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第三節 目覚め

背中に感じたのは、土の感触だった。

柔らかく、湿っていて、表面に枯れ葉が積もっている。指先で掴むとぼろりと崩れる。土の匂いがした。それと、草の匂い。水の匂い。空気そのものに厚みがある気がした。吸い込むたびに、肺の奥まで何かが満ちていくような感覚がある。日本の空気と根本から違う。東京の空気はもっと乾いていて、どこかに排気ガスと人工物の匂いが混じっている。しかしここの空気は、そういった混じり物がない。ただ、草と土と水と木だけでできている空気だ。

目を開けると、木漏れ日があった。

高い木々が空を覆っていて、その葉の隙間から光が斜めに降ってきている。葉が風に揺れるたびに光の形が変わる。一秒ごとに違う模様が地面に落ちて、また変わる。光が生きているように動いている。コンビニの蛍光灯は動かない。同じ照度で、同じ角度で、年中変わらず同じ光を放ち続ける。それに慣れた目には、この不規則に揺れる木漏れ日が、やけに鮮明だった。

鳥の声がした。

一種類ではなかった。高い声と低い声が交互に来て、どこかで別の種類がリズムを外して鳴く。複数の種類が鳴き交わしながら、それぞれの鳴き方をしている。不協和音のはずなのに、全体として聞くと混乱した感じがしない。それぞれが好き勝手に鳴いているのに、全部ひっくるめると森の音になっている。

どこか遠くに水の流れる音もある。川か、湧き水か。細い音ではなく、一定の水量がある流れの音だ。

「……ここ、どこだ」

自分の声が出たことに、少し安心した。意識が戻ったとき、声が出るかどうか分からなかった。声は出た。かすれてはいたが、自分の声だった。起き上がりながら周囲を確認した。

森だ。

正確には、深い森の中にある小さな空き地のような場所だ。真が今いるのは、直径十メートルほどの、木が生えていない丸い場所の中心だった。周囲を見渡すと、均等に密な木立が囲んでいる。木の幹が太い。自分の両腕を広げても足りないほどの太さの木が何本もある。成長の具合から推測すると、樹齢は数百年単位になるかもしれない。日本の公園や街路に植えられた木とは違う、野生の時間を重ねた木の圧力がある。

コンビニの制服のままだった。名札もついている。「木下」と書いてある。

スマートフォンを制服のポケットから取り出した。画面を確認すると、表示は生きている。電源は入っている。時刻は六時二十三分と表示されていた。退勤して十分ほどで転移したとすれば、時刻の計算は合う。しかし圏外の表示が出ていた。当然だ、と思った。電波塔など、この森のどこにもあるはずがない。

地面に目を向けると、空の缶コーヒーが転がっていた。

退勤後に捨てるつもりだったまま持っていたやつだ。転移に巻き込まれてもなお、手から離れなかったらしい。妙なところでしっかりしている、と思った。あるいは最後まで手放せなかったのは、それが今の自分と日本を繋ぐ唯一の物質的な証拠だったからかもしれない。

一周見渡した。建物は何もない。道らしいものも見えない。人の痕跡がない。石を積んだ跡もなく、木を切った切り株もなく、踏み固められた地面もない。人間が定期的に来ているような形跡が何もない。それでもこの空き地が整然と円形をしているのが、少し不自然だと気づいた。自然にできた空き地なら、もっと不規則な形になるはずだ。何かの意図があってできた場所なのか、それとも単なる偶然なのかは分からない。

木々の間から光の差し込む方向がいくつかあって、その一方向が他より明るい気がした。あちらに行けば開けた場所があるかもしれない。

問題を整理しようとした。

情報が少なすぎる。白い光に飲み込まれ、声を聞き、気がつけばここにいた。その間に何があったのかは分からない。痛みはなかった。苦しかった記憶もない。ただ、意識が途切れる直前の浮遊感と、左手に缶コーヒーを持ったままだという間の抜けた事実だけが残っている。

日本を離れたことは間違いない。

森の規模も、空気の質も、鳥の声の種類も、何もかもが違う。それに、この感覚がある。体の内側が、どこか引き締まっているような感覚。コンビニで深夜に立ち続けた五年間、体はずっとどこかが緩んでいた。客が来なければ意識が落ちかけ、来ても機械的に動くだけで感覚の大半は休んでいた。しかし今は違う。全部の感覚が開いている。周囲の音が全部届いている。空気の匂いが全部分かる。皮膚が温度の変化を感じ取っている。

これが、生きているということなのかもしれない。

そういう考え方をする余裕が出てきたということは、パニックにはなっていないということだ。真は自分の精神状態を確認した。怖いかと言われると、少しはある。しかし圧倒的に怖いというわけではない。むしろ、状況を把握しようとする冷静さの方が上回っていた。これは良いことなのか悪いことなのか分からないが、今は好都合だった。

「転移……かな」

口に出すと自分でも苦笑したくなった。夜勤の休憩中に読んでいた異世界転移の話が現実になるとは。しかし何と名付けたところで状況は変わらない。まず安全な場所を探す。次に水と食料を確保する。この森の外に人がいれば接触する。それだけを順番に考えれば、動ける。

立ち上がり、服の状態を確認した。制服は汚れていない。靴もある。財布もポケットに入っている。日本円が四千八百円ほど。この世界でそれが使えるかどうかは分からないが、ないよりはましかもしれない。メモ帳とペンがある。これは自分でも気づかなかったが、シフトのメモを取る習慣で常にポケットに入れていた。

明るい方向へ向かって歩き始めようとしたとき、茂みの向こうから声が聞こえた。

最初は何の音か判別できなかった。木の葉が風に揺れる音と混ざって、かすかに人の声らしきものが届いてくる。耳を澄ませると、二度目に聞こえた。高い声だ。子供、あるいはそれに近い年齢の声だと分かった。

三度目に、はっきり分かった。

悲鳴だった。

真の足が動いた。意識よりも先に体が反応して、声のした方へ向かって走り出していた。コンビニで深夜に客と揉め事が起きたとき、真はいつも一呼吸置いてから対応した。状況を見て、判断してから動く。そういう習慣が体に染みついていた。しかし今は違った。考えるより先に走っていた。それが自分でも意外だったが、走りながらその意外さを考える余裕はなかった。

低い木の枝を避け、根を跨ぎ、傾斜した地面を勢いのまま下っていく。転がり落ちそうになりながらも脚を止めなかった。声は大きくなっていく。一人ではない。子供のような声のほかに、野太い男たちの笑いが混じっている。その笑い方が、走りながら聞いていても不快だった。面白いものを弄んでいるときの、底が見えない笑い方だ。

木々が途切れた。

真は一歩踏み込んで、止まった。

そこに少女がいた。

銀色の、光を含んだような色の髪が二房に分けてまとめられ、左右に下がっている。深い紫色の瞳は大きく見開かれていた。外見年齢は十二か十三か。背が低く小柄で、旅装らしい短い外套が土で汚れている。地面に片膝をついた姿勢で、上体を起こしながら前を見ていた。唇をきつく結んで、青ざめた顔で、それでも視線だけは逃げていなかった。

その前に、三人の男がいた。

武装している。革の防具に、腰に刃物。体格は三人とも違うが、共通しているのは表情だ。全員が嗤っている。面白いものを弄んでいるときの、底の見えない笑い方だ。

真は息を整えながら状況を判断した。三対一の数の差がある。相手は武装していて、こちらには武器がない。理性的に判断すれば、これは介入すべき状況ではないかもしれない。コンビニで客同士が揉めたとき、真はいつもまず警察に連絡することを優先した。自分が直接止めようとするのは最後の手段だ。それが正しい対応だと教わった。

しかし警察はいない。電話は繋がらない。他に誰もいない。

少女の目が動いた。一瞬、真の方へ向いた。

助けを求めていた。言葉はなかった。しかしその目だけが真を見て、確かに何かを求めていた。コンビニで五年間、真は誰かの目を正面から見ることをしてこなかった。目が合えば、会釈するか視線を外す。それが深夜のコンビニの作法だった。しかし今、この目だけは、向き合わなければならないと感じた。なぜそう感じたのかは分からない。ただ、体がそう判断した。

真は声を上げていた。


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