つめたい食卓(後)
「いいえ……聞いていなかったわ」
記憶の端ではなんとなく、パトリツィアがいかに可愛らしくて愛嬌があって社交界でちやほやされているかが語られていたような気もするけれど、わたくしには関係ないことだと思って聞き流していた。
パトリツィアは呆れたように、ふーっと大げさなため息をついた。
「お姉様ったら、そんなんじゃほんっとうにこの先が思いやられるわ」
「そうよ、グレイシア。パトリツィアみたいに、明るくてユーモアに富んだ会話を身につけてはどうなの?」
母と妹は一見して性格が正反対に思えるが、わたくしを責める時の相性は抜群と言える。
……やっぱり、まずこんな家からめちゃくちゃになってしまえばいいのだわ。
食事を口に運びながら、あるはずもないことを夢想する。たとえば巨大なナサニエルがにまにましながらやってきて、口から火を吹いて当家の屋根を吹き飛ばすとか……。
「ほら、お姉様、その顔よ! わたくし馬鹿馬鹿しい会話には興味がありませーん、って顔。そういうのが、可愛げがないって言われるのよ?」
こんな妄想をしていても、私の表情筋はなんとか平静を保っているらしい。修行の賜物ね。
「本当に、どうしてこんな子になってしまったのかしら」
「お姉様が王妃になれるのか、私は心配だわぁ」
「……では、パトリツィアが代わりに、殿下の婚約者になるというのは?」
けらけらと笑っていたパトリツィアと母の顔が凍り付いた。やはりわたくしにはユーモアのセンスが皆無なようだわ。
「いやよぉ〜、そんなの、絶対に嫌。ルーカス様って怒りっぽいんだもの。それに、つまんないし。お姉様の方がお似合いよぉ」
ここで私だったらルーカス様とうまくやっていけるわ! などと言って、王子の婚約者の座を狙ってくれるような妹だったら、話はとても早かった。
このように、そうはならないから問題なのだ。パトリツィアはあまり賢く見えないけれど、わたくしに大変な仕事を押し付けて、自分は未来の王妃の妹君の座に収まったほうが、楽をして生きていけると理解している。
……妹もまた、強敵なのだ、わたくしにとっては。
「グレイシア、今後そのような不敬な言動は慎むよう」
「……申し訳ありません」
……まるで悪魔に憑りつかれたような顔の母から目を背ける。失敗してしまったわ。
「私はナサニエル様のような方がいいわぁ。資産がたっぷりあるのに気取っていなくて、何よりも美男子だし」
ナサニエル、と聞いて、ぎくりとした。
「お姉様だって、そう思うでしょう?」
「さあ、わたくしはあまり、あの方のことを存じ上げないから……」
「そうなの? お姉様もナサニエル様のお茶会に来ればいいのよ。いろんなお話をしてくれるわ」
パトリツィアは両の指をからめて、うっとりと何かを思い出すように天井を見上げた。
「ナサニエル様は、お父様が存命な頃にもこちらに遊びにいらしたことがあるんですって!お兄様に聞いてみようと思ったのに、今日はいらっしゃらないなんて」
どうやら、パトリツィアは兄にナサニエルの話を聞きたくて夕食の場に現れたがあてが外れた、ということらしかった。
「お姉さまは記憶にないの?」
「わたくしは……」
「いつまでも他の男性の話をしていないで、はしたない」
母にピシャリと言われて、流石のパトリツィアも肩をすくめた。
「ふう……マーシュ、ただいま」
夕食を終えてようやく私室に戻ってくることができ、わたくしは枕元のマーシュに語り掛ける。
──今日は、本当に、本当に……疲れた。
ナサニエルと妹が顔見知りというのは十二分にあり得る話だった。明日以降、パトリツィアとナサニエルが顔を合わせた時、二人のうちどちらかが、何か突拍子もないことを言い出さないとは限らない。
──どうすれば、いいのかしら。
マーシュの黒いビーズの瞳がきらりと光った。
『グレイシア、大丈夫。いつも僕がそばにいる。困った時は僕を呼んで』
マーシュの口を借りて、誰かがわたくしに向けた言葉。いいえ、それさえもわたくしの妄想かもしれないけれど、彼はいつもわたくしのそばにいて、心の支えになってくれていた。それは揺るぎのない事実だ。
いきなり縁もゆかりもない使い魔を魔術で呼び出そうなんてことを目論んでマーシュのことを蔑ろにしたから天罰がくだったのだわ。
「そうよ……わたくしには、悪魔も使い魔も必要ないわ」
気を強く持つのよ、グレイシア。最初から答えは決まっている。今までもこれからも、氷の仮面をかぶって何事もなかったかのようにふるまうしかないのだ。
何を言われても、存じ上げませんわ、で通しきる。マーシュが一緒にいれば、きっと大丈夫……な、気がする。
「それじゃあマーシュ、おやすみ。あなたには明日からわたくしと一緒に登城してもらうわ。困った時は助けてね」
無理難題を押し付けられたマーシュはそりゃないよ。とでも言いたげにこてりと枕に倒れ込んだ。