第三節 エルフ使節団の介入
サレン侯爵への接触は、オリヴィアが旧知の使用人を通じて実現した。
二日かかった。
使用人への連絡、使用人から侯爵への報告、侯爵からの返答。
それぞれに時間が必要で、急かせる状況でもなかった。
その二日間、真はシドウと工房を回り、王都の素材の質を確認し、刻印の作業を続けた。
リリアは文書の内容を整理し、会議での提示方法を考えていた。
ガルドは宿の周辺の情報を収集していた。
侯爵からの返答は「来てほしい」という内容だった。
侯爵邸への訪問は、正面からではなく裏口からだった。
オリヴィアが変装したままで、真たちも目立たない服装で向かった。
侯爵邸の裏門で使用人が待っていて、そのまま奥の部屋に通された。
サレン侯爵は五十代の男性だった。
白髪が混じった落ち着いた外見で、動作が穏やかだ。
しかし部屋に入ってきたオリヴィアを見た瞬間、立ち上がって深く頭を下げた。「ご無事で」と言った声に、安堵と心配が両方あった。
オリヴィアが書類を渡した。
侯爵が読んだ。一度、二度と読んで、顔色を変えながらも表情を制御していた。
感情を外に出すことに慣れた人間の、しかし感情が出ようとしている顔だ。
「これは」と侯爵は言い、一度言葉を止めた。
「これが本物であれば、ドミロは終わりです」
「本物です」とリリアが言った。
「文書の形式、印章の特徴、筆跡の一致。複数の角度から確認しました。偽造ではありません」
侯爵がリリアを見た。
ハーフエルフの耳に視線が止まったが、それだけだった。
「あなたは」
「古代語の研究者です。文書の鑑定もできます」
「信頼できますか」
「私の研究歴と実績を確認していただいて構いません。ダーレムの図書館に照会すれば、私の仕事は確認できます」
侯爵が頷いた。
「大臣会議まであと何日ですか」とオリヴィアに聞いた。
「六日あります」
「十分です」と侯爵は言い、書類を丁寧に折りたたんだ。
「安全な場所に保管します。会議の日に提出します。その日まで、あなた方は表に出ない方がいい。宰相側は気づいているかもしれない」
「了解しました」とオリヴィアは言い、頭を下げた。
侯爵邸を出て宿に戻った。
「終わりそうだな」と真は言った。
宿の部屋に戻り、荷物を整理しながら言った。
「宰相の処断が決まるまでは気は抜けませんが」とオリヴィアは答えた。「証拠が公開されれば大きく動きます。サレン侯爵が動けば、もう一つの中立家も動く可能性があります。宰相側の三家も、証拠が出れば動揺する」
「あとは待てばいい」
「あとは待ちます」
その日の夕方に問題が来た。
翌日の午後、王都に到着したというエルフの使節団が、宿に使者を送ってきた。
使者は若いエルフの男だった。
二十代か、それより少し上か。
顔の造りが整っていて、しかし整っていることを自分でよく知っている人間の顔だ。
顎を上げた立ち方をしていた。
部屋に入ってきて、周囲を一度見てから真を見た。
「エルノア連邦の使節団が、木下真なる者に面会を求めています」と使者は言った。「ご同行いただけますか」
「何の用だ」と真は聞いた。
「連邦の代表がお伝えします。使者の私には内容が知らされていません」
「知らされていないのか、それとも言う立場にないのか」
使者が少し表情を動かした。答えなかった。
真が断ろうとすると、ガルドが横から言った。
「聞いておいた方がいいかもしれない。相手が何を考えているか知っておく必要がある。断るとしても、内容を聞いてから断る方が情報として価値がある」
「分かった」と真は使者に言った。「いつ行けばいいか」
「明日の朝はいかがでしょう」
「明日の朝でいい」
使者が去ると、ユナが「行くの」と聞いた。
「行く。ガルドの言う通りだ」
「一人では行かないで」
「一人では行かない」
「じゃあいい」とユナは言い、窓の外を向いた。
翌朝、使節団が滞在する高級宿に出向いた。
ガルドと二人で行くことにした。
ユナが行くと言ったが、エルフとユナの関係が複雑な可能性があると判断して、今回は外してもらった。ユナは少し何かを言いかけたが、「理由がある」と真が言うと、「分かった」とだけ言って引いた。
高級宿は商業区の奥にある。
外壁が白く塗られていて、入口に衛兵が立っている。
一般の旅人が泊まる宿とは格が違う。
外国の使節団が使う施設として、王都が指定しているものだろう。
受付で名前を告げると、すぐに奥の部屋に通された。
エルフの代表は四十代に見える女性だった。
長い金髪を結い上げ、上質な服を着ている。
エルフ特有の耳の形が、丁寧に整えられた髪の中でわずかに見えた。
座り方が正確で、動作に無駄がない。
目が細く、笑っているように見えて笑っていない表情だ。
歓迎しているような顔だが、歓迎している温度がない。
計算されて配置された笑顔の形だ。
「ようこそ」と代表が言った。
声が穏やかで、それが返って不自然だった。
「木下真さん。私はエルノア連邦の使節、エリスと申します。遠
路お越しいただいてありがとうございます」
「用件を聞こう」と真は言った。
前置きが長くなる前に切った。
エリスが少し目を細めた。
予想より直接的な言葉だったのかもしれない。
しかし表情を崩さなかった。
「単刀直入ですね」と言い、一度手を組み直した。
「では。あなたは幻の種族の末裔である可能性が高い。その管理と保護は、古来よりエルフ族の責務とされています。あなたの身の安全を保障するために、我々と行動をともにされることをお勧めします」
「管理と保護は別のことだが」と真は言った。
エリスが少し動いた。
体の重心が動いた。
想定した返しではなかったのかもしれない。
しかし表情は変えなかった。
「おっしゃる意味が」
「管理は管理する側の都合で行うものだ。保護は保護される側のためにするものだ。あなたが言った言葉は、両方を一緒にしている」
「あなたのためになることを提案しています」
「見ず知らずの冒険者たちと行動する状況では安全が保障できない、とおっしゃりたいのですか」と真は言い、エリスを見た。
「その冒険者たちと一緒に旅をして、今日まで来た。安全が保障されなかったことは一度もない」
「先日の追跡の件は聞いています」とエリスが言った。
「どこで聞いた」
「情報は集まります。王都は特に」と言い、エリスは前に進んだ。
「我々には、あなたが知りたいであろう情報があります。三万年前の言霊師に関する記録です。エルフ族の図書館が保有している完全な記録を、共有することができます」
真は少し間を置いた。
それは本当のことかもしれなかった。
アストラが言っていた。
エルフの図書館に続きがある可能性が高い。
三万年分の記録が、そこにある。
自分の力の正体、言霊師が消えた理由、なぜ自分がここにいるのか。
その答えが、エルフの図書館にあるかもしれない。
引っかかるものがあった。
情報と引き換えに、何かを求めている。
「行動をともに」という言葉が先に来て、「情報を共有できる」という言葉が後から来た。
順番が逆なら、純粋な提案に聞こえたかもしれない。
この順番で来たから、交換条件だと分かった。
「その情報と引き換えに、俺を連邦に連れていくつもりか」と真は聞いた。
エリスの表情が初めて本当に動いた。
笑顔の形が崩れた。
一秒か二秒、元に戻るまでに時間がかかった。
「保護施設に移っていただくだけです」と言った。
声が少し低くなっていた。
「断る」と真は言い、立ち上がった。椅子を引く音が部屋に響いた。
「情報は別の方法で集める。管理される気はない」
「後悔することになりますよ」
真はエリスを見た。
「それは俺が決める」
「あなたにはまだ分かっていないことがある。
言霊師の力が完全に顕れたとき、何が起きるかを。
それを知らずに一人で動いていれば、あなた自身が危険にさらされます」
「警告か、脅しか」
「警告です」とエリスは言い、表情を戻した。
しかし目の温度は戻らなかった。
「いつでも連絡をください。提案は続いています」
「覚えておく」と真は言い、部屋を出た。
廊下に出ると、ガルドが「よく言った」と言い、前を歩き始めた。
宿に戻る道を歩きながら、真はエリスの言葉を頭の中で繰り返した。
言霊師の力が完全に顕れたとき、何が起きるか。
警告として言ったのか、あるいは情報として本当のことを知っているのか。
どちらとも判断できなかった。
しかし、管理される気はない、という気持ちは変わらなかった。
宿に戻ると、ユナが入口のそばで待っていた。
待っていたというより、自然にそこにいた、という感じだった。
真が入ってきたのを見て、顔の緊張が少し解けた。
「どうだった」とユナは聞いた。
「断ってきた」と真は言った。
「そう」とユナは言い、少し間を置いた。「正しいと思う」
「お前が言うと信頼できる」
「なんで」
「感情で言っていないから」と真は答えた。
ユナが少し目を動かした。
何かを考えている目だ。
それから「まあ」と言い、部屋の方へ歩いていった。
その夜、真はアストラが言っていたことを思い返した。
エルフの図書館に言霊師の記録がある。
エルフが情報を独占しようとしている理由が何なのか。
三万年間秘密にしてきた理由がある。
それがエルフにとって不都合なことだとすれば、簡単には教えてもらえない。
しかしその情報は、いずれ必要になる。
今ではない。
今は王都の問題がある。
大臣会議があって、オリヴィアが動いていて、宰相の件が決着する前に動くべきことがある。
エルフの情報は、その後だ。
一つずつ片付けていく。
焦らない。
それが今できる最善の判断だ。
目を閉じる前に、ユナの言葉を思い出した。
「正しいと思う」と言った言葉だ。
感情でなく判断で言った言葉だ。
だから信頼できる。
感情で言う言葉も価値があるが、判断で言う言葉には別の確かさがある。
ユナはその両方を持っている人間だ、と真は思いながら目を閉じた。




