第6話
ガエルドの脇腹や首からたくさんの血が流れて止まらない。青ざめた顔でよろけながら歩く足は枝を跨ぐことさえできないでいる。そのまま茂みの中に体をねじ込むと、どすっとその体を横たえて、ふーっと大きく息をついた。
ミーシアは、その姿を見ても逃げることが出来なかった。
「大丈夫かい、ガエルド、傷が痛むんだろう。何か薬草を探してくる」
まだ夜は明けてはいない。薬草を見つける自信はなかったが、このまま診ていてどうなるものでもない。ましてはそれに乗じて逃げ出そうなどとは微塵も思わなかった。
ガエルドは、そんなミーシアに語りかけた。
「甘いな、薬草を持って帰ったところを俺に襲われたらどうするつもりなんだ。今度こそ、俺の餌になるつもりか?」ガエルドの傷はどう見ても深い。3頭の狼を相手に闘って、いま会話をしているだけでも信じられないのに、その声の威圧感や迫力が衰える事はなかった。
「でも僕はガエルドが心配なんだ。それでも僕を襲って食べるのかい?」
茂みにうずくまったまま動くこともなくガエルドは、ふっと口元だけで笑った。その口からも血が溢れた。
「ミーシア、油断したらまた誰かに襲われるぞ。弱いほうが死ぬんだ。それが山の掟だ。どんな時も気を抜いてはいけない」ガエルドの顔から血の気が失せていき、茂みに血の匂いが染み込んでいくのが判った。
「血の匂いに引き寄せられてまた何かがやってくる。負けたらそいつらに食われる。それが嫌なら闘うしかないんだ」ミーシアは、ガエルドの声が少しずつ弱くなっていくのに気が付いた。あの睨まれると体がすくんでしまう尖った眼光も、牙すらも丸くなったように感じる。
「なぁ、ミーシア。こっちに来ないか」
そのうちガエルドは目を開けることもできなくなった。次第に荒かった呼吸が落ち着いてすらあった。
血が流れすぎて命が尽きようとしているのだった。
「俺は生きるためになら狐だって襲うだろう。だが今は違う。もう生きるために何かを食べる必要はないんだ。俺の言っている意味が分かるか?なぁミーシア」
ミーシアはガエルドに駆け寄った。「どうすればいいんだい? このままじゃガエルドの怪我が治らないよ。薬草を持ってくるまで待てる?」
「もういい。山ではへまをしたら終わりなんだ」ガエルドは言った。「それより少しの間、俺のそばにいてくれないか。もうそんなに長い時間じゃない」
ここに来いと言わんばかりに、ガエルドは少しだけ前足を動かして手招きした。
ミーシアは、その腕に巻き取られるかのように寄せられて、そのままガエルドに添って横になった。お互い何も言わず、ただ相手の体温を感じていた。まだ心臓は動いていた。暖かくもあった。屈強なガエルドの体に巻かれていると表しがたい安心感を得ることができた。そして途中ミーシアは安心して少し眠っていた。ふーっとガエルドが息をつく度にミーシアは起きてガエルドの傷を舐めた。そうして朝が上のほうから静かにガエルドとミーシアに降りてきた。
朝日が昇りきった頃、霧が晴れるのとともにガエルドは永遠の眠りについた。陽に照らされたガエルドの顔を見て思ったよりも小さかった事にミーシアは気がついた。その顔は楽になれたような、力みの抜けた安らかな顔だった。解け始めた氷のように小さく丸くなったガエルドの毛並みを収めるように繕うと、それは素直にされるがままになった。もう二度と動かない狼の体躯の前で一夜を生き抜いた狐が声を上げずに静かに泣いた。
ミーシアは姿を隠そうとしてガエルドの体の上に草や木の枝を被せ始めた。絶対に誰にも触らせたくなかった。
偶然ミーシアの前に現れたガエルドは、自分のために闘ってくれたのだろうか。きっと違うだろう。しかし山の気まぐれのような昨夜の出来事を越えてガエルドが居なければ今こうして生きて朝を迎えることは無かったに違いない。ミーシアが教わった山の掟はガエルドの掟なのだ。すっかり木々や緑で多い尽くされたガエルドの姿は見えなくなった。この山と一体になったような気がした。いやガエルドが山そのものに違いない。ここは狼の山なのだ。
一通りを終えるとミーシアは朝日に照らされた美しい山々の稜線を目で追った。鳥のさえずりが聞こえ、雲の隙間から吹く風にカラカラと林がなびいている。
やがて二、三の尾根を越えた向こうにひときわ高い一本の樹が見えた。あれが一本杉だ。
父さんと母さんが心配して待っているだろう。帰るべき道を見つけたミーシアは力強く立ち上がった。澄んだ空気を切って木立の中をミーシアは駆け出した。
土を蹴る音が朝の林の中に柔らかく跳ね返って、ミーシアの影に続くように林の中に消えていった。
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