第三節 北の隠れ家へ
翌日から北に向かって移動した。
宿場を出るとき、オリヴィアが元の装束のまま出てきた。
上質な布地を隠すボロの上着を羽織ったままだ。
「変えなくていいのか」と真は聞いた。
「今はこのままの方が目立たない」とオリヴィアは答えた。
身なりを整えることへの自制が自然にできる人間だ、と真は思った。
王女としての習慣より、今の状況への判断を優先できる。
オリヴィアが道を知っていた。
本来は使節団が通るような大きな街道ではなく、農村地帯を抜ける細い道だ。
地図にも載っていない道もある。
どこで覚えたのかと真は思ったが、後から分かったことだが、オリヴィアは子供のころから地図を読み、自国の地形を体系的に学んでいた。
王族の教育として、自国の土地を知ることが含まれていたらしい。
覚えた知識が今の逃亡に役立っている。
「宰相の監視が届きにくいルートです」とオリヴィアが説明した。
「大きな街道には商会の人間や兵士の目があります。農村を抜ける道は人目が少ない代わりに、こちらの動きも見えにくい」
「農村の人間は宰相側か」と真は聞いた。
「農民は宰相を恨んでいる人間の方が多い。増税の直撃を受けているから。しかし怖くて表立って動けない。村長が行方不明になった事例がいくつかあって、それが抑止になっています」
「怖くて動けない人間を、どうやって動かすんだ」
「動かす必要はないと思っています。農民に戦えとは言えません。私がすべきことは、証拠を用意することだけです」
道が細くなるところでは一列になって歩いた。
ガルドが先頭、オリヴィアが二番目、真が続いて、ユナ、リリアの順だ。
ユナが後方の確認を自然に担っていた。
声もなくその位置に入っている。
こういう動き方がいつの間にか形として決まってきていた。
道中でオリヴィアが詳しく話してくれた。
ガルディア王国の成り立ちから話が始まった。
元々は五つの侯爵家が連合して作られた国だ。
王家の権力は強いが、侯爵家との均衡で成り立っている。
王が決めることができる事項と、侯爵家の合意が必要な事項が明確に分かれている。
その構造が、今のドミロ宰相の行動を難しくしていると同時に、可能にもしていた。
「五家のうち三家を取り込めば、合意が必要な事項も通せるということか」と真は聞いた。
「そうです。三対二になれば多数決で通せる場合があります。王が病床にあるときはその傾向が強くなる。王の代理として宰相が合意の場に出てきて、さらに三つの侯爵家が同意すれば、残り二家はどうにもできない」
「合法的な形でやっているわけだ」
「表向きは」とオリヴィアは言い、前を向いた。
「だからこそ証拠が必要です。合法的な形の裏で何をしているかを示さなければ、これは正当な政治の話として処理されてしまう」
リリアが後ろから聞いた。
「証拠の内容として、どういったものが期待できますか。文書の形式、署名の有無、内容の性質など」
「協力者の話では、宰相が侯爵家に送った書簡が保管されているはずです。内容は、王家への権限の段階的な移行を提案するものだと聞きました。これは憲法に相当する取り決めに違反します。侯爵家の合意があっても、王の署名なしには通らない事項が含まれているはずです」
「それが明文で書かれていれば、動かしにくい証拠になる」とリリアは言い、手帳に書いた。
「そうです。問題は、その書簡が現物として残っているかどうかです。協力者は残っていると言っていましたが、すでに処分されている可能性もある」
「行ってみなければ分からない」と真は言った。
「そうです」
歩きながら話が続いた。
真は話を聞きながら、オリヴィアという人間を観察していた。
話し方が論理的だ。
感情的になっていない。
父親が病床にあることも、協力者が消えたかもしれないことも、国が危機にあることも、全部を情報として整理して話している。
しかしそれが感情のなさではないことは、話の端々から分かった。
声のわずかな変化、言葉を選ぶときの間の取り方。全部がある。
ただ外に出さないようにしている。
出せない状況にいる。
一人でここまで来た人間の顔だ、と真は思った。
誰かに頼れる状況ではなく、頼ることへの恐れもある。
今の四人への警戒はまだ完全には解けていない。
しかし話せることは話している。
それが今のオリヴィアの限界で、同時にできる最大のことだ。
「第一王子は」と真は歩きながら再度聞いた。
「状況をどこまで知っているんだ」
「兄は宰相と親しい」とオリヴィアは前を向いたまま答えた。「取り込まれているかどうかは分かりません。ただ、私に接触させてもらえていない。監視されているのかもしれない。あるいは兄自身が私との接触を避けているのかもしれない」
「なぜ避ける」
「私が動いていることを知れば、巻き込まれます。兄が宰相側でない場合、それを避けているかもしれない。あるいは宰相側である場合、私を自由にしておくことで動向を監視しているのかもしれない。どちらとも言えない」
「家族の話なのに、そういう見方をするんだな」と真は言った。感想として言った。批判ではなかった。
「王族というのはそういうものかもしれません」とオリヴィアは言い、真を見た。
「あなたは、そういった権力争いとは無縁の場所から来たと聞きました」
「コンビニで夜勤をしていた。権力争いとは程遠い」
「羨ましい」と言ってから、オリヴィアは気づいて付け加えた。
「失礼しました。楽しい場所ではなかったのに」
「楽しくはなかった」と真は言った。
「でも、ここに来てから気づいたことがある。あそこでの毎日も、無駄ではなかったかもしれないと」
「どういうことですか」
「コンビニで五年間、ひたすら作業をしていた。言葉を感情から切り離して使っていた。それが今、ここでは別の使い方に変わっている。感情を乗せることで言葉が力を持つ、という逆転が起きている。だから無駄ではなかったと思う。何かがそれを用意していたのかもしれない、と」
「何かが」とオリヴィアは繰り返した。
「分からない。ただそういう気がする」
オリヴィアが考えるような顔をした。
何かを思っているが、言葉にするほどではないと判断したのか、少し間を置いてから言った。
「あなたは不思議な人ですね」
「よく言われる」
ユナが少し前を歩きながら、こちらを振り返らずに言った。
「不思議というより、正直なだけだと思うけど」
オリヴィアがユナを見た。
「ユナさんは、まことさんのことをよく見ているんですね」
ユナが短く答えた。
「旅の仲間だから」
それだけ言って前を向いた。
真は何も言わなかった。道の先に、丘が続いていた。
一日目の夜は農家の軒先を借りて野営した。
農家の主人は老人と老婆の二人暮らしで、旅人の野営を断る様子もなく、むしろ「最近は旅の人が減った」と言いながら快く軒先を貸してくれた。
農村から人が流出しているという話が、この老人の言葉とつながった。
客が減ったのは旅人が減ったからではなく、周囲の村から人が消えているからだ。
真が夕食を作った。
老人たちの食材を少し分けてもらい、持参の干し肉と合わせた。
根菜の厚みを揃えて切ることで火の通りを均一にする。
香草を後から加えることで香りを飛ばさない。それだけのことだが、できあがりが違う。
老婆が一口食べて「こんな料理は久しぶりだ」と言った。
オリヴィアが横で食べながら言った。
「王都の料理人より上手い気がします」
「王都の料理人は技術があるが素材に慣れすぎているんだと思う。
俺は素材の一つ一つがまだ珍しいから、丁寧に扱う」
「なるほど」とオリヴィアは言い、また食べた。
食後、オリヴィアが「こういう夜を過ごしたことがなかった」と言い、空を見上げた。
「星が多いですね」と言った。
「王都では見えないのか」と真は聞いた。
「街の明かりで、こんなには見えません」
「日本と同じだな」と真は言い、それから気づいて「もっとも、あなたには関係ない話だが」と付け加えた。
「日本の星も同じですか」
「同じだった。街の光で星が消える。ここに来て、初めてこんなに星を見た」
「それは良かったのでは」
「悪くない」と真は言い、空を見た。
ユナが焚き火の横に座り、膝を抱えていた。
焚き火の光が銀色の髪を赤く染めている。
目は空ではなく、炎を見ていた。
何かを考えているときのユナの顔だ。
炎を見ているのに、炎を見ていない。
視線の向こうに何かある。
真はそちらを見て、すぐに空に視線を戻した。言葉をかけようかと思ったが、何を言うべきか出てこなかった。ユナが考え事をしているときは、邪魔をしない方がいいと思っていた。それが今の二人の距離感として適切だと感じていた。近づきすぎず、遠ざかりすぎず。
ガルドが焚き火に薪をくべながら小声で言った。「いい旅だな」
「そうか」
「人が増えた。それだけのことだが」とガルドは言い、また黙った。
感傷を表に出さない言い方だが、その言葉の重さが分かった。一人で旅をしていた男が、今は五人の中にいる。息子を失った後の旅が、こういう形になっている。
真は空を見続けた。星の数が多かった。
老婆が出してくれた毛布を羽織って、真は横になった。
地面の固さはもう慣れた。最初の夜、森の中で横になったときは地面が固くて眠れなかった。
今は固さが当たり前になっている。
体がこの世界に慣れてきた。
ガルドが言っていた、魔素が体を変えるという話が実感として少しずつ分かってきていた。
明日もまた北へ歩く。
旧貴族領の屋敷まで、あと二日ほどだとオリヴィアが言っていた。
二日後に何があるかは、行ってみなければ分からない。
しかし今夜は焚き火があって、腹が満たされていて、空に星がある。
それで十分だ、と真は思いながら目を閉じた。




