第一章「エルムの里」 第一節 村への道
翌朝、二人は夜明けとともに出発した。
空の東端が白み、鳥の声が一斉に増した。
ユナが先に立って荷物をまとめ、焚き火の残り火を土で丁寧に消した。
火の消し方も手際よかった。
燃え残った薪を確認し、煙が出なくなるまで土をかけてから、初めて立ち上がった。
旅慣れた動作だ、と真は見ていて思った。
一人で旅をしてきた時間の長さが、そういう細かい動作の一つ一つに出ている。
真は制服のポケットを確認した。
メモ帳、ペン、スマートフォン、財布。
それだけが今の真の全財産だ。スマートフォンは相変わらず圏外だが、時刻は動いている。
この世界の時間と日本の時間が連動している保証はないが、少なくとも七時間は経過したことになっている。
昨夜の野営から、一応の睡眠は取れた。
二時間の見張りを終えてユナに交代し、その後は横になって眠った。
森の地面の上で眠るのは初めてだったが、疲労が勝って思ったより深く眠れた。
「行こう」とユナが言った。
二人で歩き始めた。
朝の森は昨夜より明るく、木々の間から差し込む光が地面に斑模様を作っている。
草に露が残っていて、足元がわずかに湿っていた。
ユナが先に立って歩いていく。
草を踏み、木の根を避け、傾斜を登り降りしながら、迷いのない足取りで進む。
真はその後ろをついていった。
ユナの背中を見ながら、昨夜の話を思い返した。
言霊のこと、古代語のこと、ギルドのこと。
情報の量は多かったが、整理できたものと整理できていないものが混在していた。
整理できていない部分の筆頭は、ユナ自身についてだった。
何者なのか、どこから来たのか、なぜ一人で旅をしているのか。
何も分からない。
しかし聞いても教えてもらえないことは昨夜分かったので、今は聞かない方がいいと判断していた。
「道、分かるのか」と真は聞いた。
「方角と太陽と草の向きで分かる」
「俺には全然分からない」
「慣れたら分かる」
簡潔な返事だった。
会話を減らしたいわけではなく、ただ必要のない言葉を使わない人間なのだろうと真は感じた。
コンビニでは、沈黙が続くと不安になって何かを喋りたくなる人間が多かった。
客でも同僚でも。
しかしユナは違う。
言わなくていいことは言わない。
その分、言ったことが確かな重さを持つ。
しばらく無言で歩いた。
森を歩くことに、少しずつ慣れてきた気がした。
昨日の朝は、根に躓き、枝に引っかかり、傾斜で足を踏み外しかけた。
今朝は、そういうことが減っている。
体がこの地面の形を少し覚え始めているのか、あるいは単純に注意が払えるようになっているのか。
どちらにしても、昨日よりはまともに歩けている。
「あれ」とユナが立ち止まらずに言い、右手の草むらに向かって片手を伸ばした。
草の間から小さな実を摘んで、真に差し出した。
歩きながら摘んだ。目を向けながら歩いていなければできない動作だ。
親指の先ほどの、赤みがかった実だ。
「食べられる。甘い」とだけ言う。
受け取って口に入れると、じわりとした自然な甘みが広がった。
強い甘さではない。草と水が凝縮したような、落ち着いた味だ。
砂糖のような一点集中の甘さではなく、全体に広がる甘みで、後味に草の香りが残る。
コンビニで売っているグミやキャンディとは全く違う甘さだった。余計なものが何も入っていない。
素材そのものが甘い、という感じがした。
「うまいな」
「でしょ」
ユナが前に向き直った。
その後ろ姿が、心なしか少し嬉しそうだと真は思った。
背中の角度が、ほんの少しだけ緩んでいるような気がした。昨夜からずっと、ユナは体のどこかに緊張を持っていた。
昨日の男たちに追われた疲れが残っているのか、あるいは見知らぬ人間と一緒にいることへの警戒なのか、判断はつかなかった。
しかしこのわずかな変化が、完全なゼロからの変化だったので、真には意外に鮮明に見えた。
「この実の名前は何だ」と真は聞いた。
「赤木の実」とユナは答えた。
「低地の森に生える木の実で、春から夏にかけて実る。毒はない。ただし食べすぎると腹を下す」
「いくつまでなら大丈夫か」
「十個くらいまでは問題ない」
「ならもう少し食べたい」
「自分で摘んで」
真は周囲を見渡した。
言われて初めて気づいたが、道の左右に同じような低木が点在していた。
赤い実が見えた。
少し歩いて、手の届く高さについている実を二つ摘んだ。
口に入れる。さっきと同じ甘みだ。
「料理に使えるか」と真は聞きながら歩いた。
「生で食べるのが一般的だ。でも熱を通すと形が崩れて汁になる。それをパンに塗ることはやる」
「ジャムみたいな使い方か」
「ジャム?」
「甘い果物を煮詰めて、パンに塗って食べるやつだ」
「それに近い」とユナは言い、少し考えてから続けた。
「もっと甘くしたいなら、蜂蜜を混ぜると合う。この辺りの山蜂の蜜は少し酸味があって、赤木の実と相性がいい」
「それは美味そうだ」
「食べたことある?」
「ない。今の話を聞いて想像しただけだ」
ユナが少し間を置いた。
「……想像で美味そうと分かるんだ」
「料理をする人間はそういうものだと思う。食材の組み合わせを聞いて、頭の中で試す」
「変な能力ね」
「料理に特別な能力はいらない。慣れと観察だと思う」
「そういうもの?」
「そういうもの」
しばらくまた無言で歩いた。
しかし今度の沈黙は、最初のものより少し柔らかかった。
同じ沈黙でも、種類が違う気がした。
互いに何も言わないけれど、何かを共有している感じがある。
うまく言葉にできないが、そういう感じがした。
一時間ほど歩くと、木々が薄くなってきた。
林の向こうに空が見え始め、青い色が広がる。
ここ一時間、木に覆われた薄暗い道を歩いてきたので、その青が目に鮮やかだった。
空はただの空だが、久しぶりに広い空を見た、という感覚がある。
そこを抜けると、緩やかな丘の斜面に出た。
丘の下に、集落が見えた。
石造りの家が十数軒、なだらかな地形に沿って建ち並んでいる。
全て同じ形というわけではなく、それぞれが少しずつ違う大きさ、少しずつ違う高さを持っていた。
統一された規格ではなく、それぞれが自分の必要に合わせて建てた家を、時間をかけて積み重ねてきた集落の形だ。
煙突から煙が上がり、周囲に畑が広がり、朝の作業をしている人影がいくつかある。
木の門が開いており、そこまでの道に轍が深く刻まれていた。
「エルムの里」とユナが言った。
「小さい村だけど、冒険者ギルドの支部がある」
「こんな規模でも支部があるのか」
「冒険者が多いから、小さい村でも支部だけは置く方針らしい。本部は大きな街にある」
「なぜこんな小さい村に冒険者が集まるんだ」
「この辺りの森には薬草が多い。採取の依頼が常にある。それと、少し離れた場所に採掘できる鉱山がある。そういう環境が冒険者を呼ぶ」
「なるほど。経済が回っているんだな」
「小さくても、一応は」
丘を下りていく途中で、真は坂の角度と集落の見え方が変わっていくのを観察した。
最初は全体が見えていたものが、下りるにつれて個々の建物の詳細が見えてくる。
屋根の素材、窓の形、壁の色の違い。
近づくほどに、村が一つの生きた場所として見えてくる。遠くから見たときは絵のようだったが、近づくと匂いがあった。
朝の炊事の煙の匂い、家畜の匂い、土の匂い。
丘の途中に畑があり、その横で老人が土を耕していた。
真を見て一瞬目を細めてから「旅人かね」と言った。
「はい。一泊お世話になれる宿はありますか」
「ギルド支部の横に宿がある。行けば分かる」と老人は言い、また作業に戻った。
それだけだった。
黒い髪と黒い目への反応がなかったわけではない。
目を細めたのは、珍しいものを見たからだろう。
しかし追及はしなかった。
旅人を珍しい目で見ながらも、必要なことを答えて終わりにする。
その距離感が、慣れた感じがした。この村には旅人や冒険者が定期的に来るのだと分かる対応だった。
村に入りながら、真は周囲をゆっくり見渡した。
石畳の路地が中央に向かって続いていて、その両側に家が並んでいる。
木の扉には年季が入っていて、表面に使い込んだ光沢がある。
軒先には干し草束が下げられていて、薬草と思われる植物を束ねたものも見えた。
大きな犬が一匹、路地の端でのんびり寝転んでいる。
人間が近づいても動かない。
子供が二人、何かを追いかけながら走り回っている。
笑い声を上げながら、細い路地の間を縫うように走る。
どこかで鶏が鳴いた。
お世辞にも整然とした村とは言えないが、そのがさつさが生きている感じをそのまま表していた。
ところどころに花の鉢が置かれていて、色とりどりの花弁が朝の光を受けていた。
白と青と黄色の花が混ざって、窓辺に並んでいる。
管理している人間の好みが反映されている。
誰かがこれを選んで、この位置に置いた。
そういう痕跡が、石畳の路地に沿って続いている。
真が読んできた話の中の中世ヨーロッパ風の村、そのままだった。
しかし実際に立って見ると、その密度が違う。
石の重さ、土の匂い、人の声の重なり。
全てが本物の質量を持って真の周囲に存在していた。
絵や写真では伝わらない、「そこにある」という確かさがあった。
「懐かしい気がする」と真は呟いた。
「来たことがないのに?」とユナが振り返った。
「本で読んだことがある」
ユナはその答えに首を傾けたが、追及はしなかった。
真は歩きながら、この感覚の正体を考えた。
懐かしい、というのは正確ではないかもしれない。
来たことはないし、見たこともない。
しかし何かが馴染む感じがある。
コンビニの蛍光灯の下に五年間立ち続けた自分に、こちらの方が合っている気がする。
それを「懐かしい」と感じたのかもしれなかった。
あるいは、こういう場所で生きることを、ずっと望んでいたのかもしれない。




