07. さよなら
それでもわたしは、彼の才能を信じていた。
好きになったのはわたしの方だった。
お気に入りの漫画を描いている作者が、同時バイトしていた喫茶店の店長の知り合いだとわかり、同い年ということもあって奇跡的に紹介してもらえることになったのが始まりだった。
初めて待ち合わせをした日のことを思い出す。
公園の噴水前にいた彼は、想像していた人と全然違った。
テンポの良い若干激しめな少年漫画を描いているあの人とは思えないくらい、地味だし、大人しいし、かなり人見知りな様子だった。
それでも一生懸命わたしに漫画の話を熱く語ってくれ、不意に見せる笑顔が愛おしかった。すぐに男として好きになった。
映画に行ったり飲みに行ったりと何度もデートを重ね、八回目のときに告白された。
幹久さんといる自分が好きだった。
飾らず、見栄を張らず、おしゃれもしなくていい。気を遣わずに素でいられる、彼はそんな相手だった。
そしてわたしは誰よりも彼の漫画のファンだった。
就職して二年が経った頃にプロポーズされ、結婚した。
さらに漫画が売れていけば、わたしは会社を辞めて全力で彼をサポートする気でいた。
……それなのに。
酔っ払った状態の幹久さんの抵抗は、恨みで満ちたわたしの力には微塵も勝てなかった。
わたしが包丁を取りに行っているほんの短い間に、夫はまた目を瞑り、いびきまでかき始めた。その全てにイライラした。
ふと開いたその瞳が包丁を持ったわたしを見て驚いた色になったのは一瞬のことだった。
彼の胃の辺りを思い切り刺すと、呆けたように床の一点を見つめてうずくまった。口からはどっと血が流れている。
初めてだったけど、案外ちゃんと刺さるものだなと思った。
声にならない苦しそうな息を吐きながら、恨めしそうにこちらを睨んでくる。
「はっ……はぁっ……くっ……てめぇ……許さねぇから、なっ……」
必死に絞り出したその声はわたしを呪っているようだった。
どうしてなのだろう。わたしがいったい何をしたというのだろう。
今まであなたのために生きてきたのに。
あなたの夢を信じ、どんなに枯れた状態になってもまた再び大きな花を咲かせてくれるだろうと、健気に待ち続けていたのに。
だから浮気も許したし、お金も貸した。家賃や生活費だって払った。嫌な仕事も続けていた。
苦しむ夫は、死にかけのゴキブリのようだった。
「ねぇ、なんで?なんでわたしが悪いの?」
自分でもぞっとするほど冷えた声に、なぜか口元が緩む。
「あんたのせいでしょ、全部。……何もかも!!!」
自分のようで、自分ではないみたい。
部屋中に響き渡る大声に、我ながらびっくりする。
「なんで漫画が描けないの?それを理由にしてか知らないけど、なんでお金がないのに飲みに行くの?わたしに借りてまで……どうして返さないのよ!!!」
あばら辺りを思い切り蹴り上げると、これまでにない快感に包まれた。
こんなに気持ちがスカッとしたのはいつぶりだろう。
わたしを睨むその目がだんだん力を失っていき、しばらくすると少し開いたまま止まった。
死んだとすぐにわかった。
なんだ、こんなに簡単な話だったのか。
もっと早い段階でこうしておけばよかった。
こんな風に、全てから解放されていたのに。
なんだか妙にホッとして、わたしは汚れた身体のまま一人で寝室に入った。
隣に夫がいないベッドはとても広く、居心地が良かった。安心感に包まれながらわたしは眠りについた。
夫が生きていることに心の底から幸せを感じてこのベッドで眠ったことが嘘だったかのように、今の私は彼が死んだことを喜んでいる。
そして夢には、またミキちゃんが出てきた。
ここまでお読みいただきありがとうございますー!
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