10 こぼれ落ちていくんだ #2
本屋を出て、隣の喫茶店はとても広かった。店員はさして背が高いようでも無かったが、見上げなければいけないことに違和感を覚えた。四重郎は詩織と向かい合い、椅子に座った。詩織が顔を紅潮させて、四重郎の様子を見ていた。
「あの、すいません」
「ん?」
「……スカートを」
いつものように股を広げて座っていた四重郎は、慌てて足を閉じた。どうにも、こういうものは慣れないと思った。
「まだ、慣れませんか」
詩織が笑顔で聞いてくる。四重郎はウエイターにコーヒーを二つ注文すると、詩織に答えた。
「夢でも見てるみたいだ。……でも、現実なんだよな」
「すぐに慣れますよ。人間以上の力を発揮するには、まだ少し時間が必要かもしれませんが」
四重郎はそう言われて、パルスドールの腕を回した。特に人間と違いは見られない。むしろ、取っ組み合いをしたら四重郎本人の方がパルスドールよりも強そうだ。
「……本当に、こんな腕で怪力が出るのか」
「それは、恭平さんが開発したものですから。すごいですよね」
全く実感が湧かない。肩から垂れる赤髪すら、自分のものではないようだ。最も、人形であるということを考えれば自分のものではないのだが。四重郎はブラックのまま、出されたコーヒーに口を付けた。
瞬間、壮絶な苦味に顔をしかめた。
「苦くないか、これ」
「味覚はパルスドールの設定によりますから。パステルさんの本体とは、結構違うものかもしれません」
どうやら、パルスドールになっている時の四重郎は『パステルさん』になったらしい。四重郎は慣れないあだ名に多少の違和感を覚えつつ、コーヒーに砂糖を追加した。
「あんたは、大丈夫だったのか」
四重郎が聞くと、詩織は苦笑いをした。それ以上何も返答がなかったので、四重郎は特に聞き返すこともしなかった。やはり、最初は違和感を覚えるものなのだろう。
「だけど、本体でも食べないといけないんだよな」
「はい。さすがにそこまでは」
「パルスドールも腹は減るのか?」
「健康な人間の時間に合わせて、空腹は感じるようになっています。食べなくても問題ありませんが」
「そうなのか。食べても、別に大丈夫なんだよな」
「はい、もちろんです」
「何か頼むか――」
四重郎は手を挙げてウエイターに声を掛けようとして、壮絶な表情になって手を降ろした。その様子に疑問を持ったのか、詩織が四重郎を見ていた。四重郎が声を掛けようとしたウエイターが、異変に気付いてこちらを向いた。
それは、鳥取一馬だった。
「四重郎さん?」
四重郎の顔が青くなった。
「馬鹿、今は『パステルさん』だ!」
「あっ……ごめんなさい」
四重郎と詩織のやり取りが聞こえたのか、一馬がこちらに向かってきた。四重郎の心臓が早鐘を打つ。よもや、自分だとばれたりはしないだろうか。四重郎と一馬の目が合う。一馬はテーブルの手前まで近付いて来た。
そして、微笑んだ。
「何か御用でしょうか?」
どうやら、ばれていないらしい。
自分の声は既に女性のそれになっているということなど忘れ、四重郎は必死で裏声を作った。
「あ、あの、この、ホットケーキをひとつ……」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
一馬は何事もなかったかのように去っていった。詩織が『四重郎さん』と呼んだことは、どうやら聞こえていなかったらしい。四重郎は思わず胸を撫で下ろした。
「な、なんであいつ平日の真昼間にバイトしてんだ……」
四重郎が滝のように汗を流してそう言うと、詩織が首をかしげた。
「パステルさん?」
「……ああ。あいつ、友達なんだ」
「そうなんですか」
四重郎は嫌な空気を感じて、立ち上がった。
「も、もう出よう」
「え? だって、さっきホットケーキを注文して――」
「いいから! もう面接まで時間ねえし!」
四重郎は詩織の手を引き、レジへと向かった。先ほどホットケーキを注文されたからだろう、一馬が不思議そうな顔をして四重郎を見た。とにかく、一刻も早くこの場から離れなければ。
「鳥取くーん、レジー」
「あ、はい」
四重郎は再び、心臓が止まるかのような思いに駆られた。何故この瞬間にお前がレジをやるんだ、などと考えてしまった。当然、一馬には何の非もない。
「お客様、先ほどホットケーキをご注文になりませんでしたか?」
四重郎は引きつる顔で、必死に笑顔を作った。
「じ、実はちょっと予定を思い出してしまって。お金はちゃんと払いますので。は、はは……」
四重郎が引きつり笑いを浮かべながらそう答えると、一馬はいつもの穏やかな笑顔で四重郎に笑い掛けた。
「いえ、引いておきますよ。ホットケーキはキャンセルで」
「す、すいません。ありがとう、ございます……」
「ブレンドコーヒー二点で、八百円になります」
四重郎は懐から財布を取り出そうとして、固まってしまう。そうだ、自分は今、パルスドールなのだ。財布など持ってこなかった――表情が固まる四重郎に対し、一馬は首をかしげた。
「お客様?」
「あ、は、はい。……ええと」
もはや頭の中は真っ白になってしまい、一体どうしたらいいのか分からなかった。四重郎が財布のないポケットを必死で漁っていると、詩織が四重郎の袖を引いた。
「パステルさん」
見ると、四重郎の左手にいくつかの小銭が舞い込んできた。四重郎が気付いて詩織を見ると、詩織は人差し指を口元に当てて笑った。四重郎は笑顔とも謝罪ともつかない表情になり、口だけで詩織に「すまん」と答え、一馬に八百円を差し出した。
「八百円ちょうどいただきます。……こちら、レシートでございます」
「は、はい。ありがとうございます」
「パステルさん、ですか。可愛い名前ですね」
何を自然にナンパしているんだ、と四重郎は思った。
「四重郎って、枯草四重郎のことでしょう?」
四重郎は開いた口が塞がらなかった。作り笑いのまま、硬直してしまった。
「珍しい名前だから。ご友人ですか」
「…………あっ、はい、ま、まあ」
どうやら、気付かれたわけではないらしい。四重郎は慌てて硬直を解き、返事をした。
「俺もなんです。また来てくださいね」
もう二度と来るものか、と思いながら、四重郎は一馬に笑顔を作った。爽やかな笑顔がうっとうしい。




