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第2話

『お父さんと離婚したい。あの人と同じ墓にだなんて入りたくない』


 何度となく聞いたその台詞が、実行されることは終ぞなかった。


『あなた達がいるから離婚できない。急に名前変わっちゃったら困るでしょ?』


 どうして子供達が自分についてくることを前提に考えているのだろう。私達にも選ぶ権利はあるはずなのに。高校生と中学生の子供なら、自分で考える力があると分かるはずなのに。


『本当にあの人嫌い。ねえ、そう思うでしょ?』


 父親の悪口を子供に吹き込む母親の方がよっぽど醜い。でも少しでも言い淀むと急に怒り出すから、私は適当に『そうだね』と流すしかなかった。

 父のことは別に嫌いでもなければ好きでもない。お金だけはきっちり入れて、あまり家庭に関わらない人だったから印象が薄いのだ。ずっと単身赴任で会う機会が少なかったというのもあるだろう。時々話をしても父自身も会話の内容に困るのか、時事ニュースのことだったり、進路の選択肢についてだったり、可もなく不可もないことばかり口にしていた。それでも折々で心配はしてくれたから、ちゃんと父親としてやってくれていたと思う。


 一方で母は、三人の子供達の中で唯一の女である私にことさら共感を求めてきたように思う。兄と弟にはにこにこと機嫌の良い母親として振る舞って、私の前では一人の人間になろうとする。

 今思えば、母の私に対する接し方は親しい女友達に対するそれだった。どうでもいい話をして、時に愚痴を言い合って、そうやって女友達同士でストレスを発散する。


 ふざけるな。


 あの頃の私にそれが分かっていたなら、きっと母にそう言っていただろう。彼女も母親である前に一人の人間だ。だから母にもストレスがあって、それをどうにか吐き出したいのは理解できる。

 でも私は友達じゃない。小さい頃から二人きりになるたびに父親の悪口を吹き込まれて、一時期は本当に自分の父親がとんでもない悪者だと信じ込んでしまった時もあった。周りの友達のお父さんは普通なのに、どうしてうちはこんなに酷い父親なのか。そんな父親の娘だなんて汚らわしい――そう、思い悩んだことだってあったのに。

 母の方が醜いのだと思い至ったのは、高校に上がった後。思春期も落ち着いて、物事を冷静に考えられるようになってきてからだった。


 きっかけなんてなかった。いつもどおり母の父に対する悪口を聞いていた時、ふと気付いたのだ――この人の話には、何も中身がないと。父が具体的にどんな嫌なことをしたのかだなんて一度も聞いたことがない。娘相手だから濁しているだけかと思って聞いてみたけれど、どんなに聞き方を変えても母の口から出てくるのは彼女の感情ばかりで、私の求める答えは一つもなかった。


 愕然とした。こんな人の話を私は今まで聞かされていたのか。こんな人が望んだ進路に、自分の希望を抑え込んでまで進んだのか。


『そんなの駄目よ。そんなことさせるために育てたわけじゃない』


 私が何かをしたいと言うと、決まって母はそう言って話を打ち切った。地域の行事、習い事、進学先。少しでも私が食い下がれば、決まって母は『なんで分かってくれないの』とさめざめと泣き出した。何故駄目かの説明をしてくれたことは一度もない。それを聞いたところで、また同じ言葉を繰り返すだけ。

 そんな母を見るたびに私の心は冷えていった。母が望むのは自分の思うとおりに生きる娘で、そうじゃない私はお呼びじゃない。どれだけ私がそれを望むかと話したところで、『しつこい』、『なんで面倒臭いことを言うの』とまともに取り合ってもらえたことがない。


 いつしか私は母に相談するのをやめた。ちゃんと話を聞いてくれと願ったことはあっても、母に伝えたことはない。何故なら泣き出した母に対して開く私の口からは、故意に母を傷つけようとする鋭利な言葉しか出そうになかったからだ。

 母の心を殺す勇気は私にはなかった。私を引き止めたのは良心じゃない。そこにあったのは〝娘は母親にそんなことをしない〟という呪いだけ。


『お兄ちゃんの中学の時のお友達が事故で亡くなったから、一緒にお通夜に行ってくるね』


 高校生のある時、母が言った。兄は当時大学生で既に家を出ていたものの、その亡くなった友達とは仲が良く、更に同じクラスだった中学三年生の時は兄が学級委員を務めていたこともあって出席することにしたのだそうだ。

 私は迷った。母に何を言っても無駄かもしれない。だけど何もせずにはいられない。だから尖っていない言葉だけを頭に思い浮かべて、出かける準備をする母の背中に話しかけた。


『私も行きたい。部活の先輩で凄く良くしてもらったの』


 勇気を振り絞って出したその言葉は、我ながら娘らしい口調で言えたと思う。当時はもう父方の親族の件もあって、母の望まない葬儀には相手が誰でも参加できないかもしれないと思っていたから。それに葬儀が勝手に行っていいものだとも知らなかったから、私はどうにか母の許可をもらいたかったのだ。


 でも、母には伝わらなかった。


『行かなくていいよ。あの子ちょっと高校で荒れちゃったみたいだし、本当はお兄ちゃんにも行って欲しくないんだけど』


 何を言っているのか本気で分からなかった。

 それが亡くなった人への言葉だろうか。せめて〝大勢で押しかけたら迷惑だから〟みたいに、当たり障りのないことが言えないのだろうか。

 母は不良が嫌いだ。それは別におかしなことでもないと分かる。だけどこれから向かうのは通夜なのに、相手が母の意に沿わない相手だというだけで、故人を送ることすらできないなんて。


『死んだ人をそんなふうに言わないで……!』

『ああ、そうね。でも本当のことだし。あなたも我儘言わないで』


 私の言葉のどこが我儘なのだろう――当時は分からなかったけれど、今なら分かる。母の意見を一度で聞き入れなければ、それがどんな内容でも彼女にとっては我儘なのだ。



 § § §



「何お前、本当に車で来たの? 別に駅まで送り迎えするのに」


 斎場の親族控え室に行くと、兄が呆れたように私を出迎えた。その目に泣いたような跡はない。周りを見ても、泣いているのは兄の奥さんだけだった。そういえば孫が生まれてから頻繁に会うようになったのだったか。この様子では良い姑だったのかもしれない。


「一通り打ち合わせはしてあるから、お前は来た人達に適当に挨拶してくれればいいよ」

「そう」

「……始まる前に母さんに会ってこいよ」

「別にいい」

「お前なぁ……」


 呆れる兄の声を聞きながら、私は改めて部屋の中を見渡した。椅子に置いてある荷物は兄夫婦のものだけではないだろう。とはいえ二人分程度しかないから、父と弟のものだろうか。となるとここは父の世帯用の控室なのかもしれない。

 ざっと状況を確認し終わった時、兄が「ちゃんと覚悟してなかったからだよ」と私に話しかけてきた。


「もうそういう歳だったんだよ。お前は全然帰省しないから、あと何回会えるか分からないぞって言っただろ? 急なことで感情が追いつかないのかもしれないけど、そうなったのはお前にも原因が――」

「私の話聞いてた?」

「は?」


 ああ、兄は勘違いをしている。私の態度がいつもどおりなのは混乱しているせいだとでも思っているのだろう。


「前にそういう話をされた時、私『それで構わない』って答えたよね? 私にとってお母さんは他人なの。感情が追いついてない? 追いついてるよ。正直物凄くほっとしてる。もうあの人と会うのを断る理由を考えなくて済むんだって。それ以外は何も思わない」

「そりゃ確かに聞いたけど……別に酷いことは何もされてないんだろ? なんでそんな嫌うんだよ、親だぞ?」


 その話も前にしたのに――兄に対する落胆が大きくなる。この人は何も分かってない。自分の持つ常識は、妹と同じものだと信じて疑っていない。


「お兄ちゃんには言っても分からない。理解しなくていいからそれ以上自分の考えを押し付けないで」

「押し付けるって、俺はそんなつもり――」

「とにかく通夜にも告別式にも出る。娘としてちゃんと振る舞う。この話はこれでおしまい」


 そう言って兄から視線を逸らして、私は入ったばかりの部屋を後にした。

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