03. 牢獄
「神谷さん、明日の朝イチの会議の資料、今日中に作っといてね」
「神谷さん、コピー機が、なんかトナーがないとかでできないんですけどぉー」
「神谷さん、専務来るからお茶淹れられる?」
「神谷さん、なんか田村って人から佐々木さんに電話入ってるんですけど、どうしたらいいですか?」
こなしてもこなしても、業務はどんどん増えていく。
事務職として、この広告代理店に入社してから五年が経った。
九時から五時まで、残業ほぼなし、土日祝休み。結婚するまでの腰掛け程度に緩く働こうと思っていた。
しかし残念ながら夫のせいで会社は辞めれないし、誰でもできると言えば誰でもできる仕事を同僚達はわたしに押し付けてくる。
会議の資料は部長自身の仕事だし、コピー機のトナーはすぐそこにある。交換方法はコピー機自体に書いてある。
いまだに女子社員がお茶を淹れる文化は消えていないし、新入社員はなぜそれをそのまま佐々木さんに伝えないのか。
彼らのことを動物だと思って、上手くやり過ごしていた時期もあった。でもさすがに、こちらにもキャパというものがある。
ただでさえデータ入力や電話対応などとやるべきことはある上に、あれもこれもと頼まれ、毎日くたくただ。
中でも一番嫌いなのが、この人。
「神谷さん、俺のコーヒー淹れろっつったよね?」
無駄な巻き舌、ドスのきいた声。わたしを見下ろす汚いおっさん、千葉課長。
「……すいません」
体臭が臭いので、目を合わさず、精一杯のパーソナルスペースをつくって謝る。
コーヒーくらい自分で淹れろや、わたしはあんたの嫁でもおかんでもねぇわ。と心の中で悪態をつきつつ、わたしはちゃんとした社会人なので、波風を立てずただ心を無にして謝る。
「おいおい、言われたことをなんですぐにできねぇんだよ。俺そんなに難しいこと頼んでないよな。だから無能な奴っていうのはまったく……チッ」
そんなに難しくないのなら自分でやれよ、ハゲ。
夫の幹久ですら、こんな物の言い方はしない。憎くて腹が立って仕方がないときもあるけど、このハゲに比べたらよほど愛おしい。
わたしは毎日、このハゲにこういうパワハラをされている。
このご時世に「無能」なんて相手に直接言ってしまうくらいだ。証拠をたらふく集めて上に訴えたら、間違いなく何かしらの処分を受けるだろう。
ただ正直今のわたしには、そんなことをする気力がない。
とりあえず頭を下げておけば、やつは勝手に喋って勝手に満足する。
そうやって日々をなんとか時間を経過させるだけで精一杯だ。
「神谷さーん、トナーどこにありますかぁー?」
香水臭い二年目の女がもう一度わたしに呼びかける。
「そこ。コピー機の下にある」
「……あ、本当だ!」
お礼の一つも言わずに、次は「どうやって交換するんでしたっけぇ?」と聞いてくる。
「早くコーヒー淹れろよ」
千葉課長が追い打ちをかける。
「……はい」
自分を押し殺して言われたことに従う度に、わたしが消えていく。
業務と呼んでいいのかわからない業務をこなしているうちにあっという間に昼休憩になり、逃げるようにトイレへ駆け込んだ。
ふと目に入った、鏡に映った自分にぞっとした。とても二十七歳とは思えないくらい、老けている。目の下のくまはひどく、鼻の両側から伸びるほうれい線が濃い。
雰囲気も暗く普通ではないと自分で思った。
ため息を吐き、トイレの個室に入った。
すると足音と共に喋り声が聞こえてきた。扉の向こうに誰かがやって来たようだ。
「神谷さん、マジ痛いよね」
わたしの名前が出て、息が止まりそうになる。
「本当それ。悲劇のヒロインみたいな顔しちゃってさぁ、できませんって反発すればいいのに。だから色々頼まれるしパワハラされるんだよ」
声でわかった。
さっきトナーの場所を教えた二年目の女子社員と、その同期の子だ。
耳を塞ぎたいが、この距離だから嫌でも聞こえてくる。
「ねっ。だからこっちもわざと意地悪したくて、わかってて色々頼んだり聞いたりしちゃう」
「あ!さっきのコピー機のやつでしょ。思ってたんだけど!あっはは!」
「きゃはは!バレてた?」
「バレてたバレてた!もう、悪いなぁあやちん」
楽しげに笑い合う二人の声に、わたしは嘔吐きそうだった。
どうして彼女達は、この個室の中にわたしが入っている可能性を少しでも考えないのだろう。
そんなこと、彼女達からすればどうでもいいのだろうか。
かといって今すぐ出て行って怒鳴り散らすなんてできるわけもなく、わたしは一人で静かに膝の上で拳を握りしめる。
情けなくてたまらない。
その拳の上に、涙がぽたぽたと落ちる。
泣きたくなんてないのに。泣いたら余計惨めになるだけなのに。
こんなクソみたいな会社、今すぐ辞めてしまいたい。
でも生活のために仕事はしなければならない。
転職サイトを見ても、面接を受ける気力が湧かないし、その前にこの会社に辞表を出す勇気すらない。
退職代行をつかうお金はない。
逃げ出したいのに、逃げることもできない。
わたしの人生は、牢獄だ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
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