表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/42

第五節 日本語の謎

夕食を終え、三人が宿に戻る道で、ガルドが言った。

「リリアのことを少し話しておこうと思う。

お前さんが会う前に知っておいた方がいい情報がある」

「どんな情報だ」

夜の村は昼より静かだった。

石畳に足音が響く。

窓から灯りが漏れていて、中に人の気配がある。

村の全員が眠るのはもっと遅いのか、まだいくつかの家に動きがあった。

「彼女はエルフの血を引くハーフエルフだ」とガルドは歩きながら言った。

「エルフ族に疎まれ、人間社会でも差別を受けながら育ってきた。その経験が彼女を研究に向かわせた、という話を聞いたことがある」

「エルフはそんなに自分たちの血にこだわるのか」

「エルフ族は種族の純粋性に強くこだわる。混血を汚れとして扱う。エルフの知識と人間の粘り強さを両方持ちながら、どちらの社会でも完全には受け入れられない。それがリリアだ」

「理不尽だな」と真は言った。

「世界のどこにでも理不尽はある」とガルドは言い、

足を止めずに続けた。

「リリアは研究者として、どちらの社会からも距離を置いている。エルフからも人間からも独立して、古代語の研究だけをしている。それが彼女の生き方になっている。接触するとき、その背景を知っているとやりやすい」

「それと、日本語の資料についてだが」と真は促した。

「エルフ族が古代の文献を大量に秘蔵しているという話がある。エルフは寿命が長い。三万年前の出来事を記録した資料が、エルフの蔵書の中に存在する可能性が高い。その中に日本語が刻まれたものが含まれているかもしれない」

「なぜエルフが日本語の資料を持っているんだ」

「三万年前、言霊師という種族が何らかの形でこの世界に存在していた。その種族と交流した記録が、エルフの蔵書にあってもおかしくない。エルフは長命だから、その時代を生きた者が記録を残している可能性がある」

「ただしエルフはその資料を外部に公開しない、ということか」

「そうだ。自分たちの利益になる場合だけ動く種族だ。交渉が難しい。今すぐエルフに接触する必要はない。まずはリリアに会い、分かることを増やしてから考えれば十分だ」

「了解した」

宿に戻り、真は部屋で一人になった。

部屋は小さかった。

木の板の壁と床、一つのベッドと一つの机、窓が一つ。窓から村の夜が見えた。

明かりのある家と明かりのない家が混在して、まだら模様の夜景だ。

コンビニの窓から見えた都会の夜景と全然違う。

都会は均等に明るかった。

こちらは、明るい場所と暗い場所の境界が明確だ。

メモ帳を開き、ペンを取った。

今日あったことを書き留めておきたかった。

盗賊団の残党が来たこと、ユナが対処したこと、言霊の練習をしたこと、ガルドの話、食堂での夕食。

日本語で書いていく。

書きながら、文字の形を一つ一つ確認した。

「盗賊」「残党」「言霊」「魔素」。

日本語の漢字が、この世界では三万年分の意味を持っている。

自分が普通に書いているこの文字を、この世界の人間は誰一人読めない。

読めないどころか、どこで使われるどういう言語なのかも分からない。

発音も分からない。意味も分からない。

しかしこの文字を紙に書くと、神話級になる。

その逆転がまだ実感として追いついていない、と真は思った。

日本で五年間、誰にも読まれないレシートや注文書や連絡票を書き続けてきた。

その同じ文字が、ここでは最高位の力を持つ。

この文字に力があったとして、それは日本にいたときも同じだったのだろうか。

分からなかった。

ただ、日本では誰にも届かなかった言葉が、この世界では何かに届いている。

それだけは確かだった。

届く言葉と、届かない言葉の違いは何か。

言葉そのものの差ではない、とユナが教えてくれた夜のことを思い出した。

言語がその容器で、込める意志と感情が力になる。

日本での「いらっしゃいませ」には、何も込めていなかった。

この世界での「やめろ」には、感情が込められていた。

届く言葉には何かが込められていて、届かない言葉には何もない。

その差がここでは目に見える形で現れる。

メモを取りながら、真はそういうことを考えていた。

「まこと」と廊下から声がした。

扉を開けるとユナが立っていた。

珍しかった。ユナから真の部屋を訪ねてきたのは初めてだ。

自分の部屋に入って終わり、というのがユナのパターンだと思っていた。

用があれば廊下で待っている。それがユナのやり方だ。

「日本語、一文字だけ書いて見せて」と言った。

「何を書く?」

「名前。まことって書いてみて」

真はメモ帳を持ってきて「真」と書いた。見

せると、ユナが文字をじっと見た。

近くで見ると分かったが、ユナは文字の形そのものを見ていた。

味を解読しようとしているのではなく、形として見ている。

美術品を見るような目だ、と真は思った。

「意味はあるの?」

「まことは「真実」とか「本当のこと」という意味だ」

ユナが声に出した。

「しんじつ」と言って、また文字を見た。

「いい名前ね」

「母親がつけてくれた」と真は言った。

ユナが顔を上げた。

「お母さん、どんな人?」

「普通の人だ。料理が上手い。俺が料理をある程度できるのは母親の影響だと思う」

「会えなくなって寂しい?」

真は少し考えた。

寂しいか。

母親の顔を思い浮かべた。

朝早く起きて、台所で音を立てて料理をする人だ。

真が起きてきたときにはいつもご飯ができていた。

仕事から帰るとご飯ができていた。

それが当たり前だったので、その当たり前がなくなった今、何かが欠けている感じがする。

「寂しい」と答えた。

「でも……どこかで繋がっている気がする。言葉みたいに」

「言葉みたいに」とユナが繰り返した。

「俺の言霊は感情が源になる、とガルドが言った。

感情というのは、誰かのことを思うことでもある。

母親のことを思えば、その感情が言葉に乗る。

そういう意味では、言葉を通じてどこかで繋がっている気がする。

うまく説明できないが」

ユナがその答えを聞いて、何かを考えるような目をした。

黙って少し考えていた。

「言葉みたいに」とまた繰り返した。「……そうかも」

何かに当てはまる言葉を見つけた、という顔だった。しかし何に当てはまったのかは、言わなかった。

少し間があって、「おやすみ」と言い、ユナは自分の部屋へ戻っていった。扉が閉まる音がした。

真は廊下を見ていた。

ユナが訪ねてきた理由が、完全には分からなかった。

日本語の文字を見たかったのか、名前の意味を聞きたかったのか、それとも別の何かがあったのか。

どれか一つではなく、全部が混ざっていたかもしれなかった。

しかし訪ねてきた、という事実があった。

自分から動いてくれた、ということだ。

それが真には、何かを意味している気がした。

言葉が届いた感触が、また少し増えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ