第六節 王都を離れる朝
大臣会議は三日後に開かれた。
真たちは会議に出席しなかった。
王宮内の動きはオリヴィアを通じて伝わってきた。
宿で待ちながら、それぞれが自分のことをしていた。
シドウが工房で作業を続け、リリアが文書を整理し、ガルドが街の情報を集め、真が刻印の練習をした。
午後になって、オリヴィアが戻ってきた。
部屋に入ってきたとき、表情が違った。
いつもの、感情を制御した顔ではなかった。
制御しようとしているが、間に合っていない顔だ。
目が潤んでいた。
「証拠の文書が提出されました」とオリヴィアは言った。
声が少し震えていた。
「サレン侯爵が会議の場で公開し、宰相ドミロの行動が問題として俎上に上がりました。
即日の処断には至りませんでしたが、調査が開始されます。
ドミロは一時的に職務を停止されました」
「よかった」と真は言った。
「よかった、では足りないくらいです」とオリヴィアは言い、口元を一度だけ引き締めた。
感情が出そうになるのを抑えようとしている動きだ。
しかし目には抑えきれないものがある。
「一年間、一人でどうにかしようとしてきた。
証拠を取りに行こうとして、追われて、あなた方に会った。それがここまで来た」
「一人じゃなかったからここまで来た」と真は言った。
「そうです」とオリヴィアは言い、真を見た。「だから、ありがとうと言いたい」
「今回は受け取る」と真は言った。
オリヴィアが少し笑った。
会議の結果を聞いた安堵と、一年間の緊張が緩んでいく感触が、その笑い方に出ていた。
整えられた王女の笑い方ではなく、ただの人間の笑い方だった。
その夜、全員で食事をした。
真が作った。
宿の食材を使って、この旅で覚えたやり方で調理した。
根菜と干し肉と、王都の市場で買った香草を使った炒め物だ。
シンプルだったが、火の通し方とタイミングが良くなっていた。
エルムの里で最初に作ったときより、確実に手が動いていた。
「うまい」とガルドが言い、椀を傾けた。
「材料が良かった」
「いつもそれを言うな」とガルドは言い、また食べた。
「でも本当に材料が良かった」
シドウが「次に会う機会があれば、この料理に合う器を作ってみたい」と言い、椀の形を確認していた。料理を食べながら器を見ている。鍛冶師の目だ。
リリアが「今夜の記録をつけてもいいですか」と聞いた。
いつものことだった。「どうぞ」と全員が言った。
リリアが手帳を出して、食べながら書いた。
オリヴィアが「王都でこういう食事をしたことがなかった」と言った。
「王宮の料理は精巧だが、こういう感じではない」
「こういう感じというのは」と真は聞いた。
「みんなで同じものを食べている感じ、というのでしょうか。
王宮では席が決まっていて、配膳の順番があって、会話の作法がある。
そういうものを全部外したときに、食事はこういうものになるんですね」
「食事はこういうものだと思っていた」
「私には新鮮でした」とオリヴィアは言い、また食べた。
食後、オリヴィアが改まった顔で話し始めた。
「今後のことを話させてください」と言い、全員を見た。
「ドミロの件が決着するまで、まだ数週間はかかります。
その間、私は王都に残ります。父上の状態も確認しなければならない。協力してくれた人間を守る手続きも必要です」
「俺たちはどうする」と真は聞いた。
「それはあなた方が決めることです。ただ、一つお願いがあります」とオリヴィアは言い、真を見た。「エルフの図書館への道筋について、王国として後押しできることがあれば動きます。外交的なルートでエルフ族と交渉することが可能かどうか、調べさせてください」
「それはありがたい」
「言霊師のことを解明することは、あなた個人の問題ではなく、この世界全体に関わる問題だと思っています。王国として関われることがあれば、関わりたい」
「任せる」と真は言った。
「ただし、急がなくていい。お前がやるべきことが先にある」
オリヴィアが頷いた。
夜が更けて、全員が部屋に戻った。
真は部屋でメモ帳を開いた。
今日あったことを書く。
会議の結果。
オリヴィアの顔。
夕食の時間。そ
れぞれを短い言葉で書き留めた。
書きながら、次のことを考えた。
王都での用が片付いた。
宰相の件は侯爵とオリヴィアに委ねた。
エルフの図書館への外交的なルートはオリヴィアが動く。
では次に自分が向かうべき場所はどこか。
言霊師が消えた理由を知る必要がある。
エルフの図書館が目標になる。
しかしエルフの領域に入るためには、それなりの準備が必要だ。
力の水準を上げることも必要だ。まだLv.2だ。
リリアが言っていた。
「Lv.3への段階かもしれない」と。
静かな確信から力が出るようになれば。
今日の会議がその一歩だったとすれば、次はどこで試せるか。
結論は出なかった。しかし焦りはなかった。
メモ帳を閉じて、横になった。
翌朝、オリヴィアが見送りに来た。
宿の前の石畳の上で、一行が荷物を整えている横で、オリヴィアが立っていた。
変装のボロ上着は脱いでいた。
王女としての身なりに戻していた。
そちらの方が、今のオリヴィアに合っていた。
こちらに来た目的が果たされたからだ。
「どこへ向かうんですか」とオリヴィアは聞いた。
「まだ決まっていない」と真は答えた。
「ただ、エルフの方向にはいずれ向かう」
「そのときは知らせてください。何かできることがあるかもしれない」
「連絡する方法を教えてくれ」
オリヴィアが名刺のようなものを渡した。王室の印が入った小さな紙だ。
「ギルドを通じて伝言を送れます。この印があれば、王室への連絡として扱われます」
「使う機会があれば使う」
オリヴィアが頷いた。
それから、少し間を置いて言った。
「まこと、という名前の意味を教えてもらいましたね。真実、本当のこと、という意味だと」
「そうだ」
「あなたはその名前の通りの人でした」とオリヴィアは言った。感想でも褒め言葉でもない、ただ観察したことを伝える言い方だった。
「これからも、そうであってほしい」
「努力する」と真は言った。
「努力しなくてもそうなると思いますが」とオリヴィアは言い、小さく笑った。
握手をした。
オリヴィアの手が、最初に会ったときより落ち着いていた。
追われて走っていたときの手と、今の手が同じ人間のものとは思えないほど、温度が違った。
「気をつけて」と真は言った。
「あなたもです」とオリヴィアは言い、また笑った。
一行が歩き始めた。
石畳の上を、四人の足音が進んでいく。
ガルドが先頭、真がその後ろ、ユナが隣、リリアが少し遅れて続く。
シドウは昨日、自分の仕事のためにテムザリアに戻っていた。
「また刻印の仕事をしに来い」と言い残して去った。
次に会う機会がいつかは分からないが、あるとは思っていた。
王都の商業区を抜けて、城門に向かう道を歩いた。
朝の街が動いていた。
昨日も同じ道を歩いた。
しかし同じ道が違う感触で歩ける。
入城したときと出城するときでは、同じ道の意味が変わる。
何かが終わった後の道だ。
「次はどこへ向かう」とガルドが歩きながら聞いた。
前を向いたまま、全員に向けた質問だった。
「エルフの方向にはいずれ向かう」と真は言った。
「ただ今すぐではない。準備が必要だ」
「準備というのは」
「力の水準を上げること。情報を集めること。エルフの領域に入るためのルートを確認すること。順番に進める」
「どこかで拠点を作るか」とガルドは言い、少し考えてから続けた。
「ずっと旅を続けるより、一時的な拠点を作って、そこから動く方が効率がいい場合がある」
「どこがいい」
「ダーレムがいい」とリリアが後ろから言った。
「私の研究室があります。資料も揃っています。日本語と古代語の照合を続ける環境として、最適です」
「ダーレムか」と真は言い、頭の中で地図を描いた。
「悪くない」
「私もダーレムの方が動きやすい」とリリアは続けた。
「エルフへの外交的なルートを調べるにも、ダーレムの図書館が役立ちます。オリヴィアさんの動きと並行して、学術的なルートからも当たれます」
「決まりだな」とガルドが言い、歩調をわずかに上げた。
「ダーレムに戻る。そこで拠点を作る」
ユナは何も言わなかった。
しかし足が止まらなかった
。反対していない、ということだ。
城門が近づいてきた。入城したときと同じ門だ。
今は出る方向で通る。衛兵に確認を受けて、名前を告げて、外に出た。
城壁の外に出ると、空が広くなった。
建物に挟まれていた空が、一気に開ける。
朝の光が正面から来た。
風が吹いた。
城壁の内側では感じなかった風が、外には吹いている。
草の匂いがした。
街から離れた場所の匂いだ。
「行こう」とガルドが言った。
街道を歩き始めた。
王都ガルディアの城壁が、後ろに遠くなっていく。
真は少し振り返った。
城壁が朝日を受けて明るく見えた。
オリヴィアが今頃王宮に向かっているか、あるいはサレン侯爵と今後の動きを確認しているか、どちらかだろう。
宰相の件が完全に片付くまで、まだ時間がかかる。
しかしそれはオリヴィアがやるべきことだ。
真がやるべきことは別の場所にある。
前を向いた。
「スローライフへの道が遠い」とユナが真の隣を歩きながら言った。
珍しい言い方だった。
ユナの口からスローライフという言葉が出るのが珍しかった。
「遠い」と真は言った。
「ただ、旅は悪くない」
「悪くないね」とユナは言い、前を向いた。
口調が柔らかかった。
いつもの平坦さと少し違う温度があった。
昨日廊下で話したことが、今朝のユナの声の質を少し変えていた。
変わったことを意識しているかどうかは分からない。
ただ変わっていた。
リリアが後ろで手帳に何かを書きながら歩いていた。
「王都での出来事の記録」と呟くのが聞こえた。
記録し続ける人間だ。
それがリリアの旅の仕方だ。
ガルドが前を歩いていた。
斧を腰に下げた大きな背中が、一定のペースで進んでいく。
ブレない歩き方だ。
どこへ向かっても同じペースで歩ける人間の背中だ。
真は街道を歩きながら、この旅を始めてから積み重なったものを確認した。
エルムの里でのスライム退治から始まった。
ガルドに会い、ユナと一緒に歩き始め、リリアが加わり、テムザリアでシドウに会い、オリヴィアを助けた。言霊がLv.1からLv.2になり、「砕けろ」で石の巨人を倒し、「止まれ」が広く届くようになり、会議の場で静かな確信から力が出た。
それぞれが繋がっている。
一つ一つが別の出来事のように見えて、全部が積み重なって今の自分になっている。
コンビニで五年間立ち続けた時間は、積み重なっていなかった。
同じ場所で、同じことを繰り返して、何も変わらずに終わった。
しかしここでは、一日が終わるたびに何かが変わっている。
それが旅だ、と真は思った。
スローライフの夢は、まだ遠い。
しかし今の旅が嫌ではない。
この道を歩いていることが嫌ではない。
この人たちと一緒にいることが嫌ではない。
それで十分だ、と思いながら、真は街道を歩き続けた。
王都が後ろに小さくなり、道の先が開けていく。
ダーレムまでの道が、また始まっていた。




