第6話 覚悟
ぼんやりとした視界にハッキリしない記憶。
干し草と土と渇いた糞尿の臭いからするに、そこは古い厩舎のようだった。
「——話が違うじゃないか! あの青髪を殺るって話だっただろう!」
「いや、これで良い。まともにやり合える相手じゃないからな」
「どう見ても油断してただろ!」
「あの場にはクロード様もいた。安全に行こう、相手はベリアルドだぞ」
「クロード様もなんだってあんなところに……もう滅茶苦茶だ」
男たちの声でやっと頭がハッキリしたかと思うと、ディオールは激しい頭痛と吐き気で思わずグッと喉を鳴らしてまった。
「なんだ、起きたのか」
「大人しくしてろ。騒いだら命はないぞ」
「……」
男が五人。フード付きのローブを着込み身元を隠しているが、激しい口論のおかげで乱れた毛先が見え隠れしている。
会話の内容から察するに、セルジオを排してクロードを領主にする計画らしい。
メイドの話から薄々そんな気はしていたが、本当に実行するバカがいたとは驚きだ。
「わたくしに人質としての価値があると思っているのね。馬鹿な人間って見ていて可哀想になるわ」
「うるさい、黙ってろ」
「声が震えているわよ。ふふ……そうよねぇ、上位の、それもベリアルドに脅しをかけているんですもの。薬をやっているか正気を失ってなければとてもじゃないけれど緊張でどうにかなってしまうわよね」
「黙れ黙れ黙れ! お前みたいなガキにビビるとでも思っているのか」
「あなたたち、中位でも下の方、しかも爵位も持たない野良貴族ね? それも次男や三男ばかり
……将来の不安を慰める会ってとこかしら。クロードが領主になれば出世できるとでも言われたの?」
「お、お前に、俺たちの何が分かる……」
「分かるわけないじゃない。でもあなたたちみたいなのを騙す人間の考えることは良く分かるわ。
「……っ」
「魔女め」
男たちは生唾を飲み込んでじっとりした汗をかいていた。
ディオールは縛られ干し草の上に転がされている。家畜小屋の刺激臭がさらに不快度を増し、生理的な涙が溢れそうになる。
「おい、連絡はまだか。あのまま温室に篭られたら厄介だぞ」
「黙れ、余計な事を口にするな」
「気にすることないだろ。どうせ始末するんだから」
苛立ちと、諦めの混じった声だった。
彼らの計画には多少なりとも狂いが生じているらしい。加えてもう後戻りは出来ないという絶望感。
失うものがない人間は厄介だ。
彼らの絶望がそのまま自分に返ってくることは目に見えている。
◆
「なんで止めたの!」
「相手は転移魔法を使おうとしてた! しかも目的は兄さんだ!」
「僕なら殺せた」
「本当に? 全員?」
「……」
「敵は兄さんの実力を知ってた。警戒してたよ。だから姉さんを攫ったんでしょ」
濃いグリーンの温室は小さな子どもの怒りで満ちていた。
鳥は歌うのをやめ、蛇の威嚇音が静かに鳴っている。
ふたりはディオールを先に温室に入れなかったことを後悔し、けれど頭の片隅ではこれが最善だったと納得している。
セルジオが最後尾であれば、彼らは転移と同時にセルジオを斬っていた。
クロードが最後尾であれば、彼らはクロードを人質に取る。それはつまりセルジオの頭脳が失われるということだ。
だが、まだ何とかなる。ディオールは賢い。攫われたのが彼女でまだ……
そう納得してしまっていることに二人は苛立ち、幼い己に腹を立てている。
「ディオールを取り返さないと」
「敵の思惑に乗る気? 僕らだけでやる必要はないよ」
「……」
「ごめんね、兄さん」
「ん」
クロードとセルジオは温室の奥まで手を繋いで歩いた。
二人が三人になった。もう二人には戻れない。
「ここが一番安全だと思う」
半透明のクラゲ茸、星型の食虫花、スカイブルーの柳が作るカーテンに、細氷のような蜘蛛の糸。
一見すると自然が織りなす美しい光景であるが、正しい手順と歩き方を知らなければ即死レベルの仕掛け扉になっている。
ふたりは手早く、そして慎重に、ひとつひとつ正しい手順を踏みながら美しい帷を潜り抜け。
「……」
「……」
柔らかい日差しが降り注ぐ一角に、シンプルな作業台がひとつと、その両脇に木箱が並んでいる。
ここはメイドも庭師も入ることができないクロードだけの秘密基地であった。
「ディオール姉さんはたぶん、餌だろうね」
「うん」
「今ごろ異変に気付いた誰かが僕らを探してるはず。マーサが来てくれたら一番だけど……」
「マーサは来ない。敵は本館にもいる、はず」
「、? そうか。僕らが本館に逃げ込んだらどさくさに紛れて兄さんを襲って、僕らが別の場所に逃げたらマーサや騎士団を足止めするってことね。規模はどれくらいだろう」
「十から三十、かな」
「敵がはっきりしない状態だと数人でも厄介だね。異変を隠し通すことは無理でも撹乱くらいはできるし、城の外に逃げたことにすればマーサはそっちに向かうだろうから」
「うん。だからディオールはまだ城から出てない。探しに行く」
「僕も行くよ」
「ダメ」
「……」
ジッと見つめ合うこと十数秒。それはクロードのための時間だった。
「兄さん、僕は何をすればいい?」
「勝たせて」
「わかった」
「あと……」
ふたりが秘密基地を出たのはそれから数分経った後だった。
温室の入り口まで向かう途中、遠くから微かに聞き慣れた声がする。
「セルジオさまー! セルジオ様どこですかー!」
ふたりは顔を見合わせて入り口まで駆けて行った。
「イーサン!」
「わ、セルジオ様! クロード様も! こんなところにいらっしゃったのですね! ご無事ですか!?」
息を切らせて走ってきたのは剣術の指南役、イーサンだった。
ふたりは目に涙を溜めて「よかった」と子どもらしく言う。極度の緊張状態から解放されたように声を詰まらせ、思わず抱きしめたくなる安堵の表情を見せるのだ。
イーサンはそんなふたりを安心させるように微笑み、「もう大丈夫ですよ」としゃがんで目線を合わせた。
「イーサン、どうして」
「おふたりの姿が見えないと騒ぎになって、皆で探していたのです。……ディオールお嬢様が攫われたのですね」
セルジオは目元を赤くしてコクリと頷き、クロードはポロポロと涙を流しながらイーサンに抱きついた。
部隊長のイーサンはセルジオより遥かに強い。
「お願い、ディオール姉さんを助けて」
「もちろんです。私の隊も今捜索に当たっているところですから、ご安心を」
「ありがとう、イーサン。兄さんのことも、守ってね」
「ええ、この命に変えても必ず」
クロードは流れる涙も拭わず、ふわりと笑ってもう一度「ありがとう」と言葉にした。
生と死を背にして陽の光を浴びながら微笑むクロードは、まるで天使のように儚げな空気を纏っている。
「行ってくる」
「うん、気を付けてね」
「クロード様、外は危険です。この扉は閉め切って、誰が来ても絶対に開けてはいけませんよ」
「分かってるよ」
クロードはふたりを見送ると、ふぅ……と息を吐いて。
「……」
温室の扉を豪快に開け放した。
大人しく言うこと聞く子ならマルゴットが手を焼くはずがないのだ。
◆
ブンブンと蝿が飛び回る薄暗い小屋のなか。
ディオールはあれからひと言も発さず言われた通り大人しくしていた。
一人の男がぴっとりディオールに背中に張り付き、ハァハァと男臭い息を荒げている。汗が布越しに染みて来て、男の体温が気持ち悪い。
他の男たちは死の恐怖と戦うのに必死らしく、幼女趣味を嗜める人格者は存在しない。
「馬車が用意出来ないってどういうことだよ!」
「本当に逃げ切れるのか!?」
「クッソ、なんで来ないんだ、計画じゃあ今頃乗り込んで来てるはずだろう!」
彼らはセルジオの能力をきちんと把握していた。
平の騎士ならば良い勝負をする。衛兵相手ならセルジオが勝つし、複数人を相手にするのはまだ厳しい。
体格と年齢、経験、魔力と、その差を埋めるのは容易では無いが、セルジオの才が“危険”な領域まで開花していることを知っている。
だが彼らは慢心せず、ご丁寧に魔導具まで用意していた。セルジオの恐るべき野生の勘まで織り込み済みで、大人を頼らず単身で乗り込んで来ると予想している。
というより、頼りたくても頼れない状況になっているはずだ。
「騎士団はまだ動いてないようだ。だがそれも時間の問題だぞ」
「あのバケモノ(マーサ)はどうした」
「……い、今、メイドを拷問してるらしい」
「クソ、なんてことだ。計画じゃもっと時間が稼げたはずだろう!」
「もう俺たちの身元は割れたと思った方がいい。ここを出たらすぐに境界を目指すぞ」
「なあ、本当に来るのか?」
「ああ、来るさ……アレが本当にベリアルドならな」
男の声は恐怖で震えていた。
ベリアルドにとって家族がどういうものか知っているのだ。
家族しか愛せず、失えば気が狂うほどに執着しており、誰かに奪われようものならどんな事をしてでも地獄の果てまで追いかけてくると知っている。
ディオールはそうであれば良いのに、と思った。
自分は、本当に彼らの家族と言えるのだろうか。
自分は、彼らにとって異物なのではないか。
助けてくれなくてもいい……
ただ、受け入れてほしい。家族だと認めて、愛してほしい。悲しんでほしい。
最後に見たあの燃えるような瞳が忘れられない。
そればかり思い出している。
◆
「セルジオ様! こっちです、急いで!」
「、」
「たしかこっちに」
「イーサンは……」
「はい?」
イーサンが振り返ると、セルジオはスッと剣を構えて切先を向けていた。
「せ、セルジオ様? まさか、こんなときに稽古だとか言い出すんじゃないですよね」
「もう近いんでしょ?」
「え。あ、ええ……?」
「案内ご苦労様。もういいよ」
「や、なに……ま、待ってください! お一人で行く気ですか⁉︎ いくらセルジオ様でも今はそんなこと言ってる場合じゃ——」
言葉を遮るようにセルジオはイーサンの首筋に剣を滑らせる。が、イーサンはギリギリのところで身をのけぞり剣でそれを弾いた。
クルッと半回転したセルジオは着地と同時に剣を構え、フッと肩の力を抜いてカタカタと揺らしはじめる。
「あー……アハ、アハハハッ……」
「セルジオ、様?」
「僕が優しくないからこんなことしたの?」
「だから、なにを」
「そうだね、たしかに僕が不親切だったかもしれない。あなたたちは全部、一から十まで説明しないと分からないもんね?」
セルジオは濃いブルーの髪を靡かせながらジッとイーサンの目を見て言った。
押さえつけていた怒りが次第に愉悦へと変わっていく。セルジオは彼を——師を斬れる機会を得られたことに興奮しているらしい。
イーサンはサッと顔を青くしたあと「まさか……」とだけ口にした。
「うん。あなたが首謀者なのは分かってる。なぜディオールが拐われたと分かったの? 東屋のティーカップはクロードが処分していたから僕らが一緒だったことは僕らしか知らない。メイドはお前が呼び出して殺したね? 少しだけど血の匂いがした。本当は仲間のメイドと入れ替えるはずだったんだろうけど、マーサが動き始めたせいで突発的に決行した計画だったから殺すしかなかったんでしょ」
「や、待って、待ってください」
「だいたい、あのタイミングであの温室に部隊長が一人で探しに来るなんてあり得ない。稽古や休憩中ならわかるけど誘拐の捜索で部隊を率いてない時点で矛盾してる。捜索だってクロードを残すのは当然としても僕が同行することに反対しないのは不自然だよ、それじゃあ僕を誘い出すのが目的だって言ってるようなものだ。クロードも気付いてた。四歳児に見破られる犯罪なんて僕なら恥ずかしくて出来ないね。それともそんな程度で騙せるほど僕が***だとでも思ってたってこと? それならやっぱり僕が日頃から言葉を尽くさなかった事が原因か。悪かったとは思ってないけどもう少し頭を使いなよ、だから騎士は脳筋だって言われるんだ僕もその点は否定しないけどイメージって大事だよ。何かとね」
イーサンはこれを半分も聞き取れていない。あまりに早過ぎて、そして思いもよらないことで、頭が付いていけないのである。
「あ、だま、騙したのか」
「騙したのはあなたでしょ。僕はただ面倒だからいちいち言葉にしなかったわけだけどそのへんの人間より賢いのは誰の目にも明らかで勝手に勘違いしたのはあなただよ。そんな程度の脳みそしか持っていないから六歳の僕に嫉妬して追い越されるのを恐れたんだね。洗礼前に、魔法が使えるようになる前に始末しようと思ったんだろうけど僕はベリアルドなんだから張り合うことがそもそも間違ってるって分からない? 分からないからこんなことしたのか。ご愁傷様。アハハ、ごめんね天才で」
「ク、……この、ガキ……」
イーサンが剣を持つ手に力を込めた瞬間、セルジオはスパン、と彼の右腕を切り落とした。
腕力や魔力が無い代わりに正確に関節の継ぎ目を狙い、なかなかの太刀筋で見事な血飛沫を撒き散らす。
「ハッ、ぐっ……ぁ」
「フハ、アハハ! 止血はしてよ? 大人ならできるよね?」
「う、ギィ、……」
「おー、さすがイーサン部隊長。そうそうその調子で最後まで意識を保ってよ。あ、なんで切られたか分からない? 声が上手く出ないのは緊張のせいだと思ってる? 違うよ、クロードも気付いてたって言ったでしょ。あなたに抱きついたとき、麻痺薬を仕込んだんだよ。クロードは凄いよね、可能性のある場所の最長距離を割り出して直前で効き始めるように調整したんだ。おかげで僕は大人の、騎士団の、部隊長の、師の、あなたに勝てる」
「な、んで。卑怯だぞ、そんなことをして勝って、も」
「それ、あなたが言う? 斬れればなんでもいいよ。いや違う間違えた。ディオールを取り返せるならなんでもいい。ここから先は僕でも分かるからあなたはもう必要ないんだよ。だから僕はあなたを斬る。ここまで言えば分かる? 僕の言葉は足りてる? 僕の言葉はベリアルドたり得るかと聞いてるんだけど」
「チッ、悪魔め……」
イーサンはもう、狼狽える余裕すらない。目の前の小さな獣を殺さなければ優しい死とは無縁になる。
魔力を肩に集めて止血をすると、気力だけで立ち上がった。
覚悟を決めた大人の目は獰猛で、セルジオはそれに歪な悦びを見せた。
麻痺薬、片腕の欠損でも六歳児相手なら……
イーサンのそういった希望と、生への執着がセルジオを悦ばせるとも知らずに。
「やろうよ。でも手短にね」
「死ねッ!」
◆
ツー、と涙がディオールの頬を伝って、干し草にポタリと落ちる。
彼らはもう限界だ。自分たちが作り上げた緊張と不安で極限状態に陥っている。
だからディオールの前でも平気で計画のことを話し、状況を確認し合っている。
死に飲みこまれている。
「じ、時間だ……俺たちは、もう、助からない」
「……」
「…………」
この誘拐が露見した時点で城の出入りは厳しくチェックされることになる。警戒態勢に入り、一斉に捜索が始まるだろう。
時間との勝負だった。
その勝負に彼らは負けた。
そして……
「残念だったな、お嬢ちゃん。あの坊やならすぐに飛んで来ると思ってたんだけどなぁ」
「セルジオはそこまでバカじゃないわ」
「どうだか……でもまあ、俺たちはこれでお終いだ。悪いが最後まで付き合ってもらうぜ」
男たちの目は捨てられた老犬みたいに揺れていて、これまでの不安や緊張を手放したみたいに脱力していた。
口元は不自然に緩んでいて、声は大根役者のように上擦っている。
死への恐怖を和らげるため、脳が誤作動を起こしているのだろう。
ふわふわと気持ちよくなっている。
ふらふらと正気を手放している。
「そうだぁ……外にコイツの生首でも飾っとくかあ」
「そりゃあいい! そしたらあのバケモノも勝手に狂って死んでくれるかもな! あとは、あとは……俺たちも死んだフリでもしとけば! そうだ、逃げられるかもしれない!」
「あー、最初からそうしとけば良かったなあ」
「バカ、そんなことをしたらクロード様まで狂うだろ? いや、もういいか。どうせ俺たちには関係ない話だもんな」
「じゃあもう、何しても良いよな?」
「……」
「……」
男たちの目がピタ、とディオールに向けられる。
彼らはゾッとするような目でディオールを見下ろしたあと、突然ケタケタと壊れたように笑い出した。
もはや貴族の品位など一欠片も残っていなかった。
「ヒャハハ、いいぞ、やっちまえやっちまえ!」
「ひん剥いてバラバラにして飾ってやろう」
「どうせなら全部の穴ぐちゃぐちゃにして生きたまま返品するのはどうだ?」
「立ち直れないだろうなあ。発狂して本物の***になるんだろうなあ」
「あー、最初からこうすれば良かったんだ」
負に、飲まれている。
「そうだそうだ! ガハハ……なんで思いつかなかったんだろ」
それは……まだ人の心があったからだろう。ディオールなどまず初めに思い付いていた。
彼らは良心を亡くそうとしている。
穢れに堕ちようとしている。
ディオールは自分がこれから魔物にされるのだと理解し、胃の中のものをビシャっと吐き散らしていた。
「ギャハハハハハ!」
「アヒャヒャヒャヒャ!」
「いっぱい刺そう!」
「ベリアルドの姫君を」
「ぐちゃぐちゃにして」
「虫と一緒に壺に詰めよう」
「がはは!」
「もうおしまいだ」
下品な笑い声がディオールを取り囲み、あたりが夜みたいに暗くなった。
暗くて臭くて怖かった。
あの美しい殺意の瞳が自分のために燃えるところを見たかった。
ずいぶん放置してしまいました。
その間に本編『眠れる森の悪魔1』が発売されました。
よかったらそちらもよろしくお願いします。