第三章「霧の洞窟」 第一節 道中の世界
ダーレムへの街道は、よく整備されていた。
エルムの里の木の門をくぐって街道に出た瞬間から、景色の質が変わった。
里の周囲は農地と林だったが、街道に出ると視界が開けて遠くまで見渡せる。
街道の両側に草が茂り、その向こうに丘が緩やかに続いていた。
空が広い。
遮るものがなく、水平線近くまで空だ。
こんなに広い空を一度に見たのは、この世界に来てから初めてだった。
石が敷かれている部分と土のままの部分が交互に現れ、馬車の轍が深く刻まれた場所もある。
整備されている、と言っても日本の舗装道路とは違う。
継ぎ目があり、雨で削られた跡があり、石が欠けて土が露出した箇所がある。
それでも歩くのに支障のない道だ、と真は思いながら足を進めた。
足の感触が里の石畳とは少し違う。
より広い道を歩いているという感触がある。
すれ違う旅人がいた。
背に荷物を積んだ行商人が単独で歩いている。
何かを売り歩いているのか、何かを仕入れに行くのか、分からないが一人で歩いている。擦
れ違いざまに軽く会釈した。
真も会釈した。
それだけで通り過ぎた。
名前も知らない人間と、一瞬だけ同じ道を共有して、また別の方向に進んでいく。
旅をしている、という感覚が濃くなる瞬間だった。
荷馬車が追い越していった。荷台に木箱が積まれている。
御者が手綱を握りながら、前だけを見て通り過ぎた。
馬のひづめの音が遠ざかっていく。
街道の轍が深いのは、毎日こうした荷馬車が通り続けているからだろう。
騎乗の使者が風を切って駆けていった。
これは速かった。
すれ違う前に蹄の音が聞こえ、気づいたときには通り過ぎていた。
何かを届ける急用があるのか、あるいはそういう仕事の人間なのか。
この世界にも情報や物を運ぶための仕組みがあるのだと分かる。
歩きながら、ガルドが世界の仕組みを説明した。
「通貨は銅貨、銀貨、金貨の三種類だ」とガルドは言いながら、腰の袋から小銭を取り出して見せた。
銅貨は親指の爪ほどの大きさで、表面に文字が刻まれている。
銀貨は一回り大きく、光沢がある。
銅貨百枚が銀貨一枚、銀貨百枚が金貨一枚になる」
「一般的な宿と食事でどのくらいかかるか」と真は聞いた。
「一日銅貨三十枚から五十枚といったところだ。宿の質によっても変わる。エルムの里みたいな村の宿なら三十枚以下だが、街に近い宿場になると高くなる」
「ギルドの依頼の報酬は」
「最低ランクで銅貨五十枚前後。一日こなせば食費と宿代が出る。複数件こなせば余裕が出る。難度の高い依頼になれば銀貨単位になる」
真は数字を頭の中で整理した。
コンビニの時給換算で考えようとしてみたが、物価の基準が違いすぎて比較できなかった。
ただ、一日の最低限の依頼をこなせばその日は生きていける、という仕組みは分かった。
「手持ちの金がない」と真は言った。
転移するときに財布は持ってきたが、日本円は当然使えない。
「当面は出してやる」とガルドが言った。
「返せるようになったら返せばいい」
「借金みたいで悪い」
「俺も最初は誰かに出してもらった。回していくものだ」
「誰に出してもらったんだ」
「昔の上官だ。俺が傭兵になりたての頃、何も持っていなかった。
宿代と飯代を何度も出してもらった。その人間はもうこの世界にいないが、回していくという言葉を残してくれた」とガルドは淡々と言った。
感傷を表に出さない言い方だが、その人間のことを大切に思っているのは声の調子から分かった。
冒険者のランクについても説明を受けた。
「FからE、D、C、B、A、Sと上がっていく」とガルドは続けた。「Sランクは大陸全体で一桁いるかどうかだという話だ。依頼をこなした数、討伐した魔物の種類と数、緊急依頼への対応実績などが評価される。複合的に判断されるから、一つの指標だけで上がるわけではない」
「今の俺はFか」と真は言った。
「Fだ。登録したばかりだからな」
「ユナはEくらいか」
「Eになったばかり」とユナが答えた。
「それは速いのか」と真はユナに聞いた。
「普通よりは早いと思う」とユナは答えた。
それ以上の説明はしなかった。
どうやって上げたのか、どのくらいの期間でEになったのか、聞いても答えてもらえない内容かもしれなかったので、真は聞かなかった。
一定の間隔で宿場を兼ねた集落があり、そこで休憩を取ることができた。
最初の宿場で水を補充し、軽い食事を取った。
宿場の食堂は旅人を相手に商売しているので、速く出てくることと値段が手頃なことが優先されていた。味はエルムの里の食堂より薄かったが、腹が膨れれば十分だと真は思った。
次にここを通るときは自分で何か作れるかもしれない、と考えながら食べた。
宿場を出てしばらく歩いたところで、一度だけ魔物に出くわした。
草むらが揺れたのをガルドが先に気づき、「来る」と言った。
その言葉が終わる前に、野ウサギの三倍ほどの大きさがある生き物が二頭、草むらから飛び出してきた。
牙の生えた犬のような生き物だ。体格は小型犬ほどだが、牙が長く、目が赤い。
「牙犬か」とガルドが呟いた。魔物の種類として分類されているらしかった。
「やってみろ」とガルドが真に言った。
真が短剣を構えると、一頭が飛びかかってきた。
動きが速い。
昨日のスライムより明らかに速い。しかし速度の予測はできた。
飛びかかってくる軌道を見て、体を斜めにずらして避け、すれ違いざまに短剣を振り抜いた。
一撃で倒れた。倒れ方が速かった。
刻印の効果だ、と真は思った。「斬」が宿ったあの短剣でなければ、一撃で倒せたかどうか分からない。
「神話級の武器は効果が違う」とガルドが言いながら、もう一頭を斧で仕留めた。
ガルドが魔物の体内を確認した。
小指の先ほどの、薄く光る石が出てきた。
「魔石だ」とガルドが言い、真に見せた。
「換金できる。強い魔物ほど大きくて高値がつく。今のは下位種だから入っていたのは運がいい方だ。低位の魔物は魔石を持たないことの方が多い」
「こういう石が全部に入っているわけじゃないのか」
「そうだ。強さと魔石の有無は相関している。強い魔物を倒した方が、換金価値が高い」
「料理の素材に使える魔物はいないのか」と真は聞いた。
ガルドが真を見た。
ユナも真を見た。二人の表情が少し似ていた。
この場面でその質問が来るとは思っていなかった、という顔だ。
「いる」とユナが先に答えた。
「大型の魔物は肉になる。ダンジョンの中に食用になるものを落とす魔物もいる」
「ダンジョンか」
「この先の街道を外れたところに、難易度の低いダンジョンがある」とガルドが言った。
「霧の洞窟という。冒険者見習いがランクを上げるのに使う場所だ。ダーレムに行く前に寄ってみるか。いい経験になる」
「行こう」と真は即答した。
ガルドがにやりと笑った。
「料理の素材を探しに行く気だろ」
「それも含めて」と真は言った。
ユナが前を向いたまま、小さく笑った音がした。




