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悪魔、恐るるに足らず

「グレイシア様、おはようございます」

「ええ。おはようございます」


 すがすがしい朝の空気の中、背筋を伸ばし、足早に歩くわたくしは普段と変わらない姿を保っているだろう。


 一晩寝て、完全に頭が冷えた。


 家族が実際に見たわたくしの言動を真に受けないのだから、ナサニエルがわたくしの醜聞を語ったところで誰も信じるはずがない。と信じたい。


 だから気にしなくていい。認識していないものは存在しないのと一緒だ。ナサニエルは王弟殿下とはいえ、この国では外国人。遊び人の男性の発言など、皆真面目に聞きやしない。と信じたい。


 つまるところ、悪魔といえどもナサニエル、恐るるに足らず、なのだわ。


 それにわたくしにはマーシュがついている。


 ドレスの隠しポケットにマーシュを入れ、しっかりとボタンをとめて、万が一にも転がり出ることがないようにしている。


 マーシュはずっと、わたくしのお守りだ。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。彼と一緒にいれば、わたくしはもう少し強くなれるはずなのだ。


『グレイシア、頑張って!』


 ええ、もちろんよ。普段通りに過ごす。わたくしは氷の公女。何を言われても、動じないわ……!



「おはようございますっ!」


 通常時より大きな声で朝の挨拶をしたわたくしを、ルーカス様は一瞬唖然とした目で見つめて、すぐに逸らした。


「本日も、よろしくお願いいたします」

「……ああ」


 わたくしはルーカス様の婚約者として公務のお手伝いをしている。未来の妻たるもの夫の仕事を把握し、いざとなれば代理として立つことができるようにだ。


 ルーカス様はわたくしを公務から遠ざけて権力から引き離そう、とかお飾りにして何もさせず、じわじわと無力感に苛まれて苦しむようにしてやろう、とかそういうことはまったくお考えにならないらしく、仕事は普通にする。


 そのような訳で、わたくしはルーカス様の執務室のはじっこに机を持ち、日々そこで雑用に精を出している。


 ルーカス様の執務室の大きな窓からは中庭、そして反対の廊下が見える。俺には後ろ暗いところがなんにもないんだ、と言わんばかりにいつも窓は全開だから、廊下からこちらも見えているだろう。……王子の執務室をのぞこうとする人がいるのかはひとまず置いておいて。



「グレイシア。書類を持ってこい」


 ルーカス様の言葉に、書類に走らせていたペンをとめた。


 一日に数回、こうしてルーカス様がわたくしを追い出しにかかる。一緒にいるのに気が滅入ったり、他の人と個人的な話をしたかったり、あるいは雇い入れているリーサ様にお茶でも入れてもらいたくなった時。


 書類を探して執務室に持ってくるのは、もちろんわたくしの業務の範疇ではない。


「はい、わかりました」


 けれどわたくしはそれに異を唱えることはしない。だってわたくしも離れたいから。


 ルーカス様に指定された書類は城の反対側まで取りに行かなくてはいけないものだった。望むところよ。


 執務室から出て、すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込む。マーシュに「ほら、ここが城と言う名の監獄よ」と見学させてあげたいところだけれど、どこに目があり、耳があるかはわからない。


 うかつな行動は慎まなくてはね。


 軽快に歩みを進めていると、扉の一つから、きゃっきゃとした女性の笑い声が聞こえてきた。……かなりの人数だ。立ち止まり、あらためて自分の居場所を再確認して、血の気が引く。


 ──ナサニエルのサロンの近くではないの!


 ルーカス様、最悪だわ! なんてひどい人なのかしら、とひとしきり毒づいてから、ルーカス様はなにもしていないことに気が付く。


 彼はわたくし達の間にあった不穏なやりとりなど知る由もないのだから。それに、書類棚がナサニエルの部屋にあるわけではないのだから、ただ通り過ぎればいい。


 けれど一体全体、誰がどういう趣味で作ったのか、ナサニエルがよく会合だのお茶会だのを開いているらしい部屋には、廊下側に窓がついている。密室に美男子と未婚の令嬢だけにはできないという判断かしら。


 とにかく見つかってしまったら何かを言われるかもしれないし、言われないかもしれない。


 ──行くしかないわ。ただ、通り過ぎればいいだけよ。


 ごくりと唾を飲み込んで、一歩目を踏み出す。一歩目が一番緊張する。彼らはお話に夢中で、わたくしに気が付かないはず。透明人間、そうよわたくしは透明人間。


 他人のふり他人のふり他人のふり……いいえ、本当に他人よ。


 優雅さを失わない限界まで足を開いて、極限まで速足で、うつむきながら部屋の前を通り過ぎる。


 ──やりとげた!


 ここを通過してしまえば、彼らに見つかってしまうことはないはず。


 ほっと息を吐いた瞬間、背後で、ドアがゆっくりと開く音がした。処刑の朝、牢獄に処刑人がやってくるときは、このような気分かもしれない。


「ああ、やっぱり。グレイシア嬢ではないですか」


 忘れもしない、ナサニエルの声がした。

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