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第五節 ユナ誘拐

翌朝、ユナがいなかった。

目が覚めると、隣の部屋が静かすぎた。

この宿に来てから四日間、朝になれば廊下でユナの気配がある。

部屋から出てくる足音が聞こえる。

あるいは真が廊下に出たとき、ユナの部屋の扉が開いているか閉まっているかで、起きているか眠っているかが分かる。

そういう小さな気配の積み重ねが、いつの間にか真の感覚に組み込まれていた。

今朝はその気配がなかった。

静かすぎた。

隣の部屋の静けさが、眠っている静けさではない。

誰もいない静けさだ。

扉を叩いた。

返事がない。

もう一度叩いた。やはり返事がない。

扉を開けた。

部屋はもぬけの殻だった。

ベッドの形が乱れている。

眠っていた跡はある。

しかし今はいない。

荷物は残っていた。旅の荷物が残っているのに本人がいない。

嫌な感じがした。冷たい嫌な感じが、背筋を下った。

「ユナが消えた」と真はガルドの部屋に飛び込んで言った。

ガルドが飛び起きた。

状況を説明する前に、ガルドの体が動いた。

長年の経験が、緊急事態を言葉より先に判断した。

リリアを起こし、三人でユナの部屋を改めて確認した。

窓が少し開いていた。外に出た形跡がある。

しかし外に自分から出たのか、連れ出されたのかは判断が難しい。強

引に連れ出された形跡はない。

争った様子がない。

しかし窓枠の端に小さな傷があった。

「鍵を外した跡だ」とガルドが言い、窓枠の傷を確認した。

「プロの仕事だ。気づかれないように連れ出している。昨日の影の商会だろう」

「ユナを連れ出した理由は何だ。俺が目的じゃないのか」

「お前さんが目的だからこそ、ユナを連れ出した。お前さんを直接確保するのが難しいと判断したんだろう。ユナを人質に取れば、お前さんが従う可能性が高い」

真は頭の中が冷えていくような感覚と、それとは反対の、怒りに近い熱い何かが同時に来るのを感じた。冷静に考えなければならないという部分と、一刻も早く動かなければならないという部分が、体の中で同時に存在していた。

ユナが危険な目に遭っている。

その一事が、他の考えを全部押し流した。

「どこに連れていかれた」

「商会の拠点がある。港の東側、倉庫が並ぶ一帯だ。以前、別の事件で場所を特定していた。今もそこを使っているはずだ」

「今すぐ行く」

「待て」とガルドが真の腕を掴んだ。力強く、しかし痛くない握り方だった。引き止める手だ。

「焦って突っ込むな。商会の拠点は見張りがいる。武装している。俺とシドウが正面から注意を引く。お前とリリアが裏から入れ。二人一組で動く方が成功率が上がる」

「リリアが危険になるが」

「リリアは魔法を使える。後方支援として優秀だ。問題ない」

リリアが頷いた。「行きます」

「分かった」

シドウに連絡を取るのに時間がかかると思ったが、早かった。

工房の前に早朝から来ていた。

シドウが「何かあると思った。ここにいた」と言い、工具の入った鞄を持ち上げた。何が起きるか読んでいたのか、あるいはこういう人間だから常に準備をしているのか。

港の東側へ向かった。

倉庫街は朝早くから荷物の運び込みで人が動いていて、怪しまれずに近づけた。

裏手に回ったとき、建物の中から物音がした。

複数の足音と、低い話し声が漏れてくる。

リリアが「ここです」と囁いた。

裏扉には金属の鍵がかかっていた。

真は鍵穴の横に短剣の先で「開」と刻んだ。

一画一画、確かめながら刻む。刻み終えた瞬間、音もなく錠前が外れた。

磁石が外れるような静けさで、外れた。

「またそれですか」とリリアが小声で言った。

「使えるな、刻印は」と真も小声で言い、扉を押した。

「後でお前の手帳に書いておけ。「開」は錠前にも有効と」

「書きます」とリリアが小声で返した。

中は薄暗い廊下だった。物陰に身を隠しながら進む。

足音を殺す。リリアが後ろについてくる気配がある。

突き当たりの扉の前に見張りが一人いた。

壁に寄りかかって、半分眠っているような姿勢だ。

リリアが小さく手を動かした。

指が空気を撫でるような動作の後、見張りが糸の切れたように眠り込んだ。

倒れる前に壁に寄りかかったまま眠っているので、音は出なかった。

「眠りの魔法か」と真は小声で聞いた。

「簡易版です。長くは効きません」

扉を開けた。

ユナがいた。

椅子に縛られていた。

手首を後ろで縛り、椅子の背にも縄が通してある。

しっかりした縛り方だ。

しかし無傷だった。

顔にも体にも、傷一つない。

連れてきた後、手荒な扱いはしていなかったらしい。

人質として使うつもりだったから、傷をつけることは最初からしないつもりだったのだろう。

ユナが真を見た。

目の中に、一瞬だけ何かが来た。

来て、すぐに消えた。

普段のユナの目に戻った。

縄の結び目を真が解こうとすると、ユナが言った。

「遅い」

「遅い?」

「もう少し早く来ると思った」

真は返事に詰まった。

助けに来たのに、最初の言葉がこれか、とも思った。

しかしユナがこう言えるということは、怖かったが冷静さを失わなかった、ということでもある。

「……心配したんだが」

「ありがとう」とユナは言い、縄が外れると自分で立ち上がった。

膝が少し震えているのを、真は見た。見たが、何も言わなかった。

「でも遅い」

「そこは一回でいい」

「言いたかったから」

それだけ言って、ユナが扉の方を向いた。

建物を出ると、正面でガルドが見張り三人を相手にしていた。

二人がガルドに、一人がシドウに向かっている。

シドウが工具の柄で相手を押さえていた。

真とユナが合流すると状況が変わった。

ユナが動いた。

縛られていたとは思えない速さで、残りの見張りを一人ずつ無力化した。

傷は与えない。

しかし全員が短時間で動けなくなった。

さっき椅子に縛られていた人間の動きではなかった。

真の目には、ユナが縛られていたことを体がもう忘れているように見えた。

「でかした」とガルドが言った。

「遅かっただけ」とユナは言い、服の埃をはたいた。

真はユナの隣に並んだ。

「本当に大丈夫か」

「大丈夫だって言ってる」

「怖くなかったか」

ユナが少し止まった。

歩きかけた足が、止まった。

それから歩き出しながら言った。

「……少しは」

「そうか」

「でも来ると分かってたから」

「俺が来ると分かってたのか」

「うん」とユナは言い、前を見た。

「来ないとは思わなかった」

真はその言葉を受けた。

受けて、何も言わなかった。言わなくていいと思った。

来ないとは思わなかった、という言葉が、ユナにとって言いやすい言葉ではないことが分かった。

それを言った。

それで十分だ。


励みになりますので、高評価ブックマークをよろしくお願いします。


こちらもよければお読みください。 

おっさん、戦国時代で絵を描いたら無双した件〜のんびり平和を目指していたはずなのに〜

https://ncode.syosetu.com/n1327lu/

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