第五節 追撃と言霊の成長
屋敷を離れて一時間ほどしたとき、背後から馬の蹄の音が聞こえた。
最初は遠かった。
地面を伝って振動が来る感じがあって、次に音が届いた。
一頭ではない。
複数の蹄の音が重なっている。
速度が一定で、落とす気配がない。
追跡している馬の走り方だ。
「追ってきた」とガルドが言った。
足を止めずに前を向いたまま言った。
「内部から出てきた男が、書庫を確認して気づいたのかもしれない。あるいは格子が開いていることに気づいた」
「どのくらいで追いつかれる」とオリヴィアが走りながら聞いた。
「このペースなら五分ほどだ。馬には勝てない」
「走れるか」と真はオリヴィアに確認した。
「走れます」と答えた。息が上がっていたが、足は動いていた。しかし長距離を馬に対して走り続けることはできない。
「手があるか」とユナが真を見ながら走った。
「ある」と真は答えた。
振り返ると、松明の光が三つ来ていた。
三騎だ。松明が揺れながら近づいている。
地面を踏む音が大きくなってきた。百メートルを切ったか、それ以下か。
暗い中での距離の判断は難しいが、光の大きさが変わる速さから推測した。
速い。
「俺が止める」とガルドが立ち止まった。
振り返って三騎の方を向いた。
「真も来い。残りは走れ」
オリヴィアとリリアが走り続けた。
ユナが一度立ち止まり、真を見た。
「行け」と真は言った。
ユナが走った。
しかし完全に遠ざかる前に少し足を緩めた。
見えないくらいの距離を保ちながら走っている気配がある。
完全に離れない。
そういうユナだ、と真は思いながら前を向いた。
騎乗した三人が近づいてくる。
松明の光が大きくなる。剣を抜いている。
馬の勢いが落ちていない。
止まる気がない動き方だ。
ガルドが前に出た。
斧を両手で持ち、道の真ん中に立った。
大柄な体が、来る方向に向かって正面から立っている。
引く気がない立ち方だ。
先頭の馬がガルドを見て速度を落とした。
馬の本能だ。明
確な障害物の前では足が鈍る。
その一瞬の減速をガルドが使った。
踏み込んだ。
馬の前肢の横に体を滑り込ませ、斧の柄で馬の横腹を押した。
傷をつけない当て方だ。
馬に当たりを与えると同時に、騎乗者に向かって手を伸ばした。
ガルドの手が男の腕を掴んで引き下ろした。
男が鐙から外れた。
引き下ろされる形で落馬した。
落ちた音がした。
男が地面に転がった。
残り二騎が真に向かってきた。
真は構えた。
シドウに作ってもらった短剣の柄を握る。
走ってくる馬に向かって、一瞬考えた。
止まれ、と叫ぶことを思った。し
かし止まれ、だけでいいか。
昨日の練習のとき、感情が乗った言葉だけが届く、と確認した。
今の感情は何だ。
騎乗者に対する怒りか。
後ろにいるオリヴィアを守りたいという気持ちか。
あるいは、書類が無駄になることへの拒否か。
全部が混ざっていた。
しかしその中で一番強いのは、走り続けているオリヴィアの背中だった。
一人で動いてきた。
協力者が消えても、護衛が入れ替わっても、それでも止まらなかった人間だ。
その人間が今夜初めて手に入れた証拠を、ここで失わせたくなかった。
その感情が先に来た。
「止まれ!」
叫んだ瞬間、空気が動いた。
先日、霧の洞窟の三層で「砕けろ」と叫んだときとも違った。
あのときは激しかった。
今回は広かった。
体を通る電流が、皮膚の表面ではなく骨に近い場所から来ている感触があった。
声が前に向かって出ていくのではなく、周囲に広がっていく感触があった。
一騎の馬が急に足をもつれさせた。
騎乗者が前のめりになり、手綱を引く形で馬の首を掴んだ。
しかし馬の足が動かない。
強制的に止まった動き方だ。
意志で止めたのではなく、止められた感じの停止だった。
騎乗者が馬を立て直そうとしているが、しばらく前に進めない。
もう一騎が速度を落としたが止まらなかった。
横に飛んで避けた。
馬が通り過ぎた瞬間、短剣の柄で騎乗者の背を叩いた。
手加減した当て方だ。
馬から落とすことが目的で、傷をつけることが目的ではない。
男が体を崩して落馬した。地面に転がり、立ち上がろうとしたが膝をついた。
ガルドが残りの一騎を対処していた。落馬させた男を押さえ込み、動けなくした。
三騎とも倒れた。馬は逃げていった。騎乗者三人が地面に転がっている。
重傷を負った様子はないが、すぐには動けない状態だ。
「今のは大きかった」とガルドが言った。近づいてきて、真の顔を確認するように見た。
「一騎完全に止めた。Lv.2になってからまだ間があるが、力が変わってきている」
「言葉の通りが良くなってきた気がする」と真は言い、右手を見た。
指先の痺れを確認した。
以前より浅い。
霧の洞窟で「砕けろ」と叫んだ後は、しばらく手が震えていた。
今回は痺れているが、震えるほどではない。
放出した後の消耗が小さくなっている。
力が出ているのに、消耗が減っている。
それが成長ということか、と思いながら手を握り直した。
足音がして、ユナが戻ってきた。
あまり遠ざかっていなかった。
やはり完全には離れていなかった。
真の手を一瞬だけ見た。
消耗の程度を確認している目だ。そ
れから視線を上げた。
「付与Lv.が上がりそう」とユナは言った。
「まだ上がっていないが」
「すぐ上がる。感覚が変わってきてる」
「それ、お前には分かるのか」と真は聞いた。
「回復魔法を使うとき、対象の状態が感じ取れる。体の中の流れというか、力がどう動いているかが感触として入ってくる。あなたの言霊も、近くにいると微かに感じ取れる。さっきのは前より整っていた。尖った感じが減って、均一に広がった感じがあった」
「均一に広がった」
「声が前だけに向いていたものが、周囲に向いた感じ。一点に集中した力より、面で届く力の方が、対象への影響が広くなる」
「リリアが聞いたら喜ぶ話だな」
「後で言えばいい」とユナは言い、後方を確認した。追加の追っ手が来る様子はなかった。
「何度も近くにいるから分かるということもある」
「何度も近くにいてくれているから分かるのか」と真は聞いた。
ユナが少し間を置いた。一秒か、二秒か。
「そう」と言い、前を向いた。
その一言が思ったより短くて、真はうまく返せなかった。
何か言おうとしたが、何を言えばいいか分からなかった。
ありがとうとも違う。そうか、でも足りない気がした。
しかし何も言わないまま、二人で前を向いた。
「行こう」とガルドが言い、先に歩き始めた。
六人で足を速め、夜の街道を進んだ。
松明を持っている人間がいないので、月明かりと星明かりだけで歩いた。
地面の状態が分かりにくいが、全員が足元を確かめながら進んだ。
追っ手の気配はなくなっていた。
しばらくしてガルドが「もう少し進んだら休む」と言った。全員が頷いた。
オリヴィアは書類を懐にしまったまま走り続けていた。
リリアが少し遅れ気味で、それをガルドが気にしていた。
真は歩きながら、言葉のことを考えた。
「止まれ」と叫んだとき、馬が止まった。
馬に言葉が通じたわけではない。
騎乗者が止まったことで馬が止まったのかもしれないし、
言霊の波が物理的な何かに干渉したのかもしれない。
仕組みは分からない。
しかし届いた範囲が広くなっていた。
以前は正面に集中して届く感触だった。
今日は正面だけでなく、横にも届く感触があった。
ユナが言っていた「面で届く」という言葉がそれを表していた。
感情と意志が言葉に乗ったとき、言葉が現実に触れる。
その触れる面積が広がっている。
触れる深さが増している。
それが成長だとするなら、感情の質が変わってきているのかもしれない。
一点に集中した感情から、広く安定した感情へ。
怒りのような激しいものから、守りたいという静かなものへ。
静かな感情の方が、広く届く。
そういうことかもしれない、と真は思いながら夜道を歩いた。
「ありがとうございます」とオリヴィアが小声で言った。
「まだ礼は早い」とガルドが言った。
「それでも」とオリヴィアは言い、また歩いた。
ガルドが短く笑った。
真も何も言わなかった。しかし礼を言いたくなる気持ちは分かった。
今夜手に入れたものが何かを、オリヴィアが一番よく分かっている。
その重さが「ありがとうございます」という三文字に詰まっていた。
木立が見えてきた。
道の脇に入れる場所だ。
「ここで少し休む」とガルドが言い、全員が木立に入った。
地面に腰を下ろした。
暗い木立の中で、六人が輪になるような形で座った。
月の光が葉の隙間から差し込んでいる。
ユナが水筒を回した。
全員が少しずつ飲んだ。
「王都まであと何日だ」とガルドがオリヴィアに聞いた。
「三日ほどです」とオリヴィアは答えた。
「急げば二日半で着けます」
「大臣会議まで」
「今日が終われば、九日あります」
「十分だ」とガルドは言い、水筒を返した。
「明日から急ぐ必要はない。追っ手が来る可能性はあるが、今夜の連中が戻って報告して、次の対応が来るまでには時間がかかる。今夜はここで少し休んで、夜明けとともに動く」
「分かりました」
真は木に背を預けて座った。
空を見た。
葉の隙間から星が見えた。
今夜の言霊のことを頭の中で反芻した。
「止まれ」と叫んだ瞬間の感触。
骨から来る感触。
広がる感触。
消耗が浅くなっていた感触。
全部が少しずつ変わってきている。
Lv.2になってから、使うたびに何かが変わっている気がする。
ユナが近くにいると感じ取れる、と言っていた。
近くにいるから分かる、という言葉の方が、真には引っかかっていた。
一緒に旅をしているから近くにいる、ということではなく、近くにいることを選んでいる、という意味に聞こえた気がした。
聞き違いかもしれない。
しかし聞き違いでないかもしれない。
どちらとも判断しないまま、真は目を閉じた。
少しだけ眠れれば、夜明けまでには体が戻る。
そう思いながら、夜の木立の静けさの中に入っていった。




