第3話
イノシシは一頭だけだった。 その姿は霧の向こうにかすかに見えていた。まだ、こちらには気付いていない。
ガエルドが横目でミーシアを見た。そして全く音を立てずにガエルドが擦り寄っていく。
ミーシアの目には前足も後足も動いているように見えなかった。
風に枯葉が吹かれて行くように何もかも自然にイノシシに近づいていくのだった。
狼に襲われたら逃げられない訳である。
ミーシアの目の前で狼の狩りというものが行われる、そして見まねで習いながら同じようにイノシシに近づいていった。
狩が成功するとか、この後どうなるかとか考える事はできなかった。
息を殺し続けた。緊張で気が遠くなりそうだった。
もう自分がキツネだとか狼だとか、そんな事は関係なかった。
これが命のやり取りをするという事になのだろう。
霧のせいか、風下だからなのか、近づいてもイノシシは気づかなかった。
ひとっ跳びでイノシシに飛びかかれる場所まで近づくのはさすがのガエルドでも無理だ。
だから、ガエルドは残り3歩で飛びかかれる所まで近づけば良いんだとミーシアに話していた。
そしてついにガエルドはイノシシに飛び掛った。
折りたたんだ足を体の倍くらいに伸ばすと、音もなくガエルドは空中に飛び上がった
霧の中で風を切る音だけが聞こえた。イノシシは風切り音に気づいて身構えた。
だが霧なかには何も見えない。ガエルドはまだ霧の中だ。
次にイノシシが見たのは目の前の霧の中から突如現れた一匹の手負い狼の姿だった。
ガエルドはまっすぐにイノシシの首を狙っていた。急所だからだ。
寸でのところでイノシシは身を引いてガエルドの牙をよけた、だがその爪はイノシシの背中を
捕らえてイノシシをなぎ倒した。夜の闇の中で黒いものが飛んだ。
だがミーシアにもそれが血しぶきなのだと分かった。イノシシが体を振り、牙を起こして懸命にガエルドを追い払おうとしていた。下手に背を向けたら負けだと判っているかのようだった。負ける事は死ぬことである。
ミーシアも駆け出した。目の前のイノシシと狼の戦いに子キツネのミーシアが混ざっても自分が怪我をするだけである。だが血しぶきを見てから何かがミーシアの中で破裂したのだ。
ガエルドはイノシシの首を狙っていた。だが霧と殆ど見えない目のおかげで狙いを付け損なっていた。
そこに駆けつけたミーシアの体に何かがぶつかってきた。
ガエルドの体だった。イノシシは必死になってガエルドを蹴り飛ばしたのだった。
イノシシは目を血走らせて牙を向けた。ミーシアの事も睨み付ける。こんなイノシシの目は見た事がなかった。
ミーシアはイノシシがこんなに恐ろしいものだとは知らなかった。
イノシシは不意に数度まばたきした。ガエルドと、ミーシアを、なにか不思議なものを見るような目で見た。
その時ガエルドが脚に絡まった草を振りほどいた。その隙をみてイノシシは踵を返そうとした。
この霧の中だ逃げられたら直ぐに見失ってしまう。
「挟み撃ちにするぞ」 ガエルドはミーシアに言った。生きるためだ。
ガエルドはイノシシが走る谷側に回りこんで前に出ようとした。
ミーシアが後ろにいるからイノシシは逃げられない。
だが、どうだろうか。そのとき猪は体の小さな自分の方に向かってくるのではないだろうか。
ミーシアは震えた。でも感じたのは恐怖だけではなかった。
胸の奥に、何かが吹き出しているのを感じた。昨日まで知らなかった感情だった。
イノシシの後足には気をつけろ、それと牙もだ。ミーシアの中でもう一人の自分が言った。
さっきのガエルドみたいに上から飛び掛って背中に食らい付くんだ。
足を止めれば、ガエルドと二人でイノシシを倒せる。
イノシシにまさに飛び掛かろうとしたそのとき、ミーシアの目の前でガエルドが消えた。
霧の中ではない。 崖の淵が崩れてそのまま下に転落したのだ。
「ガエルド!」ミーシアは、崖淵に駆け寄った。