第四節 証拠の奪取
旧貴族領の隠れ家は、丘の中腹にある古い屋敷だった。
二日かけて北部に入り、オリヴィアの記憶を頼りに道を選んで、夕暮れ前に目的地の丘が見えてきた。
遠くから見ると、丘の斜面に石造りの建物が一棟、木立に半分隠れるように建っている。
二階建てで、外壁が古びている。
現役の屋敷というより、使われなくなってから久しい建物を再利用した感じだ。
窓のいくつかは木板で塞がれていて、開いている窓には明かりが灯っている。
夕暮れには早い時間から明かりをつけている。
内部に人がいることは確かだ。
五人で丘の下の木立に入り、そこから観察した。
「外壁に見張りが三人」とガルドが低い声で言いながら、丘の上を目で追った。
「東側に一人、南側に一人、正面に一人。交代のタイミングは見えないが、立ち方から見て二時間交代程度だろう」
「内部は」と真は聞いた。
「窓の明かりが三カ所。一階の二カ所と二階の一カ所だ。動く影が見えるのは一階の一カ所だけ。内部に四、五人いると見ていい」
「書庫は地下だとオリヴィアさんが言っていた」とリリアが言い、手帳の紙を広げた。道中にオリヴィアから聞いた建物の概略図を書いたものだ。
「入口から廊下を進んで、右手に階段があります。その階段を下りれば書庫の扉があるはずです」
「鍵がかかっている」とオリヴィアが言った。
「協力者の話では、書庫は二重に鍵がかかっているとのことでした。扉の錠前と、その前の格子の鍵の二つです」
「二つとも同じ方法で開く」と真は言った。
「「開」の刻印を二回使えばいい」とユナが言い、ガルドを見た。
「正面への陽動はお願いできますか」
「それでいい」とガルドが答えた。
「俺とシドウは持ってきていないな」と真に言い、次に「他の者はいるか」と周囲を見た。
「五人しかいない」と真は言った。
「正面の陽動に二人、裏から入るのに三人。裏の三人に誰が入るかだ」
「真、ユナ、リリアで入ります」とリリアが言った。
「私が文書を確認します。真さんが鍵を開けます。ユナさんが警戒を担当します」
「オリヴィアは」と真は聞いた。
「私は外で待ちます」とオリヴィアは言い、真を見た。
「文書を持ち出してくれれば、中身の確認は私ができます。戦闘になったとき、私がいることで判断が鈍ることは避けたい」
「分かった」と真は言った。
「俺が正面で声をかける」とガルドは言い、木立の奥を確認してから続けた。
「裏手に回るのは今ではない。完全に暗くなってからにしろ。見張りの目が届く範囲が狭くなる」
「どのくらい待つ」
「一時間ほどだ。それまで動くな」
一時間、木立の中で待った。
日が沈み、空が暗くなっていく。
夕暮れの赤が消えて、紺に変わり、黒くなった。
雲がなく、星が出ていた。
木立の中は暗いが、目が慣れると木の輪郭が見えてくる。
声を抑えて、全員が黙って待った。
オリヴィアが真の隣に座っていた。
膝を抱えた姿勢で、空を見ていた。
「大丈夫か」と真は小声で聞いた。
「大丈夫です」とオリヴィアは答えた。「ただ、緊張しています」
「そうか」
「あなたは緊張しませんか」
「する。でも動き出したら消える」と真は答えた。
「コンビニで深夜に一人でいるとき、何かの音がするたびに緊張した。外から人が来るたびに。しかし扉が開いて客が入ってきたら、作業が始まるから緊張は消える。今もそれと同じだと思っている」
「コンビニというのがどういう場所か、私には完全には想像できませんが」とオリヴィアは言った。
「でも、どこにいても同じということですね」
「たぶん」
少し間があった。
木立の外で、風が草を揺らす音がした。
「なぜ助けてくれたのか」とオリヴィアは小声で聞いた。
「さっきは打算ではないとおっしゃっていましたが、それ以上は聞けませんでした」
真は少し考えた。
「追われている人間が目の前にいて、後ろから来る人間が剣を抜いていた。それを見て動かない理由が思いつかなかった」
「それだけですか」
「それだけだ。理由を考える前に動いていた。後から考えると、そういうことになる」
オリヴィアが少し黙った。
「それが一番誠実な答えですね」と言い、また空を見た。
暗くなりきったところで、ガルドが「行くぞ」と小声で言った。
ガルドが正面側へ向かった。
木立を出て、丘の正面から登っていく動きが闇の中に消えた。
三分ほどして、正面の方向から声が聞こえた。
「おい、ここに宿はあるか。道に迷った」というガルドの声だ。
見張りが反応する声がした。複数の声が正面に集まりつつある気配がある。
「今だ」とユナが言い、動き出した。
三人で木立を出た。
丘の裏側を登る。
草の上を踏む足音を殺しながら、一定のペースで登った。
速く動きたいが、草を踏む音が大きくなる。
バランスを取りながら進んだ。
裏手の壁に崩れた箇所があった。
石積みの外壁が、長年の劣化で部分的に低くなっている。
ガルドが事前に確認していた箇所だ。
高さが真の腰程度まで下がっていて、乗り越えられる。ユナが先に越えた。
真が続いた。
リリアが最後だった。リリアが越えるのを真が手を貸した。
外壁の内側は暗かった。
建物の裏面が正面より明かりが少ない。
窓が一つ、しかし明かりがない。
倉庫か物置として使われている部屋だろうと推測した。
建物の裏扉に向かった。
扉は木製で、金属の鍵が下りている。
真は短剣を抜き、鍵穴の横の木に「開」と刻んだ。
一画一画、均一に刻む。刻み終えた瞬間、錠前が音もなく外れた。
磁石が切れるような静かさだった。
「またそれですか」とリリアが小声で言い、扉を押した。
扉が内側に開いた。
蝶番に油が足りていないのか、わずかに軋む音がした。
三人が静止した。内部から音がしないか確認した。数秒待って、動く気配がないと判断して中に入った。
中は薄暗い廊下だった。
天井が低く、壁が石だ。
古い建物の内部の匂いがある。
湿気と石と、何かが燃えているかすかな匂い。
奥の方に明かりがある。廊下の突き当たりが右に曲がっていて、その先に光が届いている。
誰かがいる方向だ。
リリアが小さな明かりの魔法を使った。
掌に乗るほどの小さな光球で、手で覆えば光量を絞れる。
廊下を照らすのに十分な明かりを、しかし外に漏れない程度に調整して持った。
手際がいい。普段から使い慣れている魔法だ。
先頭に立ってリリアが廊下を進む。
真が続いて、ユナが最後尾で後方を確認しながら進んだ。
オリヴィアが言った通り、廊下を進んで右手に階段があった。
下りの階段だ。石段が地下に続いている。
石段は十三段あった。
下りるにつれて、湿気の匂いが強くなった。地下に近いほど石が湿っている。
地下に降りると、書庫の扉があった。
扉の前に格子があった。
鉄製の格子で、鍵がかかっている。
格子の向こうに木の扉があり、その扉にも鍵がかかっている。
二重の構造だ。
真は格子の枠に短剣の先で「開」と刻んだ。
格子の鍵が外れた。格子を押して開け、次に木の扉に「開」と刻んだ。
こちらの鍵も外れた。
「二回使っても平気か」とユナが小声で聞いた。
「今のところは」と真は答えた。
消耗の感触を確認した。
指先が少し痺れているが、動けなくなるほどではない。
二回続けて使った分、前より疲れている。
しかし許容範囲内だ。
書庫の中は思ったより広かった。
棚が三列並んでいて、棚には書類の束が詰まっている。
床にも積まれた束がある。紙の匂いが濃い。
乾いた古い紙の匂いと、インクの匂い。
リリアが明かりを上げ、棚の全体を確認した。
「整理されています」とリリアは低い声で言い、棚の端を確認した。
「年代と種別で分類されている。
探しているものは書簡です。
送り先と日付が分かれば絞れます」
「どこを見ればいい」と真は聞いた。
「棚の右端から確認します。送り先が侯爵家名で始まる棚があるはずです」
リリアが動いた。
手際が速い。
棚の前に立ち、背表紙のように整理されたラベルを次々と読んでいく。
真とユナは扉の方を見ながら待った。
廊下に音がしないか耳を澄ませた。
正面でガルドが声をかけてから何分経ったか、正確には分からなかった。
しかしいつまでも引きつけておけるわけではない。
早い方がいい。
「これです」とリリアがほどなく言い、棚から数枚の書類を取り出した。
声が抑えられていたが、確信が込もっていた。
リリアが書類を開き、明かりを近づけて読んだ。
三十秒ほど読んで、顔を上げた。
「宰相の印章と、侯爵家三家の署名があります」とリリアは言い、書類を真に見せた。
「内容は段階的な王家への権限移譲を示す合意書です。これは王の署名なしには成立しない取り決めを、王の承認なしに進めていたことを示しています。反乱計画の証拠としては十分です」
「持っていけるか」
「持っていきます」とリリアは言い、書類を二度折りにして懐に入れた。
「原本であることが重要なので、丁寧に扱います」
「他に必要なものはあるか」
「これだけで十分だと思います。数が多すぎると管理が難しくなる。核心的な一点を持ち出す方が賢明です」
「分かった。行こう」
三人で書庫を出た
扉を閉めた。
格子を閉めた。
元の状態に見せるためだ。
刻印が外れているので鍵はかからないが、遠目には閉まっているように見える。
完璧ではないが、すぐに気づかれるよりはいい。
廊下を戻った。
来た道を同じ順番で戻る。
階段を上り、廊下を進む。
裏扉から外に出た。
外に出た瞬間、正面の方から声が大きくなっていた。
ガルドの声と、見張りの声が混ざっている。
話が長引いているのか、あるいは押し問答になっているのか。
いずれにしても注意が引きつけられている。
外壁を越えた。
丘の裏側を降りた。
木立に入ったところで、待っていたオリヴィアが立ち上がった。
「うまくいきましたか」
「取れた」とリリアが懐から書類を取り出して見せた。
オリヴィアが書類を受け取った。
両手で持ち、リリアから借りた明かりで読んだ。
一度、二度と目で追った。それから目を閉じた。
息を一つ、ゆっくりと吐いた。
長い息だった。
どこかに詰めていたものが、その息と一緒に出ていく感じがあった。
「これで動けます」と彼女は言った。
声は静かだったが、その中に強い意志があった。
柔らかくはなく、しかし乱れてもいない。
決まった、という声だ。
これだけのことをして手に入れた証拠を、次にどう使うかが見えた人間の声だ。
真はその声を聞いて、何かが確定した感覚を持った。
これまでの旅で経験してきたことのどれよりも、今夜の仕事は政治的な重さを持っている。
一国の王女を助け、その国の宰相に証拠を突き付けるための書類を手に入れた。
エルムの里でスライムを倒していたのと同じ人間が、今これをしている。
しかし根本では同じだ、と真は思った。
困っている人間が助けを求めた。
動ける人間がいた。
動いた。
それだけだ。
規模が大きくなっても、その根本は変わらない。
変わるべきでもない、と思った。
「合流しよう」とガルドの声がした。
正面の方から足音が来た。ガルドだった。
話を切り上げて戻ってきたらしい。
後ろに追っ手の気配はない。
ガルドが木立に入り、五人が揃った。
「内部から別の人間が出てきた」とガルドは小声で言った。
「話を続けている間に、建物の横手に出てきた男がいた。気づかれているかもしれない。急いで離れろ」
「書類は取れた」と真は言った。
「なら十分だ。走れるか全員」
「走れます」とオリヴィアが言った。
「走れる」とリリアが言い、手帳を閉じた。
五人で木立を抜け、丘の麓に向かって走り始めた。
暗い草地を走る。
足元が見えない。
感触で判断しながら走った。
転倒しないように、しかし速く。
「うまくいきましたか」という問いへの答えが、走りながら真の頭の中で繰り返された。
うまくいった。
書類がある。次は王都だ。大
臣会議まで一週間を切っている。
走りながら、それだけを考えた。




