第五節 ユナ
陽が傾き始めていた。
木々の間から差し込む光が、午前中の真上からの角度ではなく、横から射し込む橙色になっていた。
歩き始めてどれくらい経ったのか、正確には分からない。
スマートフォンの時計は動いているが、この世界の時間と日本の時間が一致している保証はない。
ただ体感として、一時間か二時間は歩いた気がした。
ユナが立ち止まった。
「ここで一晩過ごす」と言った。
真が周囲を見ると、木々が少し開けた場所に出ていた。
直径七、八メートルほどの小さな空き地だ。
真が最初に目覚めた場所より小さいが、同じように円形に近い。地面が平らで、風も通りにくい。
野営に向いている場所を選んでいるのだと分かった。
「村まではまだ遠いのか」
「暗くなってから歩くのは危ない。
ここで夜を明かして、明日の朝早く出た方がいい」
「危ないというのは、魔物か何かがいるのか」
「夜は魔物の活動が活発になる。昼間は出てこない種類のものが出てくる。
私一人なら何とかなるかもしれないけど、あなたがいると難しい」
「俺が足を引っ張るということか」
「今の状態では、そう」とユナは言い、荷物から薪になりそうな枝を探し始めた。
答えが正直すぎて笑えなかったが、事実だとも分かった。
「手伝える」と真は言った。
「火を起こすことはできないが、枝を集めることくらいはできる」
「じゃあ集めて」
言われた通り、真は周辺を歩いて枯れ枝を集め始めた。
歩き回りながら、足元の枝の太さと乾燥具合を確認して、使えそうなものを腕に積んでいく。
コンビニの品出しで棚の在庫を確認する要領で、必要な量を判断した。
全部で腕一杯になったところで戻ると、ユナがすでに細かい枯れ葉を集めて円形に置いていた。
「いい量」とユナは言い、枝を受け取った。
革の小袋から小石を二つ取り出し、慣れた手つきで火花を散らした。
一度目で煙が出た。
二度目で枯れ葉が燃え始めた。
細い枝を足して、少しずつ太い枝を加えていく。火が安定するまでの手順に無駄がなかった。何百回と繰り返してきた動作の確かさがある。
火が落ち着くころには空が赤く染まっていた。
ユナが革の小袋から黒パンと干し肉を取り出した。半分を真に差し出す。
「食べて。少ないけど」
「お前の分だろ」
「二人いるから半分。当然でしょ」
断りにくい言い方だった。文句を言う余地のない論理だ。
真は受け取って齧った。
固い。
味は薄い。
しかし空腹には確かなものが詰まっていく感じがあって、悪くはなかった。
干し肉は塩気があって、黒パンの薄味とよく合う。シンプルだが食べ物の基本的な条件は満たしている。
炎を挟んで、二人で食べた。
しばらく無言だった。
火の音と遠くの虫の声だけが続く。真は黒パンを小さく千切りながら食べた。
急ぐ必要はなかった。
今夜はここにいる以外に選択肢がない。
「名前、もう一度聞いていいか」と真は言った。
「ユナ。それだけ」
「苗字は」
「ない。この世界では苗字を持つ人間の方が少ない。貴族か一部の商人くらいしか持たない」
「そうか。俺は木下真だ。木下が苗字で、真が名前になる。この世界では変な感じがするかもしれないが」
「変じゃない」とユナは言い、黒パンを齧った。「名前がある、それで十分だと思う」
「そういうものか」
「そういうもの」
また少し沈黙があった。
真はぽつりぽつりと話し始めた。
日本という国から来たこと。
コンビニという店で夜中に働いていたこと。
特に何もない毎日を送っていたこと。
なぜここに来たのかはまったく分からないこと。
自分の言葉が何かをしたように感じるが、何をしたのかも分からないこと。
話しながら、自分でも整理されていく感じがあった。
声に出すことで、頭の中でばらばらになっていた情報が並び始める。
コンビニのバックヤードで独り言を言っていたのと似た感覚だが、聞いている人間がいることが違う。
ユナは黙って聞いた。
口を挟まず、ただ火の向こうから目を向けながら聞いていた。
相槌もなく、驚く様子もなく、ただ聞いていた。
その聞き方が、かえって話しやすかった。コンビニの社員研修で「お客様の話を聞くときはうなずきながら」と教わったが、そういう技術的な聞き方ではない。
ただ、話が終わるまでそこにいてくれる、という聞き方だった。
「笑わないんだな」と真は言った。
「笑う理由がない」とユナは答えた。
「転移者の話は本に載ってる。あなたの話が特別おかしいわけじゃない」
「本に載ってるのか」
「古い書物にいくつか。
別の世界から人が来た記録が残ってる。
滅多にないことだけど、ないわけでもない」
「どんな記録だ」
ユナが少し考えてから答えた。
「来た人間がどういう力を持っていたか、どういう経緯で来たか、この世界でどうなったか。
記録の形は様々だけど、共通しているのは、どの転移者も何かしら特別な力を持っていたということ」
「特別な力」
「この世界にいる人間が持っていないような力。あなたの場合は、さっきのあれがそれに近いのかもしれない」
「あれが何なのかが分からない」
「ギルドに行けば鑑定できる。自分の力の正体を知ることが先だと思う」
真は焚き火を見た。
炎が揺れている。
揺れるたびに影が動く。
「ユナは何者なんだ」と真は聞いた。
「冒険者か」
「最近なった」とユナは答えた。
「一人で旅をしている。連れと合流するまで、しばらくこの辺りにいる予定だった」
「連れとはぐれたのか」
「はぐれたわけじゃない。後から来る予定の連れを待っていた。でも時間がかかっていて」
「その間に今日みたいなことが起きた」
「起きた。運が悪かった」
「運が悪かったのか」
「そう。あなたがいなければもっと悪かったけど」
「それは大変だったな」
「大変だった」とユナは言い、短く答えてから少し間を置いた。
「ありがとう。さっきも言ったけど、改めて」
「いいよ」と真は言った。
「俺も右も左も分からないところで助けてもらってる」
「お互い様ね」
「お互い様だな」
それから少し、また静かになった。
火の音が続いた。
「まことは料理が得意なの?」とユナが少し経ってから聞いた。
「一通りはできる。母親が料理上手で、それを見ながら覚えた」
「コンビニのご飯とは違うものを作るの?」
「全然違う。コンビニの食べ物は工場で作ったものを温めるだけだ。俺が作るのは素材から作る」
「素材から」とユナは繰り返した。
何かを考えるような間があった。
「この世界の食材は美味しい。でも料理として食べられるものは限られてる。旅人が食べるのは干し肉と黒パンが中心だ」
「さっきのがそれか」
「そう。不味くはないけど、毎日続くと飽きる」
「材料さえあれば、もっと違うものを作れるけど」と真は言った。
「この世界に日本の食材があるかどうかは分からないが」
「日本のご飯ってどんな感じ?」
真は少し考えた。何から話せばいいか分からなかった。
「白米と言って、白い粒の穀物があって、それを炊いて食べる。
汁物を一緒に作って、おかずをいくつか。
シンプルだけど、食材の組み合わせで無限に変わる」
「白い粒の穀物」とユナは繰り返した。
「麦の白いやつか?」
「もっと丸くて、小さい。食感が全然違う」
「聞いただけじゃ分からないね」
「食べれば分かるが」
「食べさせてくれる?」
「この世界でそれが手に入ったらな」と真は言った。
ユナが少し考えてから言った。
「王都近くに穀物の集積地がある。色々な食材が集まる市場もある。もしかしたらそこにあるかもしれない」
「そこまで行くのか、あなたは」
「そっちに向かう予定だった。連れと合流してから」
「じゃあいつか、見つかったら教えてくれ」と真は言った。
「そのときはご飯を作る」
しばらく間があった。
「……楽しみにしておく」
ユナが小さく言った。
火の向こうで、その横顔がわずかに和らいだように見えた。
先ほどまでの、何かを堪えているような緊張が少し解けていた。
十二か十三の外見に見えるが、内側に抱えているものの重さがそれより上な気がした。
夜空に星が出始めていた。
真が日本で見たどんな夜空よりも、星の密度が高かった。
白い帯が空を横切っているのは銀河だろうと思った。
都会では光害で見えない。
こんなに星が多い夜を見たのは、生まれて初めてかもしれなかった。
「星が多い」と真は言った。
「いつもこのくらいある」とユナは言い、空を見上げた。
少し顎を上げた横顔が、星の光を受けて白く見えた。
「都市に行くと減る。街の明かりで消えていく」
「日本と同じだ」
「日本の空も同じなの」
「同じだ。街が明るすぎて、星が見えなくなる」
「それは、寂しくない?」
「寂しいという感覚がなかった。見えない空が当たり前だったから」
「でも今は見える」
「今は見える」と真は言い、空を見た。
「こんなに星があったんだな、という感じがする」
ユナが何も言わなかった。
ただ同じ空を見ていた。
二人で同じものを見ている、という感覚があった。
コンビニで五年間、誰かと同じものを見たことがあっただろうかと、真は思った。
「一つだけ聞いていいか」と真は言った。
「何」
「俺を助ける理由、あるか。
一緒に村まで連れて行ってくれる気があるかどうか、ということだけど」
ユナはしばらく黙った。
焚き火の光が顔に揺れている。
答えを考えているのか、どこまで話すか考えているのか、どちらか判断できなかった。
「さっきあなたが来なければ、私は困った状況になっていた」とやがてユナは言った。
「それに対して礼をする方法としては、悪くないと思う」
「助けてくれる、ということか」
「村まで案内する。その先は分からない。一緒に行くかどうかは、着いてから考える」
「十分だ。ありがとう」
「礼はいい」とユナは言い、火の方に視線を戻した。
真は空を見上げた。
コンビニの天井ではなく、本物の夜空だった。
どこへ向かうのかも、この先どうなるのかも、何もかも分からない。
しかし今夜、焚き火がある。
食べるものがある。
隣に人がいる。
それだけで、バックヤードの椅子に座っていたときよりずっと、何かが動いている気がした。




