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第六節 静かな夜に誓う

食事のあと、二人は村外れに出た。

食堂での夕食はシンプルだったが、温かかった。

スープと、焼いたパンと、煮込んだ豆が中心の食事だ。

素材の味だけで成立していて、調味料の主張がない。悪くはない。

しかし真には、もう少し何かを加えたい感覚があった。

例えば醤油があれば豆の煮込みが変わる。

例えばにんにくがあればスープに深みが出る。

こちらの世界にも似た食材があるかもしれない、と思いながら食べた。

食後にガルドが「村の南に草地がある。夜は景色がいい」と言ったので、

三人で出た。

しかし広場で知り合いに声をかけられたガルドが一人残り、自然に真とユナの二人になった。

夜風が涼しかった。

草原の向こうに森が黒く続いている。

村の明かりが後ろにあって、足元をうっすら照らしている。

草が風に揺れ、その動きが光の中で見えた。

空は星が多かった。

昨夜も多かったが、今夜もそれに劣らない。

白い帯が空を横切っているのは銀河だろうと思った。

都会では絶対に見えない。

こちらには光害がない。

人工の光が空を汚していない。だから本来の空がそのまま見えている。

これが本来の夜空だ、と思った。

人間が光の文明を始める前、どこにいても見えたはずの空だ。

「こんな星、日本じゃ見えなかった」と真は言った。

「日本の空は暗いの?」

「暗いんじゃなくて、明るすぎる。街の光で星が見えなくなる」

「もったいない」

「そうだな」と真は言った。

「でも日本の夜には別の良さがあった。コンビニはどこに行っても開いていて、雨でも歩ける屋根付きの通路があって、電車は深夜まで動いていた」

「それが恋しい?」

真は少し考えた。本当に恋しいか。

コンビニの蛍光灯、深夜のBGM、空っぽのバックヤードの椅子。

それが恋しいかと言われれば、正直なところ、あまり恋しくなかった。

恋しいのはあの空間ではなく、あの空間がなくなった後に続くはずだった何かかもしれない。

しかしそれは日本にいても続かなかった。

「少しはある」と答えた。「

でも戻りたいかと言われると、分からない」

「ここには来たくて来たの?」

「来たくて来たわけじゃない。

でも、日本にいたとき、どこか遠くへ行きたいと思っていたのは本当だ」

「じゃあ願いが叶ったのかもしれない」

「そんな呑気な話じゃないと思うけど」と真は笑った。

「まあ……悪くはない、今のところ」

ユナが空を見上げた。

「まこと」

「何」

「この先どうしたい?」

「スローライフがしたい」と真は即答した。

ユナが少し首を動かし、真の方を向いた。

「スローライフ」と繰り返した。「それは何」

「のんびり暮らすことだ。美味いものを食べて、誰かの役に立ちながら、争いごとに巻き込まれず、細々と生きる。誰かに怒鳴られず、追い立てられず、ただ自分の好きなことをして、それが誰かの幸福にも繋がる、そういう生き方だ」

「その「好きなこと」というのが料理か」

「料理が一番具体的だ。あとは、何かを作ること全般。今日の刻印作業が楽しかった。

文字を彫っていると、集中できた。コンビニのレジを打ち続けるのとは違う、手ごたえがある集中だった」

ユナがわずかに口を開きかけて、また閉じた。

「何か言いたそうだな」

「のんびり暮らしたい人間が、盗賊を追い払って、神話級アイテムを作って、初日から里中に名前が広まったことについて、どう思っているのかと」

「俺もそう思う」と真は言い、苦笑した。

「今日一日を振り返ると、スローライフとは対極だった。しかし始まってしまったことは仕方ない」

「これからも似たようなことが続きそう」

「縁起でもないこと言うな」

ユナがわずかに笑った。

今日一日で、ユナが笑ったのを真がはっきり確認したのは初めてだった

口の端が上がり、目が少し細くなる。

そのまま一瞬で元に戻る。

短い笑いだったが、本物だった。

昨日の夜の焚き火の前での微かな表情の変化より、もう少しはっきりした笑いだった。

「でも、続く騒ぎがあっても、なんとかなればいい」と真は言った。

「逃げきれる場所を探しながら、のんびりできる場所も探しながら、動いていこうと思っている」

「逃げきれればね」

「そういうの、辛口って言うんだよ」

「事実を言ってるだけ」

「辛口なのに言い方は丁寧だな」

ユナがまた少し笑った。今度は少し長かった。

三秒くらいあった。真はその三秒を見ていた。

二人でしばらく、空を見ていた。言葉のない時間が続いたが、嫌ではなかった。

コンビニで同僚と並んで立っているときの沈黙とは質が違う。

あちらは何も共有していない沈黙だ。

ただ同じ空間にいるだけで、互いが何も接触していない。

しかし今の沈黙は、同じものを見ているという接触がある。

空を見ている、という一点で、確かに繋がっている。

「明日、ギルドで依頼を受けよう」と真は言った。

「金も必要だし、もっとこの世界を知りたい」

「そうしよう」とユナは言い、続けた。

ガルドさんも一緒に動いてくれると思う。あの人は信頼できる」

「そう思うか」

「息子を失ってから旅をしている人は、守ることへの動機が強い。無謀な行動をしない。信頼できる」

「昨日の話を聞いていたのか」

「聞こえた」

「鋭いな」

「旅をしていると、耳がよくなる」

「なるほど」と真は言い、それから少し間を置いた。「お前がいなかったら何もできないから、頼む」

「報酬は半分」

「半分でいい」

「交渉成立」とユナは言い、先に立って村の方へ歩き始めた。

真は少し遅れてその後に続いた。

草を踏む足音が二つ続く。

先を歩くユナの銀色の髪が、村の明かりを受けてわずかに光っている。

昨日の夜、焚き火の前で初めて会ったときより、その後ろ姿が近く感じる。

距離は変わっていないが、何かが変わった。

スローライフには程遠いかもしれない。

しかし今この瞬間、前に進む道がある。

隣に人がいる。

今日一日で、自分の力の輪郭が少しだけ分かった。

明日には依頼をこなして、少しずつ世界を知っていける。

コンビニのバックヤードで缶コーヒーを飲みながら「どこか遠くへ行きたい」と思い続けた五年間が、今は違う形になっている。

「遠くへ行きたい」という気持ちは、もうなかった。

すでにここにいる。ここで動いている。

それが今の真の全部だった。

村の明かりが近づいてきた。

石畳の音が草の音に変わった。

ギルドの建物の窓から、まだ灯りが見えた。

木下真の、この世界での最初の一日が、静かに終わろうとしていた。


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