第四節 やめろ
「――やめろ!」
意識して叫んだわけではなかった。
言葉が先に体から出た。
路地でも、バックヤードでも、コンビニのどの場所でも、出したことのない声だった。
五年間、「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」と「温めますか」と「袋はご利用ですか」を繰り返してきた喉から、そのどれとも違う声が出た。
腹の底から絞り出した声だった。
自分の声ではないような気がするほど、低く、大きく、真っ直ぐに出た。
その瞬間、真の全身をわずかな震えが走った。
熱くも冷たくもない、電流のようなものが背骨から指先まで一瞬だけ走り抜けた。
そして声が空気に溶けていくとき、何かが弾ける感触があった。
泡が弾けるような感覚でも、風船が割れるような感覚でもない。
もっと静かで、しかし確かに何かが変わった感触だ。
声と一緒に、目に見えない何かが空気の中に広がった、そういう感覚だった。
右手の指先が痺れた。
電気に触れたあとの、しびれが抜けていく感触に似ている。
ただし痛みはない。
むしろ、どこか気持ちのいい感触だった。
何かが自分の中から外に出て、その分だけ体が軽くなったような。
三人の男が、一斉に真を振り返った。
その動作が、ほぼ同時だったことが奇妙だった。
示し合わせたわけではない。
全員が本能的に同じ方向を向いた。
まるで、真の声が全員の感覚器に同時に触れたように。
次の瞬間、先頭の男の顔が変わった。
嗤いが消えた。
表情の全体が、一瞬で別の何かに塗り替えられた。
目が見開かれ、顔色が変わり、そして後退った。
足が先に動いていた。
意思よりも体が先に反応した、という動き方だった。
残りの二人も同様だった。
一拍遅れて、しかし確実に同じ変化が起きた。
三人が互いの顔を見合わせた。
その顔に浮かんでいるのは、怒りでも、驚きでも、困惑でもなかった。
恐怖だった。
真を見て、怖がっていた。
何が起きているのか、真には分からなかった。
体格で言えば、相手の方がずっと大きい。
武器を持っているのも相手だ。
正面から見れば、一人のコンビニアルバイト店員が三人の武装した男を怖がらせられる理屈がない。
しかし現実に、三人は怯えていた。
「な、なんだ今の」
先頭の男が声を出した。
その声は震えていた。
「知るか、逃げろ」
「待て俺が先だ」
「どけどけ」
もつれるように走り出した。
三人が同時に踵を返して、森の奥へ向かって駆けていく。
足音が重なって、どたどたと地面を叩く音が遠ざかる。
そのままどんどん小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。
静寂が戻った。
鳥が一声鳴いた。
それがひどく場違いに聞こえた。
真は立ったまま、男たちの消えた方向を見ていた。
何が起きたのか分からなかった。
自分の声が何をしたのかも、なぜ男たちが逃げたのかも、まったく分からない。
ただ、右手の指先だけが、まだわずかに痺れていた。
あの感触が、何かが起きた証拠だった。
気がつくと、体全体がわずかに震えていた。
怖いからではない、と真は自分で判断した。
アドレナリンが出ているからだ。
コンビニで深夜に客が店内で暴れたとき、真は警察を呼びながら体が震えていた。
あのときと同じ種類の震えだ。
体が「何かが起きた」と認識して、過剰な準備態勢を取っている。
深く息を吸った。
吐いた。もう一度吸った。
少し落ち着いた。
少女の方を向いた。
「……あの、大丈夫ですか」
声が思ったより普通に出た。
少女は地面に座ったまま、信じられないものを見るような目で真を見上げていた。
目が大きい。紫色の、透明感のある色だ。
この世界に来て最初に見た人間の目が、こういう目だった。
そしてその目に、涙の膜が張っていた。
泣いているのか泣いていないのか、ぎりぎりの状態だ。
しかし気丈だった。
唇を結んだまま、何かを堪えるような顔をしている。
震えを抑えようとしているのが、肩のわずかな強張りに出ていた。
一度震えが来たら止まらなくなる、と分かっていて、それでも止めている。
そういう顔だった。
「……助けてくれたの」
少女が言った。
声が震えていたが、核心が通っていた。
か弱さと強さが同じ一本の声の中にある。
コンビニで深夜に来る客の声は、どれも何かを隠した声だった。
眠気、酔い、疲れ、苛立ち、孤独。
何かを隠しながら、あるいは隠しきれないまま、カウンターの向こうで声を出す。
しかしこの少女の声には隠すものがなかった。
今この瞬間のことだけが、そのまま声になっていた。
「うん、まあ」と真は答えた。
我ながら間の抜けた返事だと思った。
「助けました」でも「大丈夫ですよ」でもなく、「うん、まあ」だ。
しかし他の言葉が出てこなかった。
この状況で何と言えばいいのか、正解が分からなかった。
「けがはないか」
「……けがはない」と少女は言い、地面に手をついて立ち上がろうとした。
膝に力が入らないのか、立ち上がりかけてよろめいた。
真は反射的に手を差し伸べた。
少女がその手を掴んだ。細い手だった。
冷えていた。
緊張が極限まで達したあとの体の温度だ。
力はないが、掴み方はしっかりしていた。
引き上げると、少女は真よりかなり小柄で、頭が真の胸の辺りまでしかない。
立ったところで、少女は真の手を放した。
それから改めて真の顔を見た。
上から下まで一瞥してから、顔を上げる。
コンビニの制服を見ているのか、黒い髪と黒い目を見ているのか、判断のつかない目だった。
何かを確かめようとしている目だ。
「ありがとう」
短かった。しかし本物だった。
お世辞や反射で出る言葉ではない。
体の芯から出てきた言葉だ、と真は感じた。
コンビニで五年間、「ありがとうございました」と言い続けてきた。
その言葉を一度も本物だと感じたことがなかった。
言葉の形をした手続きだった。
しかしこの一言は違う。
たった二文字だったが、確かに真の中の何かに届いた。
「ユナ」と少女は続けた。
「私の名前。あなたは」
「木下真。まこと、でいい」
ユナは「まこと」と小声で繰り返した。
舌の上で転がすように、発音を確かめている。
それを二度繰り返してから、口元がわずかに緩んだ。
「変わった名前だけど、好きかもしれない」
「そうか」と真は言った。
ありがとうと言うべきかと考えたが、照れくさくて何も言えなかった。
自分の名前を「好きかもしれない」と言ってもらったのは、生まれて初めてのことだった気がした。
少し沈黙があった。
ユナが周囲を確認した。
男たちが逃げた方向を一度見て、それから真を見た。
「移動した方がいい。戻ってくるかもしれない」
「分かった」と真は言い、それから気づいた。
「どこに行けばいい」
「近くに村がある」
「村まで案内してもらえるか」
ユナが少し真を見た。
それから「いいよ」と言った。
それだけだった。
理由も、条件も、何も付け加えなかった。
「いいよ」の一言だった。
真はユナの後ろについて歩き始めた。
少女の歩き方は安定していた。
さっきまで地面に膝をついていたとは思えない歩き方だ。
疲れや恐怖を体に出さない訓練が染みついているのか、それとも生来そういう体の使い方ができる人間なのか。
銀色の髪が歩くたびに揺れる。
森の光を受けて、その色がわずかに輝いて見える。
真は後ろを歩きながら、さっきの出来事を整理しようとした。
あの声が何だったのか。
指先の痺れが何だったのか。
男たちが逃げた理由が何だったのか。
何一つ分からない。
しかし何かが起きたことは確かだ。
コンビニの夜勤で五年間出し続けた「ありがとうございました」は誰にも届いていなかった。
しかし今、森の中で出したあの一言は、何かに届いた。
そしてその届いた何かが、三人の男を追い払った。
言葉が、力を持った。
そういうことが起きた、と今のところは整理するしかなかった。
「この世界に来たことがある人間を、ここでは転移者と呼ぶの?」と真は歩きながら聞いた。
「そう呼ぶ人間もいる」とユナは前を向いたまま答えた。
「古い書物には「来訪者」という言葉が使われていることもある。どちらでもいい。あなた自身がどう思うかによる」
「自分が何者かはまだ分からない」
「まだ、ね」とユナは言い、木の根を一跨ぎした。
「ギルドで鑑定を受ければ分かることがある。着いてからにしよう」
「ギルドというのが」
「冒険者の組合みたいなもの。村にも支部がある」
「冒険者」と真は繰り返した。また、読んでいた話の中の言葉が現実に出てきた。
「ここは、俺が転移してくるような世界なんだな、やっぱり」
「あなたが転移してきたんだから、そういう世界なんじゃないの」
反論できなかった。
正論だった。
木々の密度が少し薄くなってきた。
光が増えている。
村に近づいているのかもしれない。
真は深く息を吸った。
この世界の空気を、意識して肺に入れた。




