つめたい食卓
頭の中はうるさいほどなのに、リーヴズ公爵家の食卓は水を打ったように静かだ。
わたくしの向かいには母が座っていて、彼女の左右の椅子は空席。わたくしから向かって右は現当主である兄のイーサンの席で、左は妹のパトリツィアの席。
時間厳守のはずの食卓に、揃うのはいつも二人だけ。
「豊かな恵みに感謝いたします」
「……感謝いたします」
二人の到着を待たずして、十五分きっかりに食事が始まる。
温かいはずの食卓はいつも義務的な空気をまとっている。母はいつもわたくしの真正面に座り、食事のマナーは完璧かどうか、自分の食事はそっちのけで監視している。
父譲りの怜悧な外見に対して中身の出来があまりよくないことは自覚している。
だから母はわたくしがボロを出さないか、きちんと公爵令嬢としての仕事を遂行できるように育っているか、いつも心配で心配で仕方がないのだ。
『グレイシア。貴族にとって結婚というのは仕事なの。働かざる者食うべからず、よ』
とは、母の口癖だ。彼女も母からそうきつく言われて育ったのだろうということは想像に難くない。彼女は長年家のために尽くしてきた。それを当然のように、わたくしにも求めているのだ。
「グレイシア。最近、痩せたのではない?」
母のふとした言葉は、もちろんわたくしを心配して出てきたものではない。
「いいえ。ドレスの寸法はまったく変わっていませんわ」
「そう。よかったわ。……痩せすぎでは健康な子を産めませんからね」
「はい、もちろんです」
「現状にあぐらをかいていてはだめよ。白い結婚では意味がないのですからね」
リーヴズ公爵家からすると、わたくしがお飾りの王妃ではまるで意味がない。公爵家の血を引く子が生まれ、その子が王家の中で存在感を発揮しなければ成功とは言えないのだから。
「はい。心得ております」
わたくしはいつも、定められた通りの、決まりきった発言を繰り返す。
先週は「太ったのではない?」と言われていたことは、口にすまいと思う。ただ、わたくしはドレスの寸法というゆるぎない事実を提示すればいい。
現実がどうかなんて、関係はないのだ。そうして、わたくしは何事もなかったかのように食事を進める。何が好きとか嫌いとか、そういったことに口を差しはさむ余地はない。
「本日はルーカス様とお話はしたのでしょうね?」
母の声は冷たく、黒いもやのようにわたくしの喉にまとわりついて、とても『お仕事がお忙しいので、誕生日パーティーには来られないそうです』と素直に口にすることができない。
「ルーカス様は大変お忙しいご様子でしたので、ご挨拶だけ……」
微かに微笑みながら返事をしたが、もちろん満足のいく返答ではなく、母はため息をついた。
「グレイシア、あなたは王子殿下との絆を強める努力をしているのかしら?」
少し猫背になって、わたくしを試すような目つきで見てくる母は、敵対心を持った獣のようだ。わたくしがないがしろにされることは、すなわち公爵家の恥だから、母にとっては許しがたい出来事だ。
『お前は愛される努力を怠っている』
ルーカス様の言葉が脳裏によぎった。
「……」
言葉を続けることは出来なかった。愛されるために媚びを売る、というのが努力であるならばわたくしはしていない、と言えるだろうから。
「グレイシア、あなた……」
「ごめんなさい、遅れちゃったわぁ」
母の言葉を遮るようにぱたぱたと足音を立てながら、妹のパトリツィアが食堂へ入ってきた。彼女はがたりと音を立てて椅子に腰掛けたけれど、母は気にした様子もなかった。
わたくしが同じ行動を取ったら怒られるだろうけれど、パトリツィアに関しては、母はなんでも大目に見る。
「あーあ、喋りすぎてお腹が空いちゃった」
パトリツィアは天真爛漫で、細かいことを気にしない。そして、母もそれを咎めない。なぜなら妹は「可愛がられるのが仕事」だから。
母は生真面目な人だから、愛のない政略結婚をして夫婦仲が良くなくても、公爵夫人としての義務を果たしてきた。その最たるものが『子は三人産みなさい』という教えを忠実にこなしていることだろう。
長男は公爵家の跡取りに、長女は他家に嫁がせて地盤を強固にし、残りの子はスペアか愛玩用に。三人の子の役割は明確だ。
「やだ、空気わるーい。お姉様ったら、またお母様に怒られていたの?」
パトリツィアは深刻な空気を吹き飛ばすように、けらけらと笑った。
「そうなのよ、グレイシアったら。こんなに根暗では、殿下のお心をつなぎ止められないというのに」
「お姉様ったら、もっとしっかりしてよね!」
「ごめんなさい……」
このままの暮らしを続けていても、幸福にはなれないのが分かりきっている。結婚はゴールではなくて、また新たな苦しみのはじまりに過ぎない。
「お姉様ってっていつもぶすっとしていてお話が面白くないから、もっとお喋りの練習をした方がいいわ! 私ね、さっきまでお茶会をしていて、それで遅くなっちゃって……」
パトリツィアは配膳を待つ間、ぺらぺらと水が上から下へ流れるように言葉を紡いでいき、母はそれにうれしそうに耳を傾けている。
わたくしは対岸で、その様子をぼうっと眺めるだけだ。
「お姉様、聞いている?」
パトリツィアの咎めるような言葉に、はっと意識が覚醒した。