第六節 王都への道
追っ手を振り切り、翌朝の夜明けとともに木立を出た。
短い仮眠だったが、体は動いた。
ガルドが「魔素の多いこの世界では、短い睡眠でも回復が速い」と以前言っていた。
真にはその実感が確かにあった。
三時間ほど眠るだけで、昨夜の疲れがかなり抜けている。
日本にいたときの自分の体では考えられない回復の速さだ。
それが魔素によるものなのか、旅を続けることで体が変わってきているのか、あるいは両方なのか、判断はつかない。
しかし変わっていることは確かだった。
街道を北から王都方向へ切り替えた。
これまでの北向きのルートから、南東に向きを変える。
王都ガルディアは大陸の内陸部にある。
テムザリアの港湾都市から見れば東北方向、エルムの里から見れば東の方角だ。
北部から王都に向かうには、丘陵を越える街道を使う。オリヴィアが道を知っていた。
使節団が通る大街道ではなく、農村を抜ける補助街道だ。
人目が少なく、監視が届きにくい。
大臣会議まで九日あった。
三日で王都に着けるなら、余裕は六日ある。
急ぐ必要はないが、追っ手が来る可能性がある以上、滞在する場所を毎日変えながら動く方が安全だとガルドは言った。
方針として、街道沿いの集落に毎夜泊まり、早朝に出発する。それを繰り返すことにした。
道を急ぎながら、オリヴィアが国の現状を話してくれた。
昨夜の書庫で見た文書を確認して、自分の持っていた情報と照合したらしかった。
「文書の内容は想定していたものと一致していました。ただ、一点だけ想定外のことがありました」とオリヴィアは言い、前を見ながら続けた。
「署名している侯爵家の一つが、私が中立だと思っていた家でした」
「取り込まれていたのか」と真は聞いた。
「そうです。私の情報が古かった。あるいは最近取り込まれたかのどちらかです。中立と思っていた家が動いているなら、大臣会議での票読みが変わります」
「不利になるということか」
「証拠を出しても、すぐには信じない人間が増えているということです。証拠が本物であることを誰かが保証しなければならない。
信頼できる人間が証言する必要があります」
「それはリリアが適任か」と真は言い、リリアを見た。
リリアが頷いた。
「古代語の研究者として文書の鑑定ができます。ただし、私の名前が会議の場でどの程度の効力を持つかは分かりません。知られた研究者ではありますが、政治の場での信頼と学術の場での信頼は別物です」
「他に手はあるか」とガルドが聞いた。
オリヴィアが少し間を置いた。
「一人います。今も中立を保っていると思われる侯爵家の当主です。彼が証拠を確認して証言すれば、会議の場での重みが違います。王都に向かう途中、その方の領地を通ります。立ち寄れるかもしれません」
「立ち寄るつもりがあるか」
「今日の話を聞いて、必要になったと思いました」
「分かった」とガルドは言い、また前を向いた。
農村の税率が三年で二倍になったこと、逆らった村長が行方不明になったこと、軍の一部も宰相に取り込まれていること。
オリヴィアが話を続けた。一つ一つが具体的で、体験したこと、協力者から聞いたこと、自分で確認したことを分けて話していた。
情報の出所を示しながら話す習慣がある。
学んだ習慣か、経験で身についた習慣かは分からないが、信頼できる話し方だ。
「なぜ王は止めなかったんだ」と真は歩きながら聞いた。
「父上は信頼していたんだと思います」とオリヴィアは言った。
声が少し柔らかくなった。
宰相の話をするときと、父親の話をするときで、声の質が違う。
「宰相としての仕事は確かに有能でした。問題を解決してきた実績がある。だから信頼した。信頼した相手の裏側を疑うことは、父上には難しかったと思います」
「知らされなかった、ということか」
「そう思います。届く情報が全て管理されていれば、知りたくても知れない。父上が怠慢だったとは思いません。ただ、構造として情報を遮断されていた」
「それに気づいたのはいつだ」
「一年前です。農村視察に出ようとしたとき、宰相が反対しました。理由は王女の安全のためというものでしたが、それまで農村視察は私の定例の仕事でした。急に反対されて、おかしいと思った。強行しようとしたら、護衛が入れ替えられた。それで確信しました」
「動けなくなるように周りを固められていた」
「そうです。気づいたときには、すでに動きにくい状態でした」
真は何も言わなかった。
状況を整理していた。
一年かけて外堀を埋められ、それでも動き続けた人間が今横を歩いている。
一人でここまで来た。
証拠を取りに行こうとしていた。
そこに偶然、真たちが通りかかった。
偶然、とは言えない気もした。
しかし何が必然かを考え始めると終わりがないので、今は考えないことにした。
しばらく歩いてから、ユナが真の隣に並んで言った。
「まことは、王だったらどうすると思う」
「向かない」と真は即答した。
「なんで」
「スローライフがしたいから」
「それは答えになってない」とユナは言い、少し間を置いた。
珍しい間の取り方だった。
何かを言おうとして、言い方を考えている間だ。
「本当の理由は」
真は少し考えた。
「俺は言葉の力を持っている。感情と意志を言葉に乗せると、現実が動く。それを誰かを動かすために使いたくない、という感覚がある」
「誰かを動かすことへの警戒か」
「そういうことだと思う。言葉で現実を変えられるなら、その使い方には気をつけなければならない。上に立って指示するために使うことと、誰かを守るために使うことは、感触が違う。さっきの「止まれ」は、後ろにいるオリヴィアを守りたかったから出た。その感情が力の源になった」
「上に立って使う場合は」
「感情の種類が違う。誰かに従わせたい、動かしたいという感情が力の源になる。それは俺には合わない気がする」
ユナが少し考えた。
「でも、さっき「止まれ」と叫んだ」
「あれは攻撃で来ている相手に対して使った。守るために使った。それは違うと思っている」
「その区別が大事なのか」
「俺の中では大事だ。感情の向きが違う。守ることに向けた感情と、従わせることに向けた感情は、根本が違う」
「うまく説明できてるじゃないか」とユナは言った。
「言いながら整理した」
「そういうことが多い」
「そうかもしれない」
「うまく説明できなくていいと思う」とユナは言った。「筋が通っていれば」
その言葉が真には意外だった。
ユナは論理を重視する人間だと思っていた。
言葉の意味を確認し、情報の出所を気にし、感情より判断で動く。そ
ういうユナが「筋が通っていれば」と言った。
論理と筋は違う、ということかもしれない。
論理は整合性だ。
筋は一貫性だ。
整合性が取れていなくても、一貫していれば筋は通る。
真の言霊への向き合い方は、論理として完全に整理できているわけではない。
しかし一貫している。ユナはその一貫性を見ている。
「ありがとう」と真は言った。
ユナが少し首を動かした。
否定でも肯定でもない動きだったが、受け取った、という感触があった。
三日目の夕方、丘を越えたところで王都ガルディアの城壁が遠くに見え始めた。
夕日が城壁を赤く染めていた。
城壁の高さがここからでも分かった。
ダーレムよりもテムザリアよりも高い。
王都としての規模だ。周囲に建物が広がっていて、城壁の外にも人が住んでいる。
城下の集落が城壁を取り囲むように広がっていた。
その全体を夕日が照らしている。
赤い色が濃かった。
日本で見た夕日の赤と似ていて、しかし濃い。
こちらの空気に含まれる何かが、光の色を変えているのかもしれない。
あるいはこれが魔素の影響なのか。
理由は分からないが、この世界の夕日は日本より密度がある気がした。
真は立ち止まって見た。
後ろからオリヴィアが追いついて、同じように城壁を見た。
「初めて見る?」と彼女は聞いた。
「初めて見る」
「大きいですよ。慣れれば居心地はいいですが、慣れるまでが大変です。人が多い分、情報の流れも速い。良いことも悪いことも、あっという間に広まります」
「スローライフができる場所か」と真は言った。
オリヴィアが少し笑った。
「王都でスローライフは難しいと思います。少なくとも今は」
「だろうな」と真は言い、城壁の方を見続けた。
夕日が動いている。
城壁の赤が少しずつ変わっていく。
赤から橙へ、橙から薄い紫へ。
この世界の夕暮れは長い。
空の色が段階的に変わっていく。
日本のそれより変化が豊かだ、と真は思いながら見た。
こういう景色を見るたびに、こちらに来たことへの後悔がない自分に気づく。
ユナが隣に並んだ。
声はなかった。
ただ同じ方向を見て、並んで立っていた。
この旅が始まってから、ユナはずっと隣か少し前にいる。
遠くに離れることがない。真が立ち止まれば、少し先で立ち止まる。
真が動けば、合わせて動く。
意識しているわけではないのかもしれない。
しかし結果として、そういう位置に自然とおさまっている。
真はその事実を確認して、特に何も言わなかった。
言わなくていいと思った。
言葉にすることで何かが変わるとも思わなかった。
ただそこにある、ということで十分だという気がした。
「行こう」とガルドが言い、先に歩き始めた。
王都への道を、六人で歩き続けた。
夕日が完全に沈むまでの間、全員が少し黙って歩いた。
戦闘の後の緊張が抜けて、しかし王都が近づいてきた緊張がある。
その二つの間の、静かな時間だ。
真は歩きながら、この数日間のことを頭の中で確認した。
エルムの里を出てからの時間を。
テムザリアで刻印を試みた時間を。
影の商会との緊張を。
ユナが誘拐されて取り戻した朝を。
三日かけてダーレムに向かい、リリアに会った日を。
そこから今日まで、多くのことがあった。
コンビニで五年間立ち続けた時間より、この数週間の方が密度が高い。
密度が高いことが良いとは限らない。
疲れる。
予測できないことが次々と来る。
落ち着く暇がない。
しかし何かが積み重なっている感覚がある。
一日が終わるたびに、何かが増えている。
それが什么なのかは言葉にしにくいが、確かにある。
言葉が届いた回数が増えている、ということかもしれない。
「まこと」とオリヴィアが歩きながら言った。
「何だ」
「王都に入ったら、まず私に従ってください。街の動き方が普通の街と違います。特に今の状況では」
「分かった」
「あなたの黒い髪と目は、王都でも目立ちます。これは良いことと悪いことがあります。良いことは、幻の種族の末裔として一定の敬意を持って扱われること。悪いことは、すぐに身元が特定されること」
「知っておく」
「それと」とオリヴィアは言い、少し間を置いた。
「感謝を改めて言わせてください。助けてもらっただけでなく、証拠を取るまで一緒に動いてもらった。これは私一人ではできなかったことです」
「礼は終わってから言うと言ったが」と真は言った。
「終わっていませんが、それでも言いたかったので」
真は少し間を置いてから言った。「終わってから、ちゃんと聞く。今は前を向いていてくれ」
オリヴィアが頷いた。
そしてまた前を向いた。
王都の城壁が、夕暮れの中で静かに近づいてくる。
真は城壁を見ながら歩いた。
あの中に入れば、また新しい何かが始まる。
スローライフとは程遠い何かが、また始まる。
それが分かっていても、足が止まる気がしなかった。
ユナが隣で歩いている。
ガルドが前を歩いている。
リリアが後ろで手帳に何かを書いている。
オリヴィアが前を見ている。
この人たちと一緒にいることが、今の自分の全部だ、と真は思いながら夕暮れの街道を歩き続けた。




