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第七章「村祭りとスローライフの幻想」 第一節 エルムの里からの知らせ

ダーレムに戻ってから、数日が経っていた。

王都からの帰路は三日かかった。

テムザリアへ向かうときに通った街道を逆方向に辿り、丘陵を越えてダーレムに入った。

帰り道は行きと違う景色に見えた。同じ道でも、通る方向が変わると見え方が変わる。

あるいは見る側が変わったのかもしれない。

王都に向かったときの自分と、王都から帰るときの自分は、同じではない。

その差がどこにあるかを言葉にするのは難しかったが、確かに違いがあった。

リリアの研究室に荷物を下ろし、宿を確保して、ダーレムでの生活が始まった。

一日の流れが自然に決まっていった。

午前中はリリアの研究室で古代語と日本語の照合作業をする。

真が日本語の単語や文を書き、リリアがそれを古代語の文書と照合する。

一致するものが増えてきた。完全な一致ではないが、元が同じ言語だったという証拠が積み重なっていく。

午後はガルドと市場や外周を歩き、街の情報を集めながら体を動かす。

夕方に宿に戻り、夕食を作る。ユナが食材の調達を担当するようになっていた。

市場での目利きが真より確かで、同じ金額でより良い食材を選んでくる。

どこで覚えたのかと聞くと「本で読んだ」と答えた。

本で読んで実際にできる、という人間だ。

夜はメモ帳を開いて記録をつける。

その日分かったこと、考えたこと、言霊の練習で気づいたこと。

日本語で書く。この世界の誰にも読めない言葉で、自分だけの記録を積み重ねていく。

そういう日々が数日続いたある朝、宿に使者が来た。

エルムの里からだった。

使者は若い男で、里の冒険者ギルドに所属している人間らしかった。

ガルドに書状を渡し、礼を言って去った。

ガルドが書状を開いた。

「エルムの里の村長から」とガルドは言い、内容を確認した。

「収穫祭が来週ある。真たちを招きたいという内容だ」

「招待状か」と真は言い、朝食の手を止めた。

「そうだ。里の収穫祭は年に一度の大きな祭りだ。珍しいことだな」とガルドは言い、書状を畳んだ。「村長は滅多に外の人間を祭りに呼ばない。よほど気に入られたのか、あるいはよほど縁起担ぎをしたいのか、どちらかだな」

「断る理由はないが、わざわざ戻るほどのことか」と真は言った。

ダーレムからエルムの里まで、歩けば二日かかる。往復で四日だ。

それにエルムの里に滞在する日数を足せば、一週間近くがかかる。

リリアとの研究が途中で止まる。言霊の練習も続けたいところだった。

「いい経験になる」とガルドは言った。

「この世界の祭りというものを見ておけ。人の集まる場所には情報がある。祭りに来る人間は普段より緩んでいるから、通常では聞けない話が出てくることもある。それに」とガルドは少し間を置いた。「お前さんが里の人間に礼を言うのはまだだろう」

「確かに」と真は言い、考えた。

エルムの里には世話になった。

宿を提供してもらい、最初の依頼の機会をもらい、スライム退治から始まった冒険者としての最初の経験がある。

村長が見送ってくれた朝のことを思い出した。

「また寄ってくれ」と言っていた。あの言葉に、ちゃんと応えていなかった。

「行くか」とガルドが言った。

真がユナを見た。ユナが朝食を食べながら、書状の方を一度見てから言った。

「行きたい」

平坦な声だったが、目に少し期待が見えた。

屋台や祭りの雰囲気に対する、あまり外に出さない種類の期待だ。

ユナが積極的に「行きたい」と言うのは珍しいことだった。

「屋台とか出るのか」と真が聞くと、ガルドが「出る」と答えた。

ユナの目が少し輝いた気がした。

しかしユナは「べつに、移動の途中だから」と言った。

「移動の途中ではないが」と真は言った。

「寄り道だから」

「それが移動の途中と何が違うのか」

「違う」とユナは言い、また朝食を食べ始めた。

「行く気満々だな」

「そういうわけじゃない」

ガルドが低く笑った。真も笑わないようにした。

ユナが気にしているのは、はしゃいでいると思われることだ、と真には分かっていた。

期待していることを知られたくない。

しかし「行きたい」とは言った。そこに本心がある。

リリアに話すと「私は残ります。研究を続けます」と言った。

「ただし」と続けた。

「エルムの里で何か発見があれば教えてください。村人が口伝で持っている言葉の中に、古代語に近いものが残っている可能性があります」

「気をつけて聞いてみる」

「無理に探さなくていいです。ただ、日常会話の中で気になる言葉があれば書き留めておいてください」

「分かった」

翌朝、三人でダーレムを出た。

リリアが見送りに来た。

「気をつけて」と言い、すぐに研究室に戻った。

仕事が待っているからだ。リリアの旅の仕方はダーレムにいることで、真たちの旅の仕方は歩くことだ。どちらも同じ方向に向かっている。

エルムの里への道は往路と同じだった。

街道を南西に下り、農村地帯を抜けて林の道に入る。三日目の昼過ぎには着ける距離だ。

一日目は農村地帯を歩いた。

収穫の季節で、農地の様子が来たときと違っていた。

麦の収穫が終わった後の、刈り取られた畑が続いている。

作物の残り香がある。収穫の時期が過ぎた農地の匂いだ。

農家の前に干された野菜が並んでいて、軒先に作物を結んで吊るした束がある。

「収穫の時期に合わせて祭りをするんだな」と真は歩きながら言った。

「そういうものだ」とガルドは答えた。「この世界では、収穫に感謝する祭りが各地で行われる。時期は地域によって違うが、秋の収穫に合わせることが多い。里ごとに形が違う。音楽があって踊りがある場所もあれば、料理の振る舞いが中心になる場所もある」

「エルムの里は」

「あそこは料理と歌が中心だ。里の人間が手を尽くして料理を作り、広場で食べる。夜に歌を歌う。三日間続く」

「三日間」

「一日目は準備と近隣の農家を招いての前夜祭。二日目が本祭りで一番賑やかになる。三日目が片付けと感謝の儀式だ」

「真が料理を作る、というのはどのタイミングなんだ」

「本祭りの日だろう。一番人が集まる日だ」

ユナが前を歩きながら言った。

「屋台は二日目に全部出る」

「よく知っているな」

「書状に書いてあった」とユナは言い、前を向き続けた。

書状に書いてあった内容を正確に覚えている。

読んだのは一度だけのはずだ。

記憶力が良いのか、あるいは気になっていたから覚えているのか。

どちらかは分からなかったが、後者の可能性の方が真には高く思えた。

一日目の夜は街道沿いの宿場に泊まった。

宿場の食堂で夕食を取りながら、ガルドが明日以降の計画を話した。

真は食事をしながら聞いていた。

ユナは食事を半分食べたところで「眠い」と言い、部屋に戻った。眠くなると素直に言う。眠い、という事実を隠す必要がないと思っている。そういうユナだ。

一人残った真にガルドが言った。

「里に戻ることを、どう思う」

「どう、というのは」

「いい場所だったか悪い場所だったか、ということだ。最初の場所というのは、その後の旅の全体に影響する場合がある」

「いい場所だった」と真は答えた。

「初めての夜を過ごした場所だ。スライムを初めて倒した場所だ。ガルドさんと出会った場所だ。ユナと一緒に歩き始めた場所だ。今思うと、全部がそこから始まっている」

「そうだな」とガルドは言い、酒を一口飲んだ。

「戻れる場所があるというのは、旅には大事だ。出発点に戻れるということが、次に出る勇気を作る場合がある」

「ガルドさんには、そういう場所があるか」

ガルドが少し間を置いた。「あった。今はない」

それ以上は言わなかった。真も聞かなかった。

宿場の夜が更けていった。

翌朝、また歩き始めた。林の道に入ると空気が変わった。

葉の色が変わり始めていた。秋の始まりの、葉の先端から色が変わっていく時期だ。緑の中に橙と赤が混じっている。

「きれいだな」と真は言った。

「秋の林はいい」とガルドが言った。

ユナが上を見ていた。葉の色を見ていた。

見ているだけで何も言わなかったが、足が少し遅くなっていた。

珍しい。ユナは歩くペースが一定で、遅くなることがほとんどない。

しかし今は、林の色を見ながら歩いている。

「好きか」と真は聞いた。

「何が」

「秋の林」

「……まあ」とユナは言い、また前を向いて歩き始めた。

エルムの里が見えてきたのは三日目の昼過ぎだった。

木の門が開いていて、里の中から声が届いてきた。準備の声だ。

人が動いている音と、何かを運ぶ音と、子供が走る音が混ざっている。

祭りの準備が進んでいる里の音だ。

真は門の前に立って、里を見た。

最初にここに来たのは、この世界に転移してから数日後だった。

エルムの里という場所の名前も知らず、冒険者ギルドがどこかも知らず、何も分からないまま歩いてきた場所だ。

今は三ヶ月近く経ちている。それだけの時間で、ここまで来た。

「来たな」とガルドが言い、門の中に歩き始めた。

「来ましたね」と真は言い、後に続いた。

ユナが隣を歩いた。里に入ったとたん、子供たちが寄ってきた。前回も同じだった。

黒い髪と目が珍しくて、子供たちが確認しに来る。

真が「また来たよ」と言うと、子供の一人が「知ってる、餃子の人だ」と言った。

「餃子を作ったのはまだここじゃないんだが」と真は言った。

「前回食べたって村長が言ってた」

「村長がそういう話をするのか」

「毎日言ってる」と子供が言い、また走っていった。

ガルドが笑った。ユナが小さく口角を上げた。

里の中に入ると、準備の活気が肌で感じられた。

屋台の骨格が立てられていて、布が張られていた。

広場の中央に大きな炉が準備されていた。祭りの当日に使う炉だ。

村長が出てきた。前回と同じく、穏やかな顔で出てきた。

「来てくれた」と言い、深く頷いた。

「嬉しいよ。また会えた」

「こちらこそ、お招きありがとうございます」

「一つだけお願いがある」と村長は言い、真を見た。「祭りの日に、この里で何か料理を振る舞ってくれないか。あなたの作る料理を、里の人間に食べさせたい」

「え」と真は言った。

「特別な縁があった旅人に料理を作ってもらうのは、里の言い伝えで縁起がいいとされている。幻の種族の末裔が作った料理を食べれば、来年も豊かな収穫がある。そういう言い伝えだ。嫌でなければ」

「嫌では……ないですが」と真は言い、ユナを見た。

ユナが小さく頷いた。

「材料は何でも用意する、と村長は言ってくれてる」という目だった。

読んでいたのか、それとも村長が手紙にそう書いていたのか。

「分かりました」と真は言った。「何か考えます」

「三日目の本祭りの日に、広場で振る舞ってほしい。どんな料理でも里の人間は喜ぶ。何でも用意するから、欲しいものがあれば言ってくれ」

「ありがとうございます」

宿に案内された。前回と同じ宿だった。宿の主人が「また来てくれたか」と言い、鍵を渡してくれた。部屋に荷物を置いて、真は窓から里を見た。

準備が進んでいる。屋台が立っていく。飾り付けの布が張られていく。里全体が、一つの大きなものに向かって動いている。

何を作ろうか、と真は考え始めた。

材料は何でも用意してもらえる。

しかしこの里の人間が食べたことがないもので、かつこの里の食材を活かしたものがいい。初めて見る料理でも食べやすくて、大人も子供も楽しめるもの。

頭の中で材料の組み合わせが動き始めた。

これが料理を考えるときの感触だ、と真は思った。

コンビニで夜勤をしていたときにはなかった感触だ。

何かを作ることへの、静かな熱が来る。

この感触がある間は、疲れていても頭が動く。

外から子供たちの声が聞こえてきた。

里が祭りの前の活気を持って動いていた。



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