1 『サラリーマンにすら』なることができない
サラリーマンにだけは、なりたくないと思った。
個性を潰されて、馬車馬のように働くのがサラリーマンだろう? そんなイメージが先行してしまったためか、サラリーマンに良いイメージはなかった。
少し洒落た看板のある建物の階段を上がり、重たい木製の扉にゆっくりと体重を掛けると、カランカラン、と賑やかな音がして、いつもの場所へ向かうための道が開かれる。その階段を上がるころには既に俺は疲れ切っていて、右肩にぶら下がっている、他の人よりは少しだけ大きい革製の鞄が、落ちると言わんばかりにゆらゆらと揺れたとしても、決して左の肩に掛け直してやることはしない。
たまに煙草臭いが、基本的にはとても居心地の良い場所だ。扉を入って右側にはカウンターの席が八席と、左側には四席掛けのテーブルが二組。どちらも木製で、入ってきた扉や外にあった看板とイメージの統一を図っている。ちかちかと光る、今時珍しいブラウン管のモニターに野球の試合を映して、いつもマスターは綺麗すぎる円形の皿を布巾で拭いている。革靴を履くと、ギシギシ、と古めかしい音がする。そんな木製の床の上に規則正しく鎮座している椅子は赤色。
カウンターの反対側はいつも外の光景が眺められるようになっていて、映り込みの良い強化ガラスの向こうでは、せせこましく日常に追われた人々が横断歩道の前で立ち止まっては渡っていく。二階にあるから、通行人からはあまりこちらに意識がこないことがマスターのこだわりなのだという。
「いらっしゃい。もう、閉店時間過ぎてるよ」
時刻は二十三時。喫茶店など、とうに業務時間を終えているだろう。そんなことは分かっているが、俺はマスターの言葉を右から左へと流し、椅子にまたがり、染め直した黒い髪の頭を正面からカウンターのテーブルに激突させた。ごつん、と鈍い音がして、脳天へと衝撃が走る。俺の様子を見ても、決してマスターは無駄な言葉を話そうとしない。この人はいつもそうだ。
「じゃあ、いらっしゃいとか言うなよ」
「入ってきたお客さんには、きちんと挨拶をしなければね」
右のポケットに突っ込んだ携帯を今一度取り出し、手早く操作して録音された音声を流した。携帯電話を耳に当てない。ただぼんやりと、表示された画面の録音時間と、再生時間の数値が増えていくのを見ていた。画面を見たままでも、どんなメッセージが流れているのかが分かる。一度聞いたものだし、忘れることもなかった。
『株式会社、……の静岡です。新卒採用の件でご連絡させていただきました。まことに申し訳ございませんが、今回はご縁がなかったということをお伝えさせていただきたく……』
「『今回は』じゃないよ。『今回も』だろ」
俺の言葉を聞き流し、マスターは俺にコーヒーを出した。お気に入りの香りが鼻に入ってくると、何故か悲しみに包まれた。先方から連絡のあるこの瞬間はいつも儚げで、せつない。それが分かっているのにも関わらず、ほんの少しだけ期待してしまう自分がいつも恨めしい。まるで、告白の返事を待つ中学生のようだ。
「採用の、かい?」
マスターがよくずれる眼鏡を直して、心配そうな表情で俺を見た。髪の毛こそ白髪に染まっているが、きちんとした格好でこの人はいつも綺麗だ。洒落た薄ピンクのワイシャツに、サスペンダーがよく似合う。スーツであってもいつもと同じ、その上からだらしない深緑のジャンパーなど羽織っている俺とは住む世界が違うのだと思う。ほうれい線が決して老いを強調しないのだから大したものだ。多少ポエマーなところにも可愛気を感じるくらいだ。
渋沢新。マスターの名前だ。どうしてこの人と俺が仲良くなったのかと言えば、俺があまりにこの店に通い詰めるあまり顔を覚えられただけだという、エピソードの欠片も感じられない理由だったりする。
「――どうして、こんなにも人間ってのは不公平なんだろうな?」
神は人の上になんとやらを信じていたわけではないが、あまりにあまりではないかと感じる。ブラウン管の向こうでは九回の裏、舞台も大詰めといったところだろうか。バッターボックスに立つ選手にも緊張が走っている気がした。
野球選手を目指したことがあった。プロの選手になろうと思ったが、自分よりも上手い奴がいて、どうしてもそいつに勝てなくてやめた。学生チームの中ですら上位に立てないのに、プロなんて程遠いと思った。
「酔ってるのか?」
「俺、未成年」
「失礼、知っているよ」
「どーせおっさんだよ」
「そういうことを言っているんじゃあないよ」
漫画家になろうと思ったこともある。その時から少し絵の練習を始めたが、左右対称の顔を描くことすら全くできなくて、やめた。
「良いじゃないか、夢に向かって頑張れば。まだ若いだろう」
「……夢なんて、ないんだよ。大学に行けば、何かが変わるかもしれないって思っただけでさ」
「なら、大学に行けば良いじゃないか」
金の大切さを知ったころから、エリートコースを目指したこともある。勉強を少しだけ必死になったが、その時期のテストで学年上位の張り紙を見たとき、これは自分には向いていないと思った。昔から勉強をしている人間には、どうしようもないほどの差が開くものだと、その時に知った。
「働くよ。働くって決めたんだ。二浪は無理だよ」
「仕事を始めると、自分を変えるチャンスは無くなるぞ」
「それでも、いいよ」
「自分のことは、自分にしか変えられない」
俺は顔を上げて、渋沢さんが出してくれたコーヒーを飲んだ。つん、とした苦味が広がる。まるでそれは、人生のそれを思わせる味わいだ。
「そりゃ、自分の身体がもうひとつないと無理だな。俺はどうやら、どうしようもなく駄目な頭と身体を掴んじまったみたいだから」
「親のせいじゃあないよ」
「分かってるよ。誰のせいでもない、運が悪かった。だから、俺は駄目なんだよなあ」
高校で、名前をきっかけに友好関係が悪くなった。枯草四重郎から連想して、枯れたおっさんなどと言われた。四季を重ねる、から取って四重郎なのだ、などと親は話していたが、季節の漢字が入らなければ四十のおじさんなどと呼ばれても仕方がないと思った。
「全く違う身体と名前でさ。人生やり直すんだよ。もしそんなことが出来たら、なんて、無益なこと考えてる」
「それは無理だ」渋沢さんの笑い声が聞こえた。
「分かってるよ。分かってる」
「それは無理だけど、君は君が歩む道を、自分で決めることができるよ」
見上げると、渋沢さんはクールな微笑みを浮かべた。本当にこの人はいつも格好が良い。
「……そんな。格好良いこと言わないでよ、渋沢さん。情けないのが露呈して、つらくなるだけじゃないか」
「励ましているつもりなんだけど。すまないね、言葉が足りなくて」
「……ううん。俺も、ごめん。くだらんこと言って」
どこか別の場所に行きたいと思った。親に無理を言って、東京の大学を目指すために仕送りをお願いした。誰も自分を知らない環境ならば、どこかに活躍できる場所があるんじゃないかと思った。
でも、現実は大学受験すらうまくいかない。
「どこでもいいんだ、働けるところなんて。どうせ時間を売って、金を稼ぐ作業なんだからさ。――でも、そういうのも向いてないらしい」
滑り止めにすら受からなかった俺は、すぐに仕事を始めるために面接を受けるようになった。バイトをしながら会社の面接を受ける日々。悔しかったが、タイミングが既に遅いことも理解していたが、そうした。大学は自分には向いていない。運命が自分を拒絶しているのだと、そう判断した。
「四重郎君。振り返れば、自分が荒らした地面ばかり見えるよ。だって、君はそこを歩いて来たんだから。先の広大な自然を見渡すんだ。そこには、まだ自分の知らないもの、見たこともないものが、沢山あるかもしれないんだから」
友人は、大学に受かった。だから、なおさら悔しかった。受験勉強を怠ったわけではないのだ。一生懸命頑張った――だから、悔しかった。
「渋沢さんには、俺の気持ちは分かんないよ」
そして今。
俺は、『サラリーマンにすら』なることができない。