第二節 神話学者アストラ
翌朝、シドウと素材の工房を回っていた。
王都の職人区は、朝から活気があった。
炉の火を入れている鍛冶師、木を削る音を出している工房、革を縫っている店。
それぞれが自分の仕事を朝早くから始めている。
シドウが地図を持ちながら、目当ての工房を探していた。
大陸でも上位の素材を扱っていると評判の店が職人区の奥にあるという話を、テムザリアで聞いていた。
職人区の路地を歩きながら、真は看板を見ていた。
この世界の文字は読める。
転移してから最初の日に気づいたことだ。
言語が自動的に翻訳されるような仕組みが働いている。
看板の文字も、話し言葉も、全部意味が入ってくる。しかし日本語で書けば、それはこの世界の誰にも読めない。
その非対称が、言霊の力の源になっているとリリアは言っていた。
看板を読みながら歩いていると、後ろから声がかかった。
「木下真さんですか」
振り返ると、白髪の老人が立っていた。
七十代か八十代か、判断が難しい年齢だ。
背が低く、体が丸まっている。
しかし目だけが年齢と合っていなかった。目が若い。
好奇心と鋭さが混ざった目で、こちらを見ている。
体の動きも俊敏だった。人込みの中を縫うように歩いてきたらしく、息が乱れていない。
「日本語の発音に近い響きで名前を呼んだな」と真は言った。
「気づきましたか」と老人は言い、口元を動かした。
笑っているような形だが、目はこちらを測っている。
「私はアストラ。王立神話研究院の研究員をしています。長年、この国の神話と古代史を研究してきました」
「なぜ俺の名前を知っているんだ」
「昨夜、宿でお見かけした商人が知人でして」とアストラは言い、路地の端に視線を向けた。
通行人が数人通り過ぎるのを待ってから、また真を見た。
「すぐに連絡をくれました。黒い髪と目の旅人が宿にいる、と。その情報が私のところに届くのに、半日もかかりませんでした」
「情報が速い」
「王都はそういう場所です。あなたの外見は目立つ。悪意を持った人間に情報が届く前に、私がお話しできたことは良かったと思っています」
真はシドウを見た。
シドウが腕を組んで老人を見ている。
危険かどうかを判断しようとしている目だ。
「追い払おうか」とシドウが言った。
「いや、聞く」と真は言った。
老人の目に悪意がなかった。
好奇心と、何かを確かめたいという切迫感はある。
しかし害意が感じられない。
この世界に来てから、危険な人間と危険でない人間の区別が少しずつできるようになってきていた。
訓練ではなく、経験の積み重ねで身についた感覚だ。
近くの喫茶店に入った。
朝の時間の喫茶店は混んでいなかった。
窓際の席を選んだ。
外の様子が見えて、入口も確認できる席だ。
この選び方も経験で身についたことだ。
エルムの里でガルドと食堂に入ったときは、席の選び方など考えていなかった。
温かい飲み物が運ばれてきた。
アストラが両手で器を包むように持った。手が細く、指の関節が大きい。
長年ものを書き続けてきた手だ。
「単刀直入に話しましょう」とアストラは言い、真を見た。
「あなたは転移者で、言霊付与という超レアスキルを持ち、日本語という言語を話す。そしてその日本語が、この世界で神話級と呼ばれる現象を引き起こす。合っていますか」
「話が早いな」と真は言った。
「どこまで調べている」
「ギルドの鑑定記録は公開情報です。エルムの里で神話級の鑑定が出たという話は、冒険者ギルドの記録として流通しています。そこから辿れば、転移者で言霊系のスキルを持つ人間がいることは分かります」
「それで俺を探していたのか」
「探していたというより、来るだろうと思っていました」とアストラは言い、飲み物を一口飲んだ。
「言霊師についての情報を持つ機関が王都に集中しています。あなたの力の正体を知りたければ、王都に来る。そう考えていた」
「俺が言霊師かどうかはまだ分からない」と真は言った。
「スキル名が言霊付与なだけで、本当に言霊師と同じものかは証拠がない」
アストラが少し目を開いた。
予想より慎重な答えだったのか、あるいは予想通りだったのか、判断できない表情だった。
「謙虚なんですね」と老人は言い、また真を見た。
「ただ、あなたが言霊付与スキルを持ち、日本語を話す黒髪黒目の人間であることは事実です。三万年前の文献に記された言霊師の特徴と全て一致している」
「三万年前の文献があるのか」
「断片的にですが」とアストラは言い、飲み物を置いた。
「全体の十分の一も残っていないと思います。大部分はエルフ族の図書館にあると言われていますが、公開されていない。私が見られたのは、他の研究者が写した転写のみです。それだけでも、かなりのことが分かった」
「その文献に、言霊師についてどんなことが書かれている」
アストラが少し姿勢を正した。
長年研究してきた内容を、適切な順番で伝えようとする準備だ。
「世界の秩序を言葉で保つ役割を担った種族であること」とアストラは言い始めた。
「黒髪黒目であること。話した言葉と書いた文字に力が宿ること。その力の強さは感情の深さと比例すること。言葉一つで物理的な現象を引き起こし得ること」
「どれも俺に当てはまる」と真は言った。
「そして」とアストラは続けた。
「ある時期に突然この世界から消えたこと」
「消えた」
「三万年前を境に、言霊師に関する記述が全ての記録から消えます。死滅したのか、別の場所に移ったのか、何らかの理由で存在を隠したのか、記録からは判断できない」
「消えた理由は」
「分かっていません」とアストラは言い、真を見た。
「文献が途切れています。エルフの図書館に続きがある可能性が高い。しかしエルフはその記録を外部に公開しない」
「リリアも同じことを言っていた」と真は言った。
ダーレムでリリアに聞いた話が頭に戻ってきた。
エルフが古代の文書を独占している。
その中に日本語が含まれている可能性がある。
なぜ公開しないのか、という問いにはまだ答えが出ていない。
「リリア・セルヴィア?」とアストラが言った。
「知っているのか」
「古代語の研究者として名前は知っています。優秀な方です。ただし、エルフ族からは相手にされていない」とアストラは言い、少し間を置いた。
「ハーフエルフであることで、エルフの図書館へのアクセスを拒否されている。理不尽な話ですが、それがエルフ族の在り方です」
「エルフが情報を独占している理由は何だと思う」
「私の仮説ですが」とアストラは言い、窓の外を一度見てから続けた。
「言霊師が消えたことに、エルフ族が関わっている可能性があります。あるいは消えた原因を知っている。それが記録に残っていて、その記録を公開すれば自分たちに不都合なことが明らかになる。だから独占している」
「根拠はあるか」
「ない」とアストラは即座に言った。
「完全な仮説です。ただ、三万年間秘密にしてきた記録を持つ組織が、秘密にしてきた理由を持っていないとは考えにくい」
真は飲み物を飲んだ。
温かい液体が喉を通る感触がある。
この世界の飲み物だが、味が日本のお茶に近い。
何かの葉を煮出したものだ。
「アストラさんは、俺に何を求めているんだ」と真は聞いた。
アストラが少し顔を和らげた。
研究者としての緊張が緩んで、人間としての顔が出た瞬間だ。
「何かを求めるというより」と老人は言い、真を真っすぐ見た。
「お伝えしたかった。あなたがここにいることの意味を、あなた自身が知っておくべきだと思ったから」
「意味」
「力を持つ者が自分の力の由来を知らないまま動くのは危険です。武器の扱い方を知らずに武器を持つのと同じです。あなたの言霊は、まだ顕れていない部分がある。成長する余地がある。その成長が何を意味するかを、知っておいた方がいい」
「もう一つ言いたいことがあるだろう」
アストラが少し目を細めた。「鋭い」と言い、飲み物を置いた。
「もう一つ、お伝えすべきことがあります。あなたの来訪を待っていた者がこの世界には少なくとも一人いる」
「誰だ」
「ゼン、と名乗っている人物です」とアストラは言い、声をわずかに落とした。
「賞金稼ぎのような仕事をしているらしい。特定の依頼だけを受ける、という噂があります。詳細は私には分からない。しかし、その人物があなたを探していることは確かです。複数の情報源から同じ名前が出てきた」
「なぜ探しているんだ」
「それも私には分からない」とアストラは言い、立ち上がった。
「ここまでが私にお伝えできることの全てです。時間を取らせました」
老人が軽く頭を下げた。
「待ってくれ」と真は言った。
「最後に一つ。お前さんは俺に何かを期待しているか。言霊師として、何かをしてほしいという期待が」
アストラが少し間を置いた。
「あります」と正直に言った。
「ただしそれは、あなたに何かをさせたいという期待ではありません。あなたが自分の力の意味を理解した上で、自分で判断してほしいという期待です。三万年間この世界にいなかった存在が戻ってきた。それが何を意味するかは、私にも分からない。しかし意味がないとは思えない」
「それだけか」
「それだけです」
アストラが喫茶店を出た。
白髪の小さな体が、朝の路地に消えていった。
足取りが軽い。
年齢に見合わない速さで歩いていく。
シドウが真を見た。「信用できると思うか」
「敵意はなかった」と真は言った。
飲み物の最後を飲んだ。
「ゼンという名前は覚えておく。それだけでいい、今は」
「情報が多すぎる場合は、一度に消化しようとしない方がいい」とシドウは言い、立ち上がった。「行こう。工房を探す」
「そうだな」と真は言い、立った。
路地に出た。
朝の職人区の音が戻ってくる。
金属を叩く音、木を削る音。
それぞれが自分の仕事をしている音だ。
アストラの話をしていた時間が、その音の中に溶けていく感触があった。
言霊師が消えた理由を誰かが知っていて、それを隠している可能性がある。
そしてゼンという人間が自分を探している。
消化しきれない情報を、一度脇に置いた。
シドウが地図を見ながら「こっちだ」と言い、先を歩き始めた。真が続いた。
今日の仕事に戻る。
工房を探す。
素材を確認する。
刻印の作業をする。
それが今日すべきことだ。




