第三節 屋台を歩くユナ
祭りの前日、準備の手伝いをしてから、夕方に広場を二人で歩いた。
朝から里の準備作業が続いていた。
真は村長に「休んでいてください」と言われていたが、じっとしていられなかった。
結局、軽い作業を見つけては手を出した。
飾り付けの微調整、道具の移動、子供たちに頼まれた遊びの相手。
ガルドは朝から里の外れにいる農家を訪ねていた。
顔見知りの農家があるらしく、旧交を温めながら情報を集めているということだった。
夕方になって、ガルドが戻る前に真はユナを誘った。
「広場を少し歩かないか。屋台が出始めているみたいだから」
ユナが少し間を置いた。考えているのか、反応を探っているのか。
「行く」と言った。
一語だったが、断らなかった。それがユナの「行く」だ。
広場に出ると、前日より屋台の数が増えていた。
まだ本番前だから全部ではないが、試し売りの屋台がいくつか店を広げ始めていた。
夕方の光の中で、炭火の煙が上がっている。焼いた肉の匂い、甘い菓子の匂い、香草を炒った煙の匂い。それらが混ざって、祭りの前の独特の空気になっていた。
真は歩きながら屋台を見た。
見慣れない食べ物が多い。この里の特産らしい食材を使ったものが並んでいる。
どれも素朴な形をしていて、精巧さより量と温かさを重視した料理だ。村の祭りの食べ物という感じがした。
ユナが少し早い足取りになっている気がした。
気のせいかもしれない。ユナのいつもの歩き方と大きくは変わらない。
しかし一歩一歩が、普段より少し軽い。
前に向かう重心が、普段より少し強い。言葉で説明するなら、そういう違いだ。
「気になるものがあるか」と真は言った。
「別に」
「屋台の前で立ち止まってるけど」
「見てるだけ」とユナは言い、また歩き始めた。
立ち止まっていたのは、焼き菓子の屋台の前だった。
丸い形の菓子で、表面が焼かれて少し茶色くなっている。
蜜が塗られていて、光を反射している。香草の甘い香りが漂ってきていた。
真は財布を出した。
テムザリアでの仕事の報酬の残りと、王都でシドウの工房を手伝った分の礼金が少し手元にある。贅沢な使い方はできないが、屋台の菓子一つ二つなら問題ない。
「何か食べるか。ガルドに借りた分の一部は返ってきたから、今月は少し余裕がある」
「……あの焼き菓子」とユナが指差した。
迷いがなかった。「別に」と言っていた人間が、指差す速さに迷いがなかった。
さっき立ち止まって見ていたのは、やはり食べたかったからだ。
「買う」と真は言い、屋台に近づいた。
「いくつか」と屋台の人間が聞いた。
「二つ」
銅貨を払って受け取った。温かかった。焼きたてだ。蜜の香りが近くで強く来る。
ユナに渡すと、両手で受け取った。両手で受け取るのは、熱いからだ。
それだけのことだが、両手で受け取るユナの動作が何か丁寧な感じがした。
一口食べると、ユナの目が少し細くなった。
意識的な動作ではなく、反射だ。
おいしいものを食べたときに体が動く感触が顔に出た。
ユナが感情を外に出すことが少ない人間だということを考えれば、この反射は珍しい部類に入る。
「美味しい」とユナは言った。
それから一秒後に「別に普通だけど」と付け加えた。
「最初の感想の方が本当だろ」と真は言った。
「どっちでもいい」
「最初に出た感想の方が本当の感想だ。後から付け加えた感想は修正だ」
「修正した理由は」
「なぜ修正した」
ユナが少し間を置いた。
「……美味しいって言うのが、恥ずかしいわけじゃないけど」
「どういうわけだ」
「はしゃいでいるみたいで」
「はしゃいでいて何が悪いんだ」と真は言い、自分の菓子を一口食べた。
確かに美味しかった。表面は少し固くて、中が柔らかい。
蜜の甘さと香草の香りが一緒に来る。
シンプルだが、丁寧に作られている。屋台の料理の中でも、これは良い方だ。
「はしゃいでいると思われる」とユナは言い、また菓子を食べた。
「俺は思わない」
「他の人間が」
「他の人間が何を思おうが、美味しいものは美味しいだろう」
ユナが少し黙った。菓子を食べながら、真の言葉を考えているのかもしれない。
「まことは」とユナは言った。「食べ物に素直だな」
「素直でない理由がない」
「プライドとか」
「料理に対してプライドを張る意味が分からない。美味しければ美味しいと言う。コンビニの菓子パンを一人で食べていたときも、美味しいと思ったら思っていた。声に出す相手がいなかっただけだ」
ユナが少し真を見た。
「声に出す相手がいなかった」という言葉が引っかかった、という目だ。しかし何も言わなかった。
二つ目の菓子を持ったまま、ユナが歩きながら食べている。その横を真が歩いた。
広場を進むと別の屋台が続いた。干した果物を串に刺したもの。
煮込んだ豆の塩味のもの。香草を包んで揚げたもの。
それぞれが違う匂いを出していて、夕方の空気の中に混ざっている。
ユナが立ち止まる回数が増えた。屋台の前で立ち止まり、見て、また歩く。
何かを買おうとはしていない。ただ見ている。見ることが楽しい、という歩き方だ。
「全部気になるか」と真は聞いた。
「別に全部は」とユナは言い、立ち止まった屋台を見た。
「この干し果物、初めて見る」
「買うか」
「いい」
「買おう」
「いい、と言った」
「見てる顔が「欲しい」と言ってる」
ユナが真を見た。少し不満そうな目だった。しかし反論しなかった。
「一つだけ」とユナは言った。
干し果物を一つ買った。酸味と甘さが混ざった味だった。
ユナが食べて「これは普通」と言った。最初から「普通」と言ったから、本当に普通だったのだろうと真は思った。さっきの「別に普通だけど」との違いが出た。
「普通とすごく美味しいの区別が分かった」と真は言った。
「なんで」
「さっきは修正が入った。今は修正がなかった。だから今回のが本当の普通という評価だ」
ユナが少し真を見てから、前を向いた。何かを言おうとして、やめた。
広場の奥の方に進むと、子供向けの遊びの屋台があった。
輪投げに近いもの、的当てに近いもの、玉を転がして穴に入れるもの。
子供たちが列を作って並んでいる。
ユナが立ち止まった。
輪投げの屋台の前だった。見ているだけで、参加しようとしていない。
しかし立ち止まっている。
「やるか」と真は聞いた。
「子供のやつだから」
「大人がやっても問題はないだろう」
「列に並んでいるのが全員子供だ」
「俺もやるから二人で並べばいい」
「やりたくない」
「本当に」
「……子供に混じってやるのは恥ずかしい」とユナは言い、また歩き始めた。
真は追いかけながら思った。
屋台を楽しんでいるが、楽しんでいることを表に出す場面が来ると、修正が入る
楽しんでいる自分を見られることへの照れがある。
しかし照れを全部制御できるわけではないから、目や足の動きに出る。
それがユナだ、と真は思った。この旅を通じて、少しずつ分かってきたことだ。
「こういう時間がスローライフというやつかな」と真は言った。
「祭りの準備はスローじゃない」とユナは言い、歩きながら屋台を見た。
「夕方に屋台を歩くのはスローだろ」
「祭りの前日で、明日は料理を大量に作る。それのどこがスローか」
「今この瞬間だけでいい。この瞬間はスローだ」
「……まあ」とユナは言い、少し間を置いた。
「悪くないね」
「そうだな」
子供たちが二人の横を駆け抜けていった。笑い声が残った。
輪投げの屋台の方から歓声が上がった。誰かが当てたらしい。
広場全体が夕方の光の中で、祭りの前の賑やかさを持っていた。
真は少しだけ深呼吸した。
夕方の空気が肺に入ってくる。
炭火の煙の匂いと、菓子の甘い匂いと、草の匂いが混ざっている。この世界の空気だ。日本の空気とは違う。しかし今の真には、この空気の方が馴染んでいる。
コンビニの夜、一人で椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた時間と、今この時間と、同じ一人の人間が過ごしているとは思えない。
あのときも今も、自分は自分だ。同じ人間が同じ時間の流れの中にいる。
しかしあのときと今では、時間の質が違う。
あのときの時間は流れていたが、積み重なっていなかった。
今の時間は積み重なっている。その違いが、何かの根本的な違いだと思った。
「何を考えてる」とユナが言った。
「コンビニのことを少し」
「なんで今」
「今の時間と比べていた」と真は言い、広場を見た。
「今の方がいい、という話だ」
ユナが少し真を見た。確認している目だ。
「そうか」とユナは言い、また屋台の方を向いた。
夕方の光が長くなっていた。屋台の明かりが灯り始めていた。
一つ、また一つと光が増えていく。広場が、夕暮れの中でより明るくなっていく。
「もう一つ何か買うか」と真は言った。
「いい」
「さっき「いい」と言ったときは買った」
「今回は本当にいい」とユナは言い、歩き始めた。
「お腹が十分になってきた」
「それは正直な理由だな」
「正直な理由しかない」
二人で広場の端まで歩いた。
里の外れに近い場所まで来ると、屋台の音が少し遠くなった。広場全体が見渡せた。
夕暮れの中で屋台の明かりが並んでいる。人が動いている。子供が走っている。
大人が笑っている。祭りの前日の里が、その光景の中にある。
「明日はもっと賑やかになるな」と真は言った。
「本番だから」とユナは言い、広場を見た。
少し間があった。
「楽しみ」とユナは言った。
修正がなかった。「楽しみだけど別に」という付け加えがなかった。
ただ「楽しみ」と言った。一言だったが、その言葉が広場の夕暮れの中に素直に出た。
真は何も言わなかった。言う必要がなかった。
ユナが「楽しみ」と言える夕方が、ここにある。それだけで十分だった。
宿に戻る道を二人で歩いた。広場の明かりが背後で増えていく。
前方に宿の灯りが見えてくる。夕飯の匂いが漂ってきた。
「明日、早起きする」と真は言った。
「何時」
「日が出る前には炉に火を入れたい。だから暗いうちに起きる」
「起こしに行く」とユナは言った。
「起こさなくていい。自分で起きる」
「起こしに行く」とユナは繰り返した。
「自分で起きられても起きられなくても、確認しに行く」
「なぜ」
「心配だから」と言い、ユナは宿の扉を開けた。
「寝過ごしたら大変だから」
真は少し間を置いてから扉の中に入った。
心配、という言葉がユナの口から自然に出た。修正なしに出た。
それがこの夕方の最後の出来事として、真の頭の中に残った。




