グレイシアの秘密(後編)
しおりが挟んであったページには「禁!ちょっとあぶないおまじない。自己責任で」と注意書きがあった。
めくってみると『使い魔を呼び出して、あなたの手助けをしてもらおう!』の項目がひとつ。それはもうおまじないを超えた魔術の範疇ではないのかしらね
「ふふっ……」
今更なのだけれど、あらためてまじまじと読んでいると愉快な気持ちになってくる。
本になっている以上は大真面目にこの内容を職業として編集した人物がいるということだし、国費で「この本を城内の図書館に置きましょう!」と決裁した者がいるということだ。そして、それは全て大人たちのやったこと。
『使い魔は見えなくても、あなたのすぐそばにいる。使い魔を使役し、そばに待機させておき、必要に応じてあなたの助けになってもらいましょう』
脳内で髭を蓄えた中年男性がうんうん言いながら、子供の興味を引きそうな文面をうんうんと唸りながら考えている様子が浮かぶ。
「けれど、心のお友達はもう間に合っていますから……」
言葉を投げかけても、もちろん返事はない。本を閉じ、元通りにしまい込むと、夕暮れの光に金の背表紙が反射して、ぴかりと眩しく光った。
まるでわたくしを引き止めようとするみたいに。
「……わかったわ。お前はまもなく、城から追い出されて市井の古本屋へ流れていく身だものね」
これも本への供養と、ふたたびおまじない・魔術大全を手に取り、しおりが挟まれたままのページをめくった。
『準備その一。使い魔に語りかけてみよう。次のページの魔法陣に指をあてて、下に書かれた呪文を三回唱えてから、自己紹介をしてみよう』
ご丁寧なことに、印刷された魔法陣とそれらしき呪文が用意されていて、わたくしは小さな……小さな声でごそごそと、呪文をつぶやく。
「……もしもし……わ、わたくしはグレイシアよ。誰か、いるかしら?」
ざわりと風が吹いて、わたくしの髪の毛を揺らした。振り向くと換気のためだろうか、少し離れた位置の窓が開いていた。
……少し、期待をしてしまった自分が恥ずかしい。
再びページをめくった。
『準備その二。周囲の空気が変わったら、使い魔があなたのそばにやってきた合図。心を開いて、使い魔と交流してみよう』
ものは言いようね……。この儀式とも言えないような施行を繰り返し続けていればいつかは、たまたま周囲の様子が変わることもあるだろう。
『まずは、お願い事を口に出してみよう!』
いつまでこんなことを続けるのだという自問自答。なぜだか、一度始めたことは最後までやり遂げねばならぬのだと、まるで魔法にかかったように意地になっている自分の存在を感じている。
「ええと、……そうね、このまま平穏な暮らしが、続いてほしいわ」
静かな図書館には、わたくしの声だけが響いていた。
「これまでと変わらない生活を……」
……何も起きるわけがないのよ、グレイシア。
心の中で、もう一人の自分が冷静にそう言っている。
『反応はありましたか? 反応がなければ、それはあなたの本当の願いではないのかも。もういちど、素直な気持ちを口にしてみよう!』
そう、わたくしが口にした願いは……真実ではない。何にも興味がなさそうなふりをしているのは、期待して、傷つきたくないからだ。だから、今の重責から解放されたいとか、真に自分を愛してくれる人と結ばれたいとか、そんなことは願うだけ無駄なのだ。
どうせかなわない願いを口にするのならばいっそのこと、普段は絶対に口にしないような大それたことを。
「……突然……強大な何かが現れて、わたくしの世界をめちゃくちゃに壊して、みんなが慌てふためけばいいと思うの。わたくしと同じぐらい、みんなも困り果てればいいんだわ」
ゆっくりと、内に秘めていた願いを吐き出して、そのまま長い溜息をつく。
平和な国の公爵令嬢として生まれ、物質的には何不自由なく育ち、やがては王妃となる。恵まれた環境に身を置きながらもこのような生活は壊れてしまえばいいのに、と不道徳なことを考えてしまうわたくしは、ふさわしくないのかもしれない、と足元から伸びる影を見つめる。
もちろん、わたくしのあさましい願いに反応するものは、いない。
「……なんてね。まったく馬鹿馬鹿し……」
「……ふふっ」
今のはなしよ、と言いかけたとき、ふいに、どこからか男の笑い声が聞こえてきて、全身の血の気が引く。
「……っ! だ、だ、誰っ」
振り返った先に人影はなく、夕暮れの光がただ静かに図書館の床を照らしているだけだった。
「……っ、ふう……」
胸を撫でおろす。どうやらわたくしの思い過ごしだったようだ。……本の世界に没頭しすぎるのはよくないわね。
「一体、何をしているのかな?」
もう戻ろうと踵を返そうとしたその時──今度は、はっきりと声が聞こえた。全身の筋肉がぎっと軋んで、体が硬直する。動悸が止まらなくて、口から心臓が飛び出そうだ。
もちろん、使い魔なんてファンシーな存在ではない。聞こえてきたのは、まぎれもなく成人男性の声。
……ああ、わたくしは、なんて愚かなことをしてしまったのかしら。
「ここですよ」
声の主は本棚の向こう側にいる様子だ。なんとか首を動かすと、本棚の隙間からこちらを覗き込む紫色の瞳が見えた。男は本棚を挟んでわたくしの向かい側に立っているのだ。
「べ、別に何も……」
わたくしが相手の顔を見ることができないように、向こうもおなじくわたくしの顔をまだ認識していないかもしれない。顔を隠して、猛烈に走り去れば、もしかして撒けるかも……。
「グレイシア・リーヴズ公爵令嬢ともあろう方が、こんな所で悪魔召喚の儀式とは」
本棚の影からひょいっとこちらに顔をのぞかせた男を見て、めまいがした。
その顔に見覚えがあった。
心底楽しそうに、わたくしにぶしつけな視線を向けているのは、我が国に遊学中の、隣国の王弟殿下のナサニエル・ゴードン様ご本人だったから。