第五節 日本語の謎
夕食を終え、三人が宿に戻る道で、ガルドが言った。
「リリアのことを少し話しておこうと思う。
お前さんが会う前に知っておいた方がいい情報がある」
「どんな情報だ」
夜の村は昼より静かだった。
石畳に足音が響く。
窓から灯りが漏れていて、中に人の気配がある。
村の全員が眠るのはもっと遅いのか、まだいくつかの家に動きがあった。
「彼女はエルフの血を引くハーフエルフだ」とガルドは歩きながら言った。
「エルフ族に疎まれ、人間社会でも差別を受けながら育ってきた。その経験が彼女を研究に向かわせた、という話を聞いたことがある」
「エルフはそんなに自分たちの血にこだわるのか」
「エルフ族は種族の純粋性に強くこだわる。混血を汚れとして扱う。エルフの知識と人間の粘り強さを両方持ちながら、どちらの社会でも完全には受け入れられない。それがリリアだ」
「理不尽だな」と真は言った。
「世界のどこにでも理不尽はある」とガルドは言い、
足を止めずに続けた。
「リリアは研究者として、どちらの社会からも距離を置いている。エルフからも人間からも独立して、古代語の研究だけをしている。それが彼女の生き方になっている。接触するとき、その背景を知っているとやりやすい」
「それと、日本語の資料についてだが」と真は促した。
「エルフ族が古代の文献を大量に秘蔵しているという話がある。エルフは寿命が長い。三万年前の出来事を記録した資料が、エルフの蔵書の中に存在する可能性が高い。その中に日本語が刻まれたものが含まれているかもしれない」
「なぜエルフが日本語の資料を持っているんだ」
「三万年前、言霊師という種族が何らかの形でこの世界に存在していた。その種族と交流した記録が、エルフの蔵書にあってもおかしくない。エルフは長命だから、その時代を生きた者が記録を残している可能性がある」
「ただしエルフはその資料を外部に公開しない、ということか」
「そうだ。自分たちの利益になる場合だけ動く種族だ。交渉が難しい。今すぐエルフに接触する必要はない。まずはリリアに会い、分かることを増やしてから考えれば十分だ」
「了解した」
宿に戻り、真は部屋で一人になった。
部屋は小さかった。
木の板の壁と床、一つのベッドと一つの机、窓が一つ。窓から村の夜が見えた。
明かりのある家と明かりのない家が混在して、まだら模様の夜景だ。
コンビニの窓から見えた都会の夜景と全然違う。
都会は均等に明るかった。
こちらは、明るい場所と暗い場所の境界が明確だ。
メモ帳を開き、ペンを取った。
今日あったことを書き留めておきたかった。
盗賊団の残党が来たこと、ユナが対処したこと、言霊の練習をしたこと、ガルドの話、食堂での夕食。
日本語で書いていく。
書きながら、文字の形を一つ一つ確認した。
「盗賊」「残党」「言霊」「魔素」。
日本語の漢字が、この世界では三万年分の意味を持っている。
自分が普通に書いているこの文字を、この世界の人間は誰一人読めない。
読めないどころか、どこで使われるどういう言語なのかも分からない。
発音も分からない。意味も分からない。
しかしこの文字を紙に書くと、神話級になる。
その逆転がまだ実感として追いついていない、と真は思った。
日本で五年間、誰にも読まれないレシートや注文書や連絡票を書き続けてきた。
その同じ文字が、ここでは最高位の力を持つ。
この文字に力があったとして、それは日本にいたときも同じだったのだろうか。
分からなかった。
ただ、日本では誰にも届かなかった言葉が、この世界では何かに届いている。
それだけは確かだった。
届く言葉と、届かない言葉の違いは何か。
言葉そのものの差ではない、とユナが教えてくれた夜のことを思い出した。
言語がその容器で、込める意志と感情が力になる。
日本での「いらっしゃいませ」には、何も込めていなかった。
この世界での「やめろ」には、感情が込められていた。
届く言葉には何かが込められていて、届かない言葉には何もない。
その差がここでは目に見える形で現れる。
メモを取りながら、真はそういうことを考えていた。
「まこと」と廊下から声がした。
扉を開けるとユナが立っていた。
珍しかった。ユナから真の部屋を訪ねてきたのは初めてだ。
自分の部屋に入って終わり、というのがユナのパターンだと思っていた。
用があれば廊下で待っている。それがユナのやり方だ。
「日本語、一文字だけ書いて見せて」と言った。
「何を書く?」
「名前。まことって書いてみて」
真はメモ帳を持ってきて「真」と書いた。見
せると、ユナが文字をじっと見た。
近くで見ると分かったが、ユナは文字の形そのものを見ていた。
味を解読しようとしているのではなく、形として見ている。
美術品を見るような目だ、と真は思った。
「意味はあるの?」
「まことは「真実」とか「本当のこと」という意味だ」
ユナが声に出した。
「しんじつ」と言って、また文字を見た。
「いい名前ね」
「母親がつけてくれた」と真は言った。
ユナが顔を上げた。
「お母さん、どんな人?」
「普通の人だ。料理が上手い。俺が料理をある程度できるのは母親の影響だと思う」
「会えなくなって寂しい?」
真は少し考えた。
寂しいか。
母親の顔を思い浮かべた。
朝早く起きて、台所で音を立てて料理をする人だ。
真が起きてきたときにはいつもご飯ができていた。
仕事から帰るとご飯ができていた。
それが当たり前だったので、その当たり前がなくなった今、何かが欠けている感じがする。
「寂しい」と答えた。
「でも……どこかで繋がっている気がする。言葉みたいに」
「言葉みたいに」とユナが繰り返した。
「俺の言霊は感情が源になる、とガルドが言った。
感情というのは、誰かのことを思うことでもある。
母親のことを思えば、その感情が言葉に乗る。
そういう意味では、言葉を通じてどこかで繋がっている気がする。
うまく説明できないが」
ユナがその答えを聞いて、何かを考えるような目をした。
黙って少し考えていた。
「言葉みたいに」とまた繰り返した。「……そうかも」
何かに当てはまる言葉を見つけた、という顔だった。しかし何に当てはまったのかは、言わなかった。
少し間があって、「おやすみ」と言い、ユナは自分の部屋へ戻っていった。扉が閉まる音がした。
真は廊下を見ていた。
ユナが訪ねてきた理由が、完全には分からなかった。
日本語の文字を見たかったのか、名前の意味を聞きたかったのか、それとも別の何かがあったのか。
どれか一つではなく、全部が混ざっていたかもしれなかった。
しかし訪ねてきた、という事実があった。
自分から動いてくれた、ということだ。
それが真には、何かを意味している気がした。
言葉が届いた感触が、また少し増えた。




