敗を返そうと思う――それが、四重郎の考えた回答だった。四重郎はこれまでの会社面接で、テンプレートの回答など実際に話す時には何の役にも立たないことを身に染みて感じている。だから、今回も役に立つとは思えない――だが、苦し紛れの準備だった。
今回、面接先の会社までは近い。歩いている最中、四重郎は詩織のことを考えた。成り行きで共に暮らすことになったが、打ち解けてみると四重郎に必要な人物になっていた。いずれは居なくなるというのに。それは分かっていた。
株式会社パルスの社員なのだ。四重郎がシステム関係の会社に行くとは思えないし、どんな形であれ、雨音詩織は代表の娘であることに間違いはないだろう。ならば、パルスドール・サーカスがなくなったとしても、詩織はいずれ自分の居場所に帰るはずだと思った。
六畳一間の隠れ家を抜けて。
自分自身の、帰るべき場所へと。
「……住む世界の違い、か」
詩織は人に優しく、頭の良い娘だろう。少なくとも、自分とは釣り合わない――。四重郎はそんなことを考えてしまい、ポケットの中の拳を握り締めた。
こんな顔、こんな頭、こんな人生を送っている四重郎では。間違っても、友達になることなどないのかもしれない。
「……まあ、俺は俺のペースでやればいいんだ」
誰にも聞こえない独り言を呟いた。目的地は、着々と近付いてゆく――……。
「座ってください」
驚くべきことに、面接官は一人だった。これまで大企業ばかり四重郎は受けてきたので、初めての出来事だった。一人ということもあるのか――四重郎は椅子に座った。面接官は落ち着いた黒髪に眼鏡を掛けた、優しそうな男性だった。
「あまり、面接だと思わなくても良いから。少し、僕と話をするつもりで」
フランクな語り口だった。四重郎は思わず恐縮してしまった。面接官は笑った。
「履歴書を見ると、高校卒業から今まで半年ほど空いているけど。その間は、就職活動をしていたのかな」
「はい」
「その間は、どこからも内定は出ていない」
四重郎は下唇を噛んだ。だが、切り返すために前を向いた。
「今回こそは、と考えております」
面接官はうん、と一言頷いて、椅子に座った。履歴書をぱらぱらと捲りながら、ボールペンの先で頭を叩いている。
「はじめは大学を目指していた?」
「……はい」
「大学受験は残念ながら受からなかったみたいだけど、大学はもういいの?」
四重郎は言葉に詰まってしまった。面接官は少し笑って、履歴書に何かを記入した。四重郎から、何を書いたのかは見えない。それが四重郎をさらに焦らせた。
「大学に行くのは諦めました。だから、もういいんです」
少し、悪印象を与える言い方だったかもしれない。言ってから後悔したが、面接官は厳しい態度になることもなければ、相変わらずの穏やかな瞳で四重郎を見ている。それは、初めて出会うタイプだった。
「なら、どうして大学に行こうと思ったんだい」
どうして、大学に行こうと思ったのか。心の中で復唱すると同時に、四重郎の頬から汗が垂れた。
「夢が、あったんじゃないかい」
自分を知らない都会で、大学に通い、自分なりの答えを見付けること。もちろん、そんなことは面接官には言えない。
「入学資金もないし、学力もないから。働いた方が近道かと思ったんです」
四重郎はそう答えた。面接官の顔から笑みが消えた。面接官はボールペンをテーブルに置き、椅子から立ち上がった。
「人生にね、近道という言葉はないよ。枯草さん」
四重郎の息が止まった。
「金は貯めればいいし、学力はその間に身に付ければ良いじゃないか」
面接官の鋭い眼光が四重郎を見た。四重郎は中途半端に口を開いたまま、硬直していた。
「枯草さんから連絡がきたとき、すぐに面接をしようと思ったんだ。あなたは若かった。高校を卒業して、その年に就職を希望する。しかも、大して大きくもないうちを希望するからには、何らかの――弊社を希望した、理由があるのではないかと」
面接官は窓へと向かって歩いた。四重郎は心臓を握られたような気持ちで、面接官と対峙していた。
この会社を希望した、直接の理由はない。
「直接でなければ、断ろうと思っていた。どうして、うちを希望したんだ?」
四重郎の中には、テンプレートの回答があった。営業職を希望し、人との繋がりの中で、自分のスタイルというものを確立したい――四重郎の頭の中に浮かんだ回答は、まるで流れる水のように、上から下へと滑り落ちていった。
この面接官に、半端な回答は通用しないと思った。
面接官は四重郎の様子を見て、何かを察したようだった。
「大学に行きたいと思ったのなら、大学に行って欲しい。大学を卒業して、それでもうちに来たいと思ったら、その時にもう一度ここへ来なさい」
四重郎は顔を上げて、面接官を見た。ここで引き下がるわけにはいかなかった。自分には、食い扶持という未来が掛かっていた。
「大学はもう、良いんです! 頑張ったけど、無理だったから、働こうと思ったんです!」
面接官のボールペンの先が、四重郎を指した。
「何を頑張ったんだ?」
四重郎はボールペンを突きつけられ、固まってしまった。
「何をどう頑張って、どうして諦めたのか、答えられる?」
「何を……」
「もう、頑張る余地は残っていないのだろうか? ……本当に、そうなのだろうか?」
面接官は今一度、椅子に座った。四重郎の呼吸は浅く、ただ座っているにも関わらず肩で息をしていた。面接官は微笑んだ。
「枯草さん。あなたには分析が足りない。あえて言うよ」
四重郎は立ち上がった。このプレッシャーに耐えられないと感じたのか、無意識のうちにその行動に出たのか、四重郎には分からない。
「あなたは、何も頑張っていない」
その一言が、四重郎の胸を貫いた。
四重郎は、面接官に背を向けて部屋を出た。一目散に走り出した。