第二節 ユナの本気
しかし、真より早くユナが動いていた。
立ち位置は変えず、腕を伸ばしただけだった。回避でも、攻撃でも、跳躍でも、走り込みでもない。ただ腕を横に伸ばして、男の腕を掴んだ。それだけのことなのに、男は動きを止めた。
止めた、というより、止まった。意志で止めたのではなく、体が止まってしまった感じだった。
「触らないで」
ユナの声だった。
真が今まで聞いたユナの声とは別の声だった。温度が消えていた。感情も、迷いも、躊躇も、何もなかった。怒っていない。怖がっていない。何もない。事実として空気に置かれた言葉だった。その空白が、かえって重かった。何かが込められているより、何もないことの方が、聞いた人間の体に直接届く。そういう声の質だった。
男の顔が歪んだ。
「いっ……」
呻いて、男は腕を抱えてしゃがみ込んだ。
外から見えるけがは何もない。ユナの手が掴んでいたのは男の手首の辺りだ。握力で痛めたのかと思えば、そうではない。傷があるわけでもない。皮膚が破れた様子も、骨が折れた音もなかった。それなのに男は青い顔で地面に蹲っている。顔色が急に変わった。まるで内側から何かが崩れたような変わり方だ。
昨日、スライムにやったあれと同じことを、人間相手にやった。内側から傷を開かせた。
スライムに使ったとき「実用的でしょ」と言っていた。あのとき真は軽く聞き流した。冗談のような言い方だったし、スライムが相手だったのでそこまで考えが及ばなかった。しかし今、人間相手にやってみせると、その「実用的」がどういう意味かが分かった。傷を付けずに無力化できる。殺さずに止められる。医療の技術を逆用した、ある種の非致死的な制圧手段だ。
しかし同時に、これを使える人間がどういう人間かを、真は少し改めて考えた。
医療の技術を逆用するには、医療の知識が必要だ。生き物の体の内側がどうなっているか。どこに力を加えれば、どういう結果が出るか。それを知っていて、なおかつ瞬時に実行できる技術を持っている。それは単純な戦闘訓練では身につかない種類の知識だ。
ユナは何者なのか、という疑問が再び真の中に浮かんだ。
ユナは男から手を放し、何事もなかった顔で立っていた。表情は穏やかだ。先ほどと変わらない顔だ。しかし目だけが冷たい。その落差が、傍で見ていた真には奇妙なほど鮮明だった。穏やかな顔と冷たい目が同じ顔に共存している。感情を切り離した状態で行動できる人間の顔だ。
それを見ていた仲間の男たちが、一歩退いた。
正面でガルドと向き合っていた男たちも、背後で起きたことに気づいた。仲間が蹲っている。倒れたのではなく、崩れた感じだ。何をされたのか分からないが、結果として一人が無力化された。それだけで、空気が変わった。
「見えたと思うが」とガルドが首領格の男に言った。声のトーンは変わっていない。「この三人を相手にしても分が悪い。今日は引いた方がいい。あなた方が先に来た話は棚に上げて、ここで終わりにすることができる。その方がお互いのためになる」
首領格の男は唇を噛んで、蹲った仲間を見て、それからユナを見た。
ユナは男の視線を受けたが、何も変わらなかった。表情が変わらない。立ち方が変わらない。視線の冷たさも変わらない。逃げていない。しかし攻撃的でもない。ただそこにいる、という存在の仕方だ。それが首領格の男には、言葉より強い威圧として届いたのかもしれなかった。
「……覚えておけ」
捨て台詞だった。言わなければならない何かがあって、しかしそれだけしか言えなかった、という種類の言葉だ。意味より、何かを言わずに引けないという感情から出た言葉だ。
男たちが引いていった。蹲っていた仲間を二人が引き立て、残りが後ろを向いて歩き始めた。足音が広場から遠ざかる。村の入口を出た音がした。それから静かになった。
静寂が戻ると、真はユナの方を向いた。
「大丈夫か」
「私が何を」とユナは言った。声が元に戻っていた。先ほどの温度のない声ではなく、普通のユナの声だ。「何が?」
「あんなことをして、疲れないかと」
「疲れない」とユナは言った。それから少しだけ顔を崩した。眉が少し下がり、口元が少し緩んだ。「……びっくりした?」
聞き方が、先ほどの声と全然違った。少し子供のような、確かめたいという感じがある聞き方だ。
「した」と真は答えた。「格好よかったと思う」
ユナが真を見た。その目が一瞬、揺れた。
きれいに揺れた、と真は思った。感情を切り離した目が、一瞬だけ感情を持った。それがすぐに元に戻った。戻り方が速かった。習慣として、感情を表に出すことをしない人間だと分かる戻り方だった。しかしその一瞬が確かにあった。
「おせじが上手いのね」
「本気で言ってる」
ユナは答えなかった。視線を逸らして、歩き出した。
ガルドが真の耳元で低く言った。「お前さん、なかなか分かっているな」
「何がですか」
「まあいい」とガルドは笑った。意味を教えてくれる気はないらしかった。しかしその笑い方に、真への評価が入っているのは感じた。よく言った、という評価だ。
真はユナの後ろ姿を見ながら歩き始めた。
格好よかった、というのは本心だった。おせじではない。ただ思ったことを言っただけだ。しかしそれを言ったことで、ユナの目が一瞬揺れた。揺れたということは、届いたということだ。
言葉が届いた感触が、また少し増えた。




