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06. 終了


 彼が漫画家として働いていた頃はまだ良かった。

 二年前に結婚したとき、安定しない職業だということはわかっていた。もし何かあってもわたしが働いている限り大丈夫だと思っていた。

 彼の仕事は軌道に乗っているように見えた。

 しかし連載漫画の人気が伸び悩み、中途半端なところで打ち切りになって、それからはずっと家にいるだけで漫画を描いている様子は見えない。

 つまりほぼ無職だ。



 午前一時が過ぎ、さすがに扇風機だけでは暑さに耐えられずエアコンの電源を入れた。

 彼はいつもエアコンをつけっぱなしにして快適に過ごしているけど、わたしは一人の時できるだけつけないようにしている。少しでも電気代を節約するためだ。

 わたしの給料だけでこの都内の2LDKのマンションで暮らすには、そろそろ限界がある。


 『まだ帰ってこない?』と送ったLINEは返信がこないまま、二時半になった。

 わたしはシャワーも浴びず、ソファにじっと座り彼の帰りを待っていた。

 閉じそうになる瞼をなんとかして重力に逆らい続けていたら、ようやくガチャっと玄関から音がした。

 急いで振り向くと、赤ら顔の夫が千鳥足でわたしのいるソファへと歩いてきた。

 しかしわたしがそこにいるとは思っていなかったようで、存在に気付くと驚いたのか、一瞬ぎょっとした顔をした。



「……なんだぁ、いたの。何してんの?そんなことろで」



 怪訝そうに、呂律のまわっていない喋り方で聞いてくる。

 絵に描いたような、明らかな酔っ払い。

 わたしの隣にどかっと座り「はぁーーー」と大きく吐いたその息はとても酒臭かった。

 同い年でまだ二十代のはずなのに、もうすっかりおっさんみたいだ。まぁわたしも地味だし老けているし、おばさんみたいだからお似合いなのかもしれない。



「幹久さん、あのね、聞いてほしい話があるの」


「へぇ?」



 何も考えていさそうな、素っ頓狂な声。

 

 漫画家のアイデアが湧いてこないのか、湧いたけど評価が悪かったのか知らないけど、全てを放り出して、支払いを全てわたしに押し付け、わたしのお金を借り、飲みに行くことしかできないこのだらしない老けた男。酒に逃げた、弱い人間。クソ野郎。

 わたしを見つめるそのみっともない表情に、今すぐ殴り倒したい衝動に駆られる。

 それでもなんとか感情を押し殺し、わたしは彼に言葉を紡ぐ。



「あのね、わたしね」



 彼はソファにとても深く腰掛けたまま、天井を仰いで目を閉じる。



「会社で結構ひどいパワハラをされてるの。みんなにこき使われてまくってて、毎日辛いの」



 まるでわたしの声なんて聞こえていないみたいに、幹久さんは動かない。



「今日、帰りの電車で痴漢された」



 相変わらず動かない。

 妻がパワハラされて、痴漢までされたと言っているのに、どうして無反応でいられるのだろう。

 わたしのことを愛していないのだろうか。ただ生活をさせてくれている便利なATMとしか思っていないのだろうか。



「ねぇ、聞いてる?」


「んんんー……」



 目を開けもせず、うっとうしそうな唸り声。



「ねぇ、幹久さん」


「……何だよ」



 怒っている……?なんで、どうして。怒りたいのはこっちなのに。



「わたしのこと、愛してる?」



 気が付けば、わたしはさっきからずっと泣いていた。



「ねぇ、幹久さんっ……!」



 目をつぶっている夫の両肩を、縋るように強く揺さぶった。

 ねぇ、助けてよ。わたしもう限界なんだよ。



「チッ、なんだよ」



 今日電車の中で聞こえた舌打ちは、誰かのものであり、わたしのものであり、夫のものでもあった。  

 やっと目を開けた彼は、酒に酔った顔でわたしを睨んだ。とても醜いと思った。



「……どうしてそんな目で見るの?」


「は?……うざ」



 ぼそっと呟いたその一言がとどめだった。

 彼はキレていた。わたしは自我を失った。



「……もう無理」


「何がだよ」



 涙が止まった。

 わたしは立ち上がった。身体が自分のものとは思えないほど重くてたまらなかったけど、なんとか踏ん張って歩き、台所へ向かった。

 そして迷うことなく、洗い物入れに入っていた包丁を手に取った。


 

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