第4話
ガエルドは直ぐ下の斜面に生えた樹に引っかかるようにしてなんとか転落を免れていた。
ガエルドは斜面に爪を立てて低く呻き声をあげている。直ぐには上がってこれないようだった。
気が付くと、いのししが自分を睨み付けていた。
「おまえ、きつねだろう。狼のまねなどしやがって」イノシシが地の底から響くような声でミーシアに言った。体毛が鋭く逆立って、岩のような体から汗が湯気のように出て周りの霧といのししを同化させている。
ミーシアは、霧の化身となって不気味な姿を見せるいのししを凝視したまま動けなくなった。
牙をこっちに向けてゆっくりと迫ってきた。なぜだかさっきよりも体が大きく見える。
「ミーシア、逃げろ。お前一人じゃ手に負えないぞ」
崖の下からガエルドが叫んだ。
もうイノシシは目の前だ。真っ黒の硬い体毛が針のように鋭く逆立って、分厚くて重そうな体は震えていた。
ミーシアの尻尾が下がり、足から力が抜けていく。
そのとき遠くから、声が聞こえた、あれは狼の遠吠えだ。
それも一匹じゃない。狼の群れがこっちに近づいてきているのだった。
この山は狼の山だ。イノシシは遠吠えが近づいてくるのを聞くと霧の中に逃げ出した。
イノシシの足音はすぐに聞こえなくなった。
息を切らしている自分に気が付いた。すぐに震えは止まりそうになかった。
気が付いて、ミーシアは樹の弦を下してガエルドに噛ませた。
力いっぱい引いてなんとかガエルドを引き上げようとした。
そして、もちろんガエルドも必死で崖を登った。
なんとかガエルドは上まで登りきると、並んでその場に倒れこんだ。
遠くの空から夜明けの青白い光が近づいてきているのが判った。
ミーシアが息を切らせて倒れこんでいるのを間近で見てガエルドは初めて気が付いた。
「おまえはきつねだったのか」
目の前の茶色の毛皮、白い腹。
これは狼ではなかった。白染んできた空の下でならガエルドの衰えた目でも
ミーシアがきつねだという事が判る。
「おまえ、俺に食われるとは思わなかったのか」
ガエルドは言った。ミーシアは最初は怖かったが、いまは平気だった。
「僕はガエルドが好きになった」ミーシアは一瞬を目を細めたが、すぐに厳しい目になった。
「甘いぞ、ミーシア。おれは狼だ。きつねを襲う事だって有る。この距離ではもうお前は俺から逃げられない」
舌なめずりをしてガエルドはミーシアを見た。
「勘違いするなよ、おれは今までお前の事を狼の子供だと思っていた。だがお前はただの狐だ。おれに食われろ。おれは生きるためにお前を食うのだ。悪いか?」
ガエルドは牙をむいた。前足で直ぐ隣のミーシアの腹を押さえた。
ちょんと載せただけなのに、ミーシアはもう身動きができなくなった。
そのときミーシアは、いまから自分が殺されるのだと初めて判った。
「どうして、せっかく友達になったのに」
「いいか、山の掟に例外はないんだ。狼はきつねを襲う。大抵のきつねは狼から逃げられない。だからお前は俺にきつねだとバレない間に霧に紛れてさっさと逃げていれば良かったんだ。狼ときつねは友達になれない。それは生きるためには仕方の無いことなんだ。イノシシを仕留め損なった狼は隣の子ぎつねで満足するだろう。それが山の掟だ。もう今頃わかっても遅いがね」
鋭い牙が真っ赤な口の中に見えた。ミーシアを押さえた腕に力がこめられた。息ができない。
もう死ぬんだ。これが山の掟なんだ。
ミーシアがそう思ったとき、数匹の動物の駆ける足音が近づいてきた。
それは狼の足音だった。