悪魔、恐るるに足らず(後)
ひっ、と叫び出さなかったわたくしを誰か褒めてほしい。
建て付けの悪い扉のようにゆっくりと振り向くと、ナサニエルは穏やかな笑顔をこちらに向けていた。昨日はもっと、にやついてあくどい顔をしていたような気がするのだけれど、昼間の爽やかな光の中では洗練された好青年と言ったところ。
表情の使い分けが上手いところはわたくしには到底再現不可能なので、参考にすべきかもしれない。
「ご機嫌麗しゅうございますわ、ナサニエル様……」
日ごろの訓練の賜物か、思ったより普通に声が出て一先ずほっとする。
「足音が聞こえてきたので、もしかしてと思いまして」
いつも殿下の執務室にいらっしゃるでしょう、とナサニエルは付け加えた。
ルーカス様は口うるささのわりに生活習慣は非常に大雑把な方なので、ご自身でカーテンを閉めるということはなさらない。だから反対側のナサニエルのサロンからはガラスを何重にも通して丸見えなのだ、ということが判明してしまった。
……わたくしの席はカーテンに遮られて、確認できていないはずだと信じたい。
「わたくしに何か、御用でしょうか?」
家族の助言通りにもう少しばかり愛想を良くしなければ、ルーカス様どころか彼からも不興を買ってしまうかもしれない。けれど昨日の今日だ、口を動かすので精一杯。それだってうっかりすると「昨日のことはもう忘れてください、どうか許してください」と叫びとともに心臓が飛び出してしまうかもしれない。
ふわふわとして行き場のない手をドレスに沿わせると、ポケットに忍ばせたマーシュに触れた。
しっかりするのよ、グレイシア。何を言われてもとぼけると決めたのだから。背筋を伸ばして、ナサニエルをまっすぐ見つめる。なんとか口角をあげることに成功すると、ナサニエルが笑い返した。
──笑っている場合じゃないのよ!
「よ……」
用事がないなら失礼しますわね、と言いかけた時、ナサニエルが口を開いた。
「ご一緒に、お茶でもいかがでしょうか」
……お茶?
予想しなかった言葉を噛み砕くことに気を取られて、表情が真顔に戻ってしまった。おそらく今のわたくしは相当締まりのない顔をしているだろう。
ナサニエルの母国、ウィジェスタ王国は茶葉の一大産地だ。彼は母国の名産品を我が国に広めるため、という名目で頻繁にお茶会を開いている。……それに集った女性陣の目的が一体どちらなのかは、わたくしには関係ない。
「わたくし……公務の続きがありますから」
「休憩はいかがですか。グレイシア様に選んでいただきたい茶葉があります。次の晩餐会で……」
なんとか言葉を絞り出したわたくしにナサニエルは食い下がったが、断るしか道はない。
「わたくし、ためになることは何も言えませんし。失礼しますわ」
一礼をしてその場を離れたつもりが、ナサニエルはわたくしの後ろをてくてくとついてきた。これが黒いウサギや子猫だったらわたくしもうれしいと思う。けれど、わたくしの背後にいるのは獰猛な黒い獣。その真っ白な歯で、わたくしを食い潰すつもりなのだわ。
手順が決まっている公務や晩餐会ならまだしも、大勢の人間がいるお茶会に飛び入り参加だなんて、ノミの心臓のわたくしにはどう考えても無理な話だし。
「そうですか? グレイシア様はよく一人でお茶会をされると聞きました」
友人がいなくて悪かったわね。
「パトリツィア嬢が『お姉様にも楽しみを分けて差し上げたいの』と。でもお仕事中でしょう。と思った所に、いらっしゃったものですから……」
妹なりの親切なのか、それともナサニエルに話しかけるための口実なのか? それはどうでもいい。ただ一つ言えるのは、妹は姉の心を知らず、ということだけ。
「意見はパトリツィアに聞いていただけますか? 彼女もリーヴズ公爵令嬢です」
長い廊下を抜けて、階段を降りるために廊下を曲がった瞬間。
ナサニエルは壁に長い手をついてわたくしの行く手を遮り、瞳を覗き込んだ。
ちょうど窓からも廊下からも死角になっていて、わたくしたちが向かい合っているのは、誰にも見えないだろう。
──目を、逸らしたら、負ける。
とっさにそう感じてナサニエルの紫水晶の瞳を見つめ返すと、驚くべきことに彼の方が先に目を逸らした。
「……昨日はごめんなさい」
あ、あ、あ、謝った!?
予想もしなかったナサニエルの言葉に昨日のことを思い出して、一気に顔が赤くなるのを感じた。
「仲良くなりたくて。つい、からかってしまいました」
……仲良く?
赤らんだ頬を見られぬよう、俯いて顔を隠す。
なんと答えるべきかしら? ごまかすべきかしら?
「決して、他言はいたしません」
昨日のことは彼も冗談がすぎたと認識していて、わたくしが怒っていると思っていたのかもしれない。だから様子を窺うためにお茶に誘ってきたのだわ。ちょっと態度が軽薄なのはいただけないけれど。
「怒ってなんて……いませんわ」
別に、怒ってはいないのは本当のことなのだ。かなり、とっても、ひどく動揺しただけで。彼がわたくしの秘密について他言をしないと言うのなら、恐れることは何もない。
「良かった」
顔を上げると、ナサニエルがふわりと微笑んだ。
ここに詩人がいたならば、まるで花が開くように……とか、柔らかい陽の光を受けて彼の彫刻のような顔立ちはさらに……とか、見る者を引き込まずにはいられない、国宝級の笑顔……とかのご立派な言葉を並べ立てただろう。
わたくしは詩の才能がないから、……まあ、これが噂に名高い悪魔の微笑みね。国が傾くと言われても納得できるかもしれないわ。ぐらいの感想しか述べることができないけれど。
「ご用件はそれだけでしょうか?」
「ええ」
「ありがとうございます。そのお言葉で安心いたしました。けれど、まだ午後も公務がございますから、失礼いたしますね」
「そうですか……」
ナサニエルは残念そうに──大袈裟なぐらい残念がるのが人付き合いのコツなのかもしれないわ──壁から手を離して、わたくしを解放してくれた。
思ったより、いい人だったわ。
「お茶会はまた後日、日を改めて誘うとしましょう」
階段を降りていくわたくしの背に、ナサニエルが声をかけた。……前言撤回だわ。婚約者がいる令嬢を堂々とお茶に誘うなんて。
「悪魔と思われるのが嫌なら、みだりにご令嬢たちに声をかけるのをやめた方がいいのでは?」
わたくしの言葉に、ナサニエルは気を悪くしたような様子もなく、肩をすくめた。
「それはなかなか……難しい。そういう生き物として求められているから」
「ええ、わたくしもそうです。でも、わたくし、別に甘い言葉は求めておりませんわ」
「グレイシア」には仕事をサボって美男子の誘惑に負けてふらふら後ろをついていくのは求められていないのだわ。
ナサニエルが後をついてくることはなかった。どうやらわたくしは悪魔の誘惑を振り切ることに成功したようだ。
……おそらく新作のお茶菓子などが目白押しのお茶に少し心が揺れたのは事実だけれど、ルーカス様から投げられた仕事を中断するわけにはいかないものね。
「おい、グレイシア。お前、先ほどは何をしていた?」
書類を手に入れて、やっとの思い出逃げ帰ってきたわたくしを待ち構えていたのは、腕を組み、不機嫌が全開──と言った様子のルーカス様だった。