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序章「深夜のコンビニ」 第一節 機械仕掛けの日常

深夜二時十七分。

店内に流れるBGMは、日中のものより半音ほど低い調性に切り替わっていた。

誰が設定したのかは知らないが、この時間帯の静けさに合わせたものらしい。

木下真はその音楽を聞くたびに、少しだけ眠気が増す気がしていた。


「いらっしゃいませ」


自動ドアが開いた。真は顔を上げ、入ってくる客を確認してからレジに向き直った。

フードを目深に被った男だ。視線を合わせようとしない。手に取る商品は缶ビール二本と唐揚げ棒。

毎晩来る。名前は知らない。それでいい。

スキャン。スキャン。合計金額を告げる。釣りを渡す。


「ありがとうございました」と言う。


男は何も言わずに出ていった。

また一人。それだけだ。


真は二十七歳だった。大学を出たあと、就職活動がうまくいかなかった。

第一志望も第二志望も書類選考で落ち、面接まで進んだ会社からも立て続けに不採用の通知が来た。

気力が続かなくなって活動を止めた頃、近所のコンビニで夜勤のアルバイトを始めた。

とりあえず生活費が要る。それだけの理由だった。

「とりあえず」が五年以上続いた。


昼間のシフトに入れる社員が増えていき、自然な流れで真の担当は深夜から朝の六時になった。慣れた。慣れてしまえばそれほど辛くもない。客が少なく、静かで、余計なことを考えなくていい。

発注をして、棚を整えて、床を拭いて、レジを打つ。それを繰り返せば夜が明ける。

ただ、何かが欠けていた。

何が欠けているのかは、具体的に言葉にできなかった。給料は低いが生活できる。

体は疲れるが倒れるほどではない。人間関係はほぼないが、それが楽でもある。

客に怒鳴られることもたまにあるが、それも慣れた。


問題は、慣れたことそのものかもしれなかった。


休憩時間にバックヤードの丸椅子に座り、缶コーヒーを両手で包みながら真は思った。

子供のころ、何かになりたかった気がする。何だったろうか。遠くにありすぎて、輪郭すら見えない。

叶わなかったのか、忘れてしまったのか、最初からなかったのか、もう区別がつかない。

スマートフォンを開く。SNSのタイムラインが流れる。誰かが旅行に行っている。

誰かが昇進した。誰かが結婚を発表している。眺めても何も感じない。

感情が反応するより先に指がスクロールしてしまう。それが嫌で閉じる。また開く。また閉じる。


「……何してるんだろうな、俺」


声に出すと、狭いバックヤードの壁に当たって戻ってきた。誰も聞いていない。

誰に聞かせたわけでもない。ただ、声に出してみなければ、自分がまだ何かを考える能力を持っているかどうか確かめられない気がした。

缶コーヒーの最後の一口を飲む。冷めている。少し苦い。

立ち上がり、制服の胸ポケットに手を当てた。名札が刺さっている。「木下」と書いてある。

五年間、この名前がここに刺さったままだ。

楽になりたいと思った。

正確には、もっと前から、何度も思っていた。楽な仕事がしたいとか、楽な場所に行きたいとか、そういう具体的な意味ではない。ただ、この重さをどこかに置いてきたかった。

働くだけの毎日の、どこにも向かっていない感じの、その重さを。

あるいは、全部捨てて、どこか遠くへ行けたら。

思いながら、真は売り場に戻った。自動ドアが開き、また客が来た。


「いらっしゃいませ」


言葉が出た。声量も、速度も、前回と同じだった。この言葉は五年間、何万回と繰り返してきた。

誰にも届いていないと知りながら、明日も同じ言葉を言うだろうと分かりながら、それでも出続ける言葉だった。


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