第5話 異変
いつものようにみんなで食事をして、いつものように授業を受けた。
それから、初めてマーサの宝物を見せてもらって、上機嫌で廊下を歩いた。
「マーサはあれだけの宝石を盗賊だけで集めたの?」
「いんや、奪ったもんは捕まったときに全部没収されたよ。あれはここで働いて稼いだのさ。そういう条件で拾われてやったからね」
「へえ…… そんなに宝石が好きなの?」
「お嬢ちゃんも好きになったろう?」
「……」
ディオールはせめてもの抵抗にと顔を背けたが、瞳はしっかり輝いていた。
夜が始まりそうなサファイア。妖精の泉を切り取ったようなエメラルド。深い真紅のルビーに自分を重ねて思わずため息が漏れた。
実母も実父も質素を美徳としている節があるので、あんなにたくさんの宝石を見たのは初めてだったのだ。
「そ、それにしても。もう少しきちんと管理しなさいよ。あんな、そのへんの小石みたいにジャラジャラと詰め込んで…… 傷が付いたらどうするの」
「それでいいんだよ。あそこにあるのはどれも強くて硬い石ばかりだ。それが一緒んなって傷付いても、それごと愛してやるのがいいのさ」
マーサは指輪もイヤリングもただの宝石も、ひとつひとつ並べて飾るようなことはしない。
小さな宝箱を太い指でジャラジャラとまさぐり、「今日はお前にしようかね」なんて言いながら摘み出しては空いている指に付けていた。
彼女の指には毎日違う宝石が輝いている。どれも愛していて、どれも必要だと言っているみたいだった。
「その指輪は特別なの?」
「ん? これかい? こいつはアタシのお守りさ」
小指のルビーだけは毎日そこにあった。彼女にも特別があるのだと知って、そのルビーを羨ましく思う。
自分を一番、自分だけを特別愛してくれる人がいるのはどんな心地だろう。
「……ねえ、クロードの部屋に寄っても良い?」
「構わないが、どうせ今日もセルジオ坊ちゃんの部屋じゃないかい?」
クロードの部屋の前まで来ると、マーサは「ほらね」みたいな顔で肩をすくめて見せた。
洗礼までは何かあったときのためにと防音処理がされておらず、魔力操作に慣れた大人ならば僅かな生活音を聞き取れる。
ゆえに、マーサは扉の前に立っただけで留守だと確信したのだが。
「じゃあセルジオのところに行ってみま——」
「シッ……」
マーサは険しい顔でそっと扉に耳を近づけて、それから「はぁ……」と呆れ気味にため息を落とす。
それからノブをガチャガチャ回し始めたかと思うと、鍵のかかった扉をドンッ、と思い切り蹴って強引に開けてしまった。
「ちょっと、マーサ! あなたねえ!」
ガサツというか、乱暴というか……
クロードに怒られるわ、なんて思いながら大きな背中を追いかけると、マーサの足の隙間に赤黒い血溜まりと薄水色の頭部が——
「クロード!? クロード! な、どうなッ、あ、クロード!」
「……ねえ…… さん?」
「生きて……」
「ッとに、困ったガキだよほんと。あんだけ隠れてやるなと言われてまだ懲りないかね!」
「あは、は……ばれちゃった……」
弱弱しく笑うクロードの顔は血の気が失せたように真っ青で、白く粉っぽい唇に黒っぽい血がべっとりとついている。
どれくらいの時間、こうしていたのか。
本当に死んでしまうのではないか。
ディオールまで手の先まで冷たくなって、一歩も動けなかった。
が、マーサは慣れた様子でクロードを抱え上げるとゆっくり寝台に寝かせ、短いスペルを唱えて彼の口元を魔法で洗浄する。
「解毒剤はあるのかい?」
「んー、あへ……」
「麻痺系の毒か。じゃあ、ジンゼン草でもいいね?」
こくりと頷いたクロードは汗でびっしょりと濡れている。
近くの木箱をゴソゴソやっていたマーサが手早く何かの液体を飲ませると、クロードは徐々に呼吸を安定させていった。
「で、どういうこと?」
「あー、んー、へへ……ちょっと、失敗しちゃっただけ」
「あなた、あの温室で育てた毒を自分で試しているのね?」
「ど、毒じゃないもん」
「かわい子ぶってもダメ」
「反省してるよ」
「もう……心臓が止まりかけたわ」
「ごめんね。……あ、父上には内緒にしてくれる? 次やったら温室を燃やすって言われてるんだ。ね、お願い!」
厳しく叱ってもらわなければと思う反面、あの温室はディオールも気に入っていて、少しばかり心が揺れる。
それを目敏く察知したクロードが「ディオールにも鍵をあげるから」と可愛い上目遣いで追い討ちをかけた。
◆
この日も、いつものようにみんなで食事をして、いつものように授業を受けた。
食後に出された砂糖菓子は相変わらず甘くて、廊下から見る空は青かった。
「姉さんはこのあとどうするの?」
「マーサが商談中だから覗きに行こうと思ってたのだけど……この感じだとお昼寝ね」
「フ、お昼寝」
「なによ」
「なんでもないです。はい」
「あなたたちは?」
「稽古」
セルジオはそれ以外に興味がないみたいに少しだけ早歩きになる。
するとクロードが「イーサンはお休みだって。昨日まで遠征だったみたい」と言って彼を引っ張り、ふたたび三人がぴったり並んだ。
「そっか。じゃあ僕もお昼寝だ」
「温室でお昼寝しよ? 新しい芽が出たから見せてあげる」
「ヤダ、暑い」
セルジオはそう言いながらもきっとクロードに付き合ってやるのだろう。
ディオールには無い気安さと信頼関係だ。
「わたしは誘ってくれないの?」
「姉さんは芝生で寝られないじゃない」
「ふふっ、冗談よ」
いつも通りの昼下がり。
ふと、向こうの方からメイドたちの囁き声が三人の会話を止めた。
『ねえ聞いた? セルジオ坊っちゃまの話』
『ああ、アレね。本当なのかしら?』
ディオールは一瞬ドキッとして足まで止めてしまっていた。
ふたりが同じく立ち止まって息を殺したので、自分だけが気にしているわけではないと安心してそっと柱の影に身を隠す。
『最近セルジオ坊っちゃまの口数が増えたという話でしょう?』
『じゃあ***ではなかったってこと?』
『それでもおかしいわよ。なんていうか、ベリアルド御一族の特性とはまた別って感じがしない?』
ああ、やっぱり……
良くない話であるのは声色から分かっていた。
ディオールとてセルジオのことを頭のおかしい奴だとは思っているが、それとこれとは話が違う。
彼の何を知っているのか。自分だって分からないことだらけなのに。
分かったような口をきく人間がディオールは大嫌いだった。
『そういえば、最近花の名を覚えているそうよ。しかもね、それが……』
その瞬間ピタ、と内緒話が終わって視界の端からセルジオが消えたことに気がついた。
次にクロードが「まずい……」と言って駆け出し、咄嗟に後を追えば目の前に見たこともないセルジオの後ろ姿があった。
「……ア」
メイドは口を中途半端に開けたまま固まっている。頭を下げることもできず、謝罪の言葉すら出てこないのだろう。
森で魔獣と遭遇したときみたいに、少しでも動けば死ぬのだと分かっている。
「兄さん、ダメだよ」
「ん……」
クロードは優しい声をかけながらセルジオの手を握った。ディオールもそうするべきだとは思ったけれど、彼の手を塞いでしまうのが嫌で自分のスカートを握り込んだ。
今すぐ彼女たちの首が落ちるのを見たい。
一人また一人と血飛沫をあげて、後悔を抱えながら順番を待つ女の顔はどんなにか美しいだろう、と夢見てしまったのだ。
たぶん、怒っていたのだろう。
「いいじゃない、彼女たちも覚悟の上だったんでしょうし」
「ただの噂話だよ、処刑するほどのことじゃない」
「そうかしら? 忠誠心のない使用人はいつ裏切るか分からないわ。早急に処分してしまった方が良いのではない?」
「それを決めるのは父上だよ、ディオール姉さん」
そこでクロードの声がわずかに震えていることに気づいた。クロードも怒っている。けれど冷静な判断をしようと努めている。
そっとクロードの手を握れば、逆にグイッと引き寄せられて、耳元で小さな声がした。
「試験かも、気をつけて」
「あ……」
なるほど、ヘルメス伯父様がやりそうなことね……
セルジオはそれを知ってか知らずかフイと顔を背けるとスタスタと歩いて行ってしまった。
「クロード、お昼寝はやめにするわ。いつもの場所で待っててくれる? セルジオとふたりで」
「分かった。何か必要?」
「麻痺薬を都合してもらおうかしら」
クロードはポケットをごそごそやって、キャンディーを取り出すみたいにポンと薬の包みをディオールの手に乗せた。
ニコッと笑って「ありがとう」と言えば、彼もまたニコと笑って「またあとでね」と言う。
メイドたちは相変わらず真っ青な顔で震えていた。
◆
「申し訳ありません。申し訳、ありません……本当に、どうかしていたんです」
「わたくしはただ、セルジオ坊っちゃまが心配で」
「立派にご成長されたと喜んでいただけなのです」
「……あ゛ぁ゛…… ゔ…。」
「この麻痺薬、最後は心臓まで止めてしまうそうよ。ふふ、苦しいでしょう?」
「ゔ、ゔゔ……」
「お許しください! お許しくださいこの通りです!」
一人に麻痺薬を飲ませた。
手先が痙攣し、全身が震え始めたころには残った者たちが次々に言い訳をしはじめた。
それまで律儀にだんまりを決め込んでいたのに、人って簡単だ。
「で、あなたたち。あれは頼まれてやったことではないわね?」
「へ? な、だれに、でしょう」
「いいの。そうよね、あれは演技ではなかったもの。惰性のような楽しみ方だったわ。微かな緊張感はお互いに向けたものだった。間者ならもう少し上手く演技したでしょうし、試験ならもっと悪意を強調していたはず」
「いえ、いえ! 間者などではありません!」
「わたくしたちは決して裏切ってなど! そのようなことは絶対に! 誓います! ですからどうか命だけは!」
「ふふ、分かってるわ。でも、なぜセルジオはあんなに怒ったのかしら? 彼なら……」
「あ、それは——」
「誰が喋って良いと言ったの?」
「ヒッ」
やはり彼女たちは何も分かっていない。獣に牙を剥かれてもどうしてなのか分からないから、きっとまた虎の尾を平気で踏むのだろう。
ディオールは並んで平伏するメイドの頭元をコツコツと歩きながら、サラサラサラと残りの麻痺薬を彼女たちの頭に振りかけた。
特に意味のない行為だ。ただ、そうしたかっただけ。
「最近、変わったことは無かった?」
「……」
「知らない人間に話しかけられたり、商人の使いが変わっていたりしたことはない? 答えなさい」
「アッ、えっと。その……」
「べ、別の班の……子たちが、男たちと会っていて」
「西塔のメイドです、その子たちが、セルジオ様の噂話をしていたんです。それで」
「そうです、あの子たち、最近よく新しい服を着ていたり、菓子を食べていて、恋人だと言っていたんですけど、三人揃って恋人ができるなんておかしいって、思って」
「ふぅん……あなたたちはその子たちからセルジオの陰口を吹き込まれたって言いたいの?」
「いえ……はい、申し訳ありません」
「結構よ。処分が下るまでこの件に関して一切口外しないこと。いつも通り生活しなさい。できるかしら?」
「は、はい……」
「落ち込んだり不安がったり、隠れて啜り泣くのもダメよ? わたしがいつも通りと言ったらいつも通り振る舞うの。誰かに何かを勘付かれた瞬間命は無いと思いなさい」
「肝に銘じます」
「仰せのままに」
「あ、そうそう。その子ね、たくさん水を飲ませなさい。しばらく手足に麻痺が残るくらいで死にはしないわ」
「う、うぅ……ヒック、ありがとう、ございます……」
「ふう……良い子にするって大変だわ」
ディオールはメイドたちの顔と名前を頭に入れ、埃っぽい空き部屋を後にした。
何かが始まっている。これが試験だとすれば、少しの判断ミスが自らの命を奪いかねない。
「マーサ! マーサッ!」
「はいはい、聞こえてますよ。っとに人づかいの荒いお嬢ちゃんだねえ」
「あなた、わたしの専属ってことはメイドとしてもそれなりの役職に就いてるのよね?」
「なんだい、いきなり。給料を上げてくれるって話かい?」
「管轄はどこ?」
マーサは三秒黙ってスッと目を細めた。
「坊ちゃん嬢ちゃんに仕えるすべてのメイドを統括してる。食事や洗濯は城付きのメイドだからまた別だ」
「ならこのメイドたちを知ってる?」
ディオールは口に出さず、空の包み紙に小さく名前を書いた。盗聴を恐れてのことだったが、マーサは何かを察したのか「ああ」と低い声で言う。
「西棟のメイドを調べてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
恭しく頭を下げたマーサはすぐにドスドスと音をさせて部屋を飛び出した。
これが試験だろうと何だろうと、解決すべき問題なのは明らかだった。
自分のことを、身内のことを、侮辱されて笑っていられるほど大人ではないのだから。
◆
ディオールが向かったのは庭にある東屋だった。
真っ白な柱と真っ白な屋根。吹き吹ける風が心地よく、お茶をするにはぴったりの場所である。
「あれ? マーサは?」
「別の用を言いつけたの」
「それでも一人くらいメイドを付けなよ。城の中でも不用心だよ」
「そうね、気を付けるわ」
「で、どうだった?」
「あれは白ね。でも、おかしなメイドが紛れているみたい」
「へぇ、詳しく聞かせてよ」
「西棟のメイド三名。外部の男と繋がっていて、彼女たちがセルジオの噂を煽っているみたい。金銭のやり取りもありそうね」
「あー…… 西棟って言えば僕の温室の世話をしているメイドかも」
クロードは「なるほどね」みたいに一丁前に腕組みをし、セルジオは興味なさげに剣の手入れをしている。
まだ魔法が使えないセルジオはこうして常に剣を身につけていた。重さや形、質感などを肌で覚えることで空間魔法を覚えた時にすんなり収納できるようになるらしい。
ディオールは「呑気なものね」と思いながらクロードと話を進める。
「マーサの様子はどうだった?」
「分からない。試験である可能性は捨てきれないけれど……」
「なら父上に報告しよう。ここで手を引いて大人を頼るのも戦略としては正しいはずだよ」
「そうね、じゃあマーサの報告と一緒に伯父様に——」
その時、何かが背筋を這い上がるような不快感が彼女の息を止める。
誰かの殺気だとか、直接的な何かでは無い。
「セルジオ?」
「……」
いつものようにボーッと一点を見つめるセルジオの目が、いつもより鋭かった。
ディオールは嫌な予感がしてクロードを見る。すると、クロードも難しい顔で静かにカップを置いた。
「兄さん、何かあるんだね?」
「ん」
セルジオの勘はよく当たる。と言うより、ほとんど勘だけで生きている。
ディオールはすぐにメイドを探したが、周囲に大人は誰一人としていなかった。
三人だけの世界になったみたいにあたりは静かで、風が木々を揺らす音だけが響いていた。
「とりあえず本館に行ってみましょう」
「本館じゃない。クロードの温室」
セルジオが珍しく舵を切った。ということは、それが正しいということだ。
クロードはシュタッと椅子から降りると一人分のカップを近くの花壇に埋めていた。
その間もディオールは特殊な笛を吹いてマーサを呼び続けている。常人には聞こえない犬笛のようなものだ。
「ダメね、マーサは取り込み中みたい」
「それは大変だ」
「クロード、背中に乗って」
「え、この場合ディオール姉さんじゃ……」
「お前が一番足が遅い」
ディオールも「そこはわたしでしょう」と思ったが、事実、ディオールはドレスを着ていても足が速かった。
ダンスやウォーキングの訓練を日々こなしているため、同年代の男子より運動能力が優れているのだ。
「手、繋ぐ?」
「結構よ。あなたは剣を握っていなさい」
「了解」
庭を飛び出した三人は一気にクロードの温室を目指した。
なるべく静かに、そして最速で。
ディオールはスカートをたくしあげて走ることが人生で最大の恥だと思いながらも、ここでふたりの足手纏いになる方が格好悪いと思って必死に走った。
「兄さん、右! そっちじゃない!」
「いや、こっちで、合ってる。はず」
「ええ…… だってそっちは」
生垣を突っ切って庭師の小屋に出る。チラチラとディオールを気にしながらセルジオは小屋の裏手に周り、薔薇の壁を剣で散らして道を作った。
彼に続いてグリーンを通り抜けると、目の前にはガラスドームの温室があった。
「知らなかった、僕地形の把握は得意だと思ってたのに」
「ディオール、ごめん。スカート破れたね」
「今度新しいのを買ってくれたら許してあげる」
「はい」
セルジオの背から降りたクロードが温室の鍵を開け、まずセルジオが中に入る。
「大丈夫そう」
「よかっ——」
ディオールが覚えているのはここまでだった。
セルジオが半分振り返って獣のような目をしていた。
それがなんだか嬉しかった。
彼の殺意が嬉しかった。