第1話
お手に取ってくださりありがとうございます。
―――水と油。
ひと言で表現すると、そんな風な表現がしっくり来る気がする。
彼女、町里光莉こと光莉は、幼い頃、一般家庭とは隔絶した世界にいた。
母は医師の家系出身で内科医をしており、父は外科医で父方の祖父は病理学の元研究員。母方の父は町医者で、祖母の家系も医師家系―――という医学家系の『サラブレッド』としてこの世に生を受けた彼女。
幼い頃、物心ついた頃には母に“お医者さんごっこ”のオモチャを与えられ、塾通いからお受験に始まり。そして、気づいたときには医学科を受験し合格していた。それはまるで必然の如く―――。
しかし、家族の期待とは逆に、光莉自身はまるで『医師になりたい』という心構えはなかった。
元々、明るく聡明ではあったが、流血を見るのはどちらかと言えば苦手な上、頭を使うような勉学よりもイヤホンをしながらストレッチ、ジョギングしたりすることの方が好きなタイプ。
真面目に医学書に齧りついてコツコツオペの縫合術を鍛錬するのは、心の端では、『これって、私のやりたいことなのかなぁ』などと考えるほど、違っている気がしていた。まさにそれは「水と油」だった。
それでも、「医師になるのが自分の運命だ」という心構えは両親の刷り込みか、自ずと医師としての体躯は出来上がって行く。
気づいた時には、流されるまま“初期臨床研修”、“外科専門研修”も無事終え、28歳の秋になっていた。
彼女、光莉は外科の専門医として病院の職場に馴染もうと必死に勉学していた。
朝から、おはよう、と先輩医師同士の挨拶の声と、絡んで雑談をする他の男性医師の声が医局に響き渡る。内一人は「お前、昨日11月予定のオペの予定勝手に入れただろ。教授が愚痴を漏らしてたぞ」と愚痴らしき言葉を相手に漏らしている。
医局は広々としており、10名ほどのデスクが行儀よく並べられていた。その一番端に、光莉の席はある。ここ、「東総合北口医療センター」は、循環器系のオペに強い病院として、全国的に有名である。名古屋や大阪から、はたまた福岡からわざわざオペの為、最後の希望を持って転院してくる患者は珍しくなかった。
そんな「医療センター」の外科に配属され、そろそろ慣れてしっかりしてもおかしくなさそうな光莉。しかし、元々苦手とは言わないものの『流血』を見るのは気が滅入るタイプの彼女は、人一倍感受性が強いこともあってか、専門医になったと言うのに一向に『人並み』になる様子がなかった。
少々騒がしい医局の中で、光莉はこの日も予定されているオペの為に「虚血性心疾患」と書かれた患者のカルテを医局の自身のデスクに広げ、関連する書類を顰めっ面で睨みながら読み耽っていた。
熱心に勉強する彼女は今年で28歳だ。その隣のデスクに、ふと、とある男性医師が歩み寄ると、椅子を引いて腰掛けた。彼女の様子には一瞥もくべることなく、デスク上のノートパソコンを開いて起動する。
彼は尾坂誠。そのモデルのような顔立ちと仕事ぶりから、院内でも若い女性看護師や女医達からアプローチを受けることも少なくない。今年で35歳と言う年齢に相応しい身に着けたオペの手腕は確かで、この外科の“エース”として医局長達からの信頼も厚かった。
そんなカルテを確認していた彼の隣の席から、不意に何かブツブツと喋る声が聞こえ、彼は二度見するように横の光莉の方をチラと見やった。どうやら勉強している光莉がカルテや資料を熟読しているらしい。それが独り言だと気づくと、『集中しての独り言か…』と言う顔で納得し片眉を上げると、画面に視線を戻した。
しかし―――。
「町里ぉ!!」
医局に突然、佐藤医局長が怒鳴り声も一緒に駆け込んで来た。周囲に散らばる外科の医師達5人ほどの視線が、一様に彼に向けられた。今年で52歳の彼は、バタバタと靴音を響かせ、駆けてくる。
え?と光莉は呼ばれたのに気づくと、ようやく集中していた意識を現実に戻した。あ…、とキョトンとした声を漏らして椅子から腰を上げて振り返る。佐藤医局長は、駆け寄ってくると、話も聞かないうちから、光莉の肩を両手の拳で乱暴に叩いた。イタ、痛い…!と声を漏らす光莉には目もくれず、彼は言った。
「あれだけ…!あれだけ清水先生のオペでは『余計なことをするな』と言ったのに…!!」
感情任せに叩かれ、痛い、と幾度も声を漏らす光莉の傍で、椅子から立ち上がった尾坂が、佐藤医局長の手を制止する。
「医局長…!どうされたんですか、落ち着いてください…」
低く穏やかな声で尋ね、まるで光莉を守るかの様に医局長の前、光莉の前にそっと立ちはだかる彼。身体で遮る彼は医局長の両手を掴み、その彼の白衣の裾はひらりひらりと揺れた。叩くだけ叩いて勢いが少し落ち着いて来たらしく、間もなく彼は肩で息をするだけに留まった。肩をさすっていた光莉を一度心配げに振り返り、尾坂は「大丈夫ですか?」と声を掛ける。光莉は「すみません、ありがとうございます」と答えた。
「どうされたんですか」
光莉の前に立ち遮ったまま尾坂が医局長に尋ねると、彼はようやく怒ったままではあるものの、落ち着いて説明した。
「この“光莉”に昨日も一昨日も注意しておいたんだ!『清水先生のオペでは余計なことはしなくていいから、傍で見て勉強しとけ』と!だのに!このバカは!」
彼は皮肉たっぷりに女性の声色を真似して言った。
「『ここは吸引で合ってますか?』『この左内胸動脈は状態の良いグラフトを選ぶってことですか?』だと!カメラにもしっかりコイツの声が残ってた!確認したんだ!」
すると、尾坂は少し不思議そうな顔をした。
「しかし、医局長。左内胸動脈は石灰化を恐れて無理に使うよりは、状態の良いグラフトを選ぶ方が患者さんのためになる、と言う基礎的なことを考えて彼女は、術中にそう言ったんじゃないですか?まだ充分に経験を重ねて落ち着いた外科医じゃないですから、術中に臨機応変に対応することを再確認するのも重要なことですし…」
グラフトとは、バイパス術において広く用いられる人工物のことだ。心臓の冠動脈が狭くなったり詰まったりして血流が悪くなった部分に対し、別の場所から持ってきた『人工血管』を繋ぎ合わせて、新しい血液の通り道を作るために使われる。
彼、尾坂は、患者の将来的に起こりえるグラフトの『石灰化』を恐れて無理に“自然なままの血管”を使うよりは、状態の良い『人工血管』を選ぶ方が患者さんのためになるのではないか、と光莉は考えてそういったのでは、と医局長に対し疑問を投げたのである。
すると、医局長は顔をしかめて、それまで盾になっていた尾坂の肩を掴むと、横へとなぎ倒すように押しやり、再度光莉を拳で叩いた。どうやら怒りが再沸騰したようだ。傍にあった誰か別の医師のデスクに転倒しぶつかった尾坂は、痛みから「いて…!」と顔をしかめた。
「痛い…!医局長、やめてください!」
直後、光莉の悲鳴を聞いて、彼は慌てた様子で駆け寄り再度、医局長の腕をつかんで彼女から引き離した。
目を通して下さりありがとうございましたm(_ _)m