第五章「王女との邂逅」 第一節 旅する王女
テムザリアを出て三日目の昼過ぎ、街道を外れた森の縁で人が走っているのが見えた。
最初は獣かと思った。
草むらが揺れて、何かが動いている気配があった。
しかしすぐに人の形だと分かった。
速く、しかし乱れた走り方だ。
後ろを何度も振り返りながら走っている。
若い女だった。
ボロ装束を纏っているが、その下に上質な布地が透けて見える。
装束だけ見れば村の農民か旅の行商人だが、布の光沢と縫い目の細かさが、その装束と釣り合っていない。急いで着替えたか、あるいは上から羽織ったかして、元の身なりを隠している。
足が速い。
木の根を避け、草を踏み越えながら、躊躇なく走っている。
地面の見方を知っている走り方だ。
しかし息が乱れている。長い距離を走ってきたか、恐怖で体が硬くなっているか、
あるいは両方だ。
顔が蒼白ではないが、唇が一文字に結ばれている。
追われていることは明らかだった。
その後ろから、武装した男が四人来ていた。
全員が剣を抜いている。
剣先を下げた走り方だが、相手に向けることに躊躇がない動き方だ。
服装は揃っていた。特定の組織に属した人間の制服らしい色と形だ。
護衛ではなく、追いかけている。女を捕まえに来た人間の走り方だ。
「助ける」と真は言った。
迷いがなかった。
決断というより反射だった。
森の縁から街道に出てくる女を見て、後ろから来る四人を見て、そう言っていた。
コンビニで深夜に一人で立ち続けていたころの真には、こういう反射がなかった。
咄嗟に動く習慣がなかった。
しかしユナと旅を続けるうちに、何かが変わった。
最初の夜、盗賊に向かって叫んだ。その後も、霧の洞窟で、テムザリアで。
動く場面が積み重なって、体が覚えてきた。
ユナがすでに動いていた。
真が言い終わる前に、ユナはすでに位置を変えていた。
女が来る方向を計算して、二人の間に入れるような位置に動いている。
声もなく、ガルドに目配せもなく、動いていた。状況を見て、最短で動いた。
ガルドが前に出た。
大柄な体が、道の中央に立った。
斧を持っているが、まだ手を出していない。
威圧としての存在だ。
男たちの先頭が立ち止まった。
後ろの三人も止まった。
女はガルドの後ろに回り込み、肩で息をした。
距離が縮まったところで、真は顔をよく見た。
顔を上げた女の目が、理知的な色をしていた。
怯えてはいる。息が切れて、体が疲弊している。
それでも目は冷静に状況を見ていた。
周囲を素早く確認して、どこに誰がいるかを把握しようとしている目の動き方だ。
単純に怖がっているだけではなく、考えている。
「通りすがりの冒険者だ」とガルドが言った。口調は穏やかだが、斧を手に取っていた。
「事情を聞かせてもらおうか。なぜ武器を抜いている」
男の一人が言った。「
その女を渡せ。主人への不敬を働いた者だ」
「不敬の内容は」
「関係ない。渡せ」
「関係なくはないだろう」とガルドは言い、斧の柄を握る手に力を入れた。
動かす気はないが、動かせる状態であることを見せた。「こちらには神話級の武具がある。分が悪いと思うが」
男たちが互いに顔を見合わせた。
四人対四人だ。数は同じだ。
しかしガルドの言った「神話級」という言葉が効いた。
真の腰にある短剣を確認したのかもしれない。
あるいはガルドの体格と斧だけで十分な威圧になったのかもしれない。
男たちが引き下がった。
足音が遠ざかる。
一人が最後に真たちの方を見たが、それだけで何も言わなかった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、全員が動かずに待った。
静寂が戻ると、女が息を整えながら言った。
「助かりました。ありがとうございます」
声が落ち着いていた。
感謝を述べるときの言葉の選び方が、訓練されている。
あるいは人に礼を述べることに慣れている。
感情を適切な言葉に変換することを習慣としている人間の話し方だ。
「事情を教えてもらえるか」と真が聞いた。
「追われている理由を」
女は少し間を置いた。
真を見た。
それからガルドを見た。
ユナを見た。
リリアを見た。
順番に確認していた。
誰がどういう人間かを、可能な範囲で判断しようとしている目の動き方だ。
「私はオリ、と言います」と女は言った。
「旅の者です。政治的な理由で追われています。詳しい事情はすぐには話せません。ただ、助けてくれたことには感謝します」
「政治的な理由、か」とガルドが繰り返した。
「そうです」とオリは言い、ガルドを見た。
それからユナを見た。
真を見た。
目に何か測るものがあった。
どこまで話せるか、どこまで話す必要があるか、計算している目だ。
「もう少し詳しく話してもらえないか」と真は言った。
「一緒に動くかどうかは、それを聞いてから判断する」
オリが真を見た。
「あなたはどういう方ですか」
「木下真。冒険者だ。事情を持って逃げている人間を、理由も聞かずに助け続けるほど甘くはない。聞いた上で助けられると思ったら助ける」
オリは少し笑った。
予想と違う返答だったのか、あるいは笑えるほどの余裕が戻ってきたのか、どちらかは分からなかった。しかし笑った。
「正直な方ですね」
「そう言われることがある」
オリが一度深く息を吸った。決意をするときの呼吸だ。
「……実は」と言い、視線が静かになった。
「私はオリヴィア・ガルディア。
ガルディア王国の第二王女です」
誰も声を出さなかった。
風が吹いた。草が揺れた。
それだけの時間が過ぎた。
少しの間があって、ガルドが低く言った。
「なるほど、それは政治的な理由だな」
「信じてもらえますか」とオリヴィアが言い、真を見た。
「信じる」と真は言った。
迷わなかった。
「追われているのに助けを求めるでもなく、逃げることを優先して走っていた。普通に助けを求められる立場ではない人間の動き方だ。それと、理由があって一人で逃げている人間の顔じゃない、それ以上の何かを背負っている顔をしている。話を聞こう」
オリヴィアの表情から、警戒の一部が薄れた。完全ではなく、一部だけ。
慎重な人間だ、と真は思った。
「ありがとうございます」とオリヴィアは言い、近くの木に背を預けた。
「少しだけ休んでから話させてください。長く走っていたので」
「どうぞ」
水を渡した。
オリヴィアが受け取って飲んだ。
ユナが見張りのために少し離れた場所に立っていた。
ガルドが周囲を確認している。
リリアが手帳を出して何かを書いていた。
それぞれが自分の役割を見つけて動いている。
ここに来てから積み重ねてきた時間が、こういうときに出るのだ、と真は思いながら水筒の蓋を閉めた。




