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第3話

 通夜はあっけないほどつつがなく終わった。それはそうだ。ただの通夜なのだから、ハプニングなんてそうそう起こるはずがない。

 それでも三時間の運転と慣れない喪服に疲れ切っていた私は、近くのホテルに着いてもシャワーを浴びるのがやっとで、その後は髪も乾かさないままベッドから動けなくなっていた。父や兄には実家に泊まれと言われたけれど、それじゃあレンタカーまで借りた意味がない。いつでも自分の好きな時に帰れるように、一人でゆっくりと呼吸ができるように。車もホテルも、そのために用意した。


 そのまま微睡みそうになった時、マナーモードにしていたスマートフォンの画面が光って私を起こした。表示された名前は弟。一瞬出るか迷ったものの、明日の葬儀に関する連絡だと困るから出ることにした。


《姉ちゃん、今暇?》

「何? 明日の準備に関すること?」

《いや全然。ただ兄ちゃんと喧嘩したって聞いたから》


 なら出る意味はなかったなと思いながら、通話を切るタイミングを見計らう。


「喧嘩じゃないよ、お互いの意見を言っただけ。用ってそれだけ?」

《切ろうとすんなよ。てか姉ちゃんさ、ずっと母ちゃんのこと嫌いだったでしょ》

「……知ってたの」

《大島君のことがあったからさ》


 大島君――私が出られなかった葬儀で送られた先輩の名に、胸がぎゅっと締め付けられた。


《あの頃どうして姉ちゃんは本当のこと母ちゃんに言わなかったのか分からなかったんだけど、二人が疎遠になってから分かった。あれは言いたくないわ》

「どういうこと?」

《多分姉ちゃんが一人暮らし始めてすぐ連絡返さなくなったからだと思うんだけど、母ちゃん俺に凄く愚痴るようになったんだよね。しかもほとんど親父が嫌いだって話ばっか》


 ああ、私がいなくなった後は弟に縋り付いたのか――哀れな母に口元が歪む。


「……なんかごめんね。私のせいみたいで」

《違うよ、母ちゃんのせいだよ。親父と結婚するって決めたのも、離婚したいって言うくせに俺達を理由に離婚しなかったのも。子供のせいにすんなって話だよな。別に親が離婚しようがどうでもよかったし》

「そうだね。……でも多分あれは、誰かに話を聞いて欲しかっただけなんだと思う。相手選びは間違えてるけど」


 弟に共感しようとしたのに、口から出てきたのは何故か母を庇うような言葉だった。まるで自分に言い聞かせるような響きに嫌気が差す。


《やっぱそう? 俺気付かなくて『そんな嫌ならさっさと離婚すれば』って言っちゃったんだよね。親父にも『離婚したら学費心配だからそっちで面倒見てくれる?』って連絡入れちゃった》

「えぇ!? それは……大丈夫だったの?」

《親父は母ちゃんに怒ったみたいだよ。自分と離婚したいのは話し合うにしても、子供に心配かけるような振る舞いはするなって。それ以来離婚がどうのとは言わなくなったけど、愚痴は止まらなかったな》

「……そうだったんだ」


 弟の性格が羨ましい。私も彼のようにあっけらかんと言えていたのなら、もっと感じ方が違ったのだろうか。

 ふと思ったけれど、私の性格では無理だとすぐにその考えを追い払った。のびのび育った弟は明るく大雑把だからできただけ。一方で母から悪口を聞かされ続けた私は――弟を妬ましく思いそうになって、慌ててぎゅっと目を瞑った。


《ま、兄ちゃんと揉めた理由が分かったからもういいや。疲れてるんでしょ? もう切るよ》

「うん……おやすみ」


 画面の暗くなったスマートフォンをベッドに放り投げると、全身を脱力感が襲った。

 弟の話を聞いて、疎遠になった後の母のことを少しだけ知った気がする。あの性格は変わらなかったみたいだけれど、少なくとも私が知っている彼女とは行動が変わっていたのではないか。

 もしかしたら、ちゃんと話せば別の印象を持っていたのではないか。


「……今更無理だよ」


 呟いた声は、一人きりの部屋の中に溶けて消えた。

 さっき使い終わったバスルームから換気扇の音が響く。古いホテルのそれは轟々と低い唸り声を上げて、一度気にするとどんどんその音量を上げていく。

 ふと見上げた天井は、真っ白だと思っていたけれど少し黄ばんでいた。明るすぎる蛍光灯が部屋の隅の影を際立たせる。換気扇の音が大きくなる。影がまた、少し濃くなる。

 じわじわと、心が黒く塗り潰されていく。


『あなた婦人科に行ったでしょ。妊娠したんじゃないでしょうね。相手は分かってるの?』


 一人暮らしを始めた大学一年生。ある日突然、母からそんなメールが届いた。

 何の話か分からなかった。確かに婦人科には行ったけれど、それは病院にかかれば重い生理痛を軽減できることもあると知ったからだ。

 何故病院に行ったことを母が知っているのだろう――今考えれば何も不思議なことはない、未成年の私は親に扶養されていたからだ。健康保険証を使えば年に一度簡単な使用履歴が扶養者に通知される。細かい診療科目や受診内容は当然書かれていないけれど、名前だけで何科が専門なのか分かる病院名ばかりなのだからあまり意味がない気もする。

 でも当時の私はそんなこと知らなかった。知らなかったから調べられたのかと思って気味が悪かったし、何より決めつけるようなその文面が、それまで漠然と抱いていた母への不快感を確かなものにした。


 母の中で高校生までの私は誰ともまともに付き合ったことのない娘だったはずなのに、どうしてたった数ヶ月でそんな変化をすると思うのか。どうして一言、『なんで病院に行ったの?』と聞いてくれなかったのか。


 一度感じたその嫌悪は、簡単には拭い去れない。


『それはあなたが子供なだけだよ。虐待されたわけじゃないんでしょ? 親子なのにそんなふうに思うのはおかしいよ』


 信頼していた人達の言葉が、私をゆるやかに殺していく。彼らの言うとおりかもしれないと自分に言い聞かせた。何度も何度も母とちゃんと話そうと試みた。

 でもそのたびに心が追い詰められていった。母からのメール受信通知を見ると顔を顰めるようになった。母からの着信があると動悸がするようになった。母からのメールや電話の履歴は、すぐに削除するようになった。母に電話をかけようとすると、震えが起こるようになった。


 私は娘としておかしいのだ。実の母親に対してこんな感情を抱くなんて。

 虐待された、相手がとんでもないクズ人間だった――人が受け入れてくれる親子の不仲の原因は、それくらい劇的で決定的でなければならない。そういった出来事がないのに、母を嫌悪する私はおかしいのだ。


『ご飯も作ってくれてたんでしょ? 良い母親じゃん。うちなんかしょっちゅうスーパーの惣菜だったよ』


 そういう問題じゃないのだと、どれだけ言葉を尽くして相手に語ろうとも誰も分かってくれなかった。分かって欲しいと思う相手はそれだけ大切な人達だったのに、今はもう私のスマートフォンの中に彼らの連絡先はない。


 現実も、そうであればいいのに。

 人が人を嫌うのに大した理由なんて必要ないはずなのに、実の親だというだけで途端にそれは許されなくなる。

 血の繋がりは呪いだ。いくら連絡先を消しても、戸籍を抜けても、血の繋がりがあるというだけで完全に縁を切ることはできない。

 いっそ母を口撃して勘当されたかった。だけど全部吐き出してしまったら、それを受け止められるほどあの人は強くない。娘としての呪いが、あの人にそんな想いをさせては駄目だと首を締め付ける。


 このまま誰か殺してくれればいいのに――世間の思う〝娘〟になりきれなかった罪悪感が、何度も何度も、頭の中で私を殺す。

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