第4話 対策
ディオールがベリアルドの城に来てひと月。
今のところホームシックになることも、居心地の悪さもない。
「これはなに?」
「マーサに負けた兄さんだったもの」
「生きてるの?」
「たぶん」
マーサは子どもにも容赦ない。
セルジオらしきものは食堂の隅っこで血だるまになって折りたたまれていた。
絶えず人が出入りしているが、誰も彼を気に留めることなく当たり前のように食事の準備が進んでいる。
「あ、伯父様。おはようございます」
「おはようディオール。マーサとも上手くやっているようだね」
「はい……」
上手くやっていると言えるのだろうか。
マーサは元盗賊だけあって身の回りのことは何でもできるが、明らかに普通のメイドとはちがう。
声は大きいし、何かと乱暴だし、すぐに物を壊すし、主人に対する遠慮だとか配慮だとか——所謂、従者としての心得がひとつもなかった。
おまけに昼も夜もなくセルジオがやってきてすぐに流血騒ぎになる始末。ま、それは自分が言い出したことなので仕方ないと思っているし、一週間もすればそのドタバタにも慣れてしまったが。
「あの、伯母様は」
「まだ少し熱があってね。朝食は自室で済ませたよ」
「そうですか…… あとでお見舞いに伺っても良いでしょうか」
「もちろん。きっと喜ぶよ」
ベリアルド家の女主人はこのところ少し体調を悪くしている。
セルジオとクロードはいつも通りだが、ヘルメスはどんどん他人に優しくなっていった。
まるで人格者みたいに、人としての完璧に近付いている。それは狂気を孕んだ優しさだった。それが少しだけ怖かった。
「セルジオ、席に着きなさい」
「ゔ……」
「——マルゴット」
「ヒッ……」
ヘルメスは無慈悲にある女の名を呼んだ。
優しさとはなんだろう。ディオールがそう思うくらい、その、なんと言うか、アレなのだ。
ディオールがそれとなくリボンを直し、スカートの皺を伸ばしていると、あっという間に女の甲高い声がやってきて。当たり前にセルジオは間に合わなかった。
「まあまあまあまあ! またマーサに挑んだのですか。朝はわたくしとお花の名前を覚えましょうと約束していたはずですのに。嘆かわしいこと、あれだけ——」
始まった。
マルゴットは倫理、人心、礼儀作法などを教えるベリアルドの専属教師——正しくは、対ベリアルド最終兵器である。
彼女の家門は倫理底辺最悪一族をギリギリ社会に出しても良いくらいに矯正するための研究をしており、異常者各位に社会性を叩き込むプロフェッショナルだった。
単なる口煩いおばさんだと思って舐めていれば痛い目を見ることになるだろう。ディオールもつい先日ちょっと泣いてしまったくらいなのだから相当だ。
「う、分かったから、もう大丈夫、もういい黙って」
「もういいとは何です! そのような肉団子になって良くもまあ偉そうな事が言えましたわね。時と場所をお選びくださいと——(中略)——わたくし剣術のことは何も存じ上げませんけれど、それほど考え無しに挑んで勝てるようなものですの? 少しは戦術というものを学んだ方がよろしいのではありません? 指導担当はイーサン部隊長でしたわね」
「あ、ッ……」
マルゴットがぐるりと見回せば、使用人に紛れていた一人の男が青白い顔で歯の隙間から息を吐きながら静かに姿を消した。
彼はベリアルド騎士団の部隊長イーサン、セルジオの指南役だった。イーサンもしっかりマルゴットが怖いのだ。つまりマルゴットはベリアルド以外にも効くのである。
そして。
「うぅ、僕が悪かった。ちゃんとするから。もう帰って」
先生が自分のせいで怒られるとなれば、いくら共感性および協調性皆無のボーッとした男の子だって堪えるというものだ。
六歳でもしっかりプライドはあって、剣術にしか興味がないからこそ剣術の先生にはガッカリされたくないし、迷惑をかけたくない。
イーサンを泣かせるのは剣で勝った時でなければいけない。なけなしの男気だった。小さな騎士の矜持だった。
マルゴットはセルジオをオーバーキルしたあと、一段声を落として近くのメイドに「そこのあなた、坊ちゃまの洗浄と着替えを。またボーッとするようなら花の名前をひとつずつ唱えなさい」と、霊媒師みたいに言ってから颯爽とその場を後にした。
驚くべきことに、セルジオはすぐさまスクッと立ち上がりゴシゴシと涙を拭ってマルゴットから指示を受けたメイドのところへ行き、大人しく手を引かれて十分後には綺麗な服に着替えて大人しく席に着いた。
これがマルゴットである。
ディオールは花の名前が何なの?と思って首を傾げているが、クロードは「あれは卑怯。マルゴットは悪魔」と言いながらクスクス笑っていた。
「ねえセルジオ、さっきのはなぁに?」
「?」
「花の——」
「アー、アーー、うーん。べつになんでもない。覚えるの、面倒なだけ」
「ふーん」
「……」
「でも、薬草学ならまだ先だし、社交も……」
「僕はもうほとんど覚えたよ。だから兄さんも覚えて当たり前だって言われてるんだよね?」
「そう。そう! クロードが悪い。ぜんぶクロードのせい!」
「は? 兄さん?」
「ごめん、間違えた。僕もクロードを見習って自発的に勉強した方が良いと思っただけでそれがたまたま、えーとなんだっけ、花だった…… みたいな。それだけ」
「流暢に喋るじゃない」
「ヴ……」
なんだか様子がおかしい。
ヘルメスはそんなセルジオを見て「ほうほう」と興味津々だった。
◆
悪魔っ子たちのお勉強はほとんどが倫理、道徳、心理学、それらを基礎として常人らしく振る舞う“擬態”である(ベリアルドではこれを総称して“人心”という)。
彼らは基本的に賢く、学べばきちんと理解できるため、人が傷付くロジックを学び、人を魅了するためのメソッドを学ぶ。
もちろん語学や史学、数学に政治学といった一般教養も必須である。
ディオールはこれまで一般教養は自宅で学び、週に一度城で人心を学んでいたのだが。
「ディオール様は人心も大変よく身に付いていらっしゃいますわね。奥様とも問題なく交流されているようですし。生家での生活は一長一短ということかしら。であれば……」
そう、ディオールは姉を殺しかけたにもかかわらず、そのあたりの理解度は本家のふたりを遥かに上回っていた。
善人がどのような思考回路でどのように振る舞い、どんなときにどんな顔をしてどんな台詞を吐くのか六年間を通して学んだから。
よって、ディオールは姉が望む言葉や行動を知っていたことになる。
知っていてひとつも与えなかったのだ。
「では次に…… っ、」
「マルゴット? 顔色が」
「失礼、今日の授業はここまでと致しましょう」
「はーい!」
クロードがニコニコ笑ってセルジオにウィンクすると、マルゴットは真っ青な顔に脂汗を垂らして小さく舌打ちした。
ひと月も彼らの生活していれば嫌でも理解できた。
クロードがマルゴットに毒を盛ったのだろう。たぶん、下剤とかそのあたり。彼らは授業をサボることに命をかけている。
「あはは、久しぶりに上手くいった。危なかった〜」
「もう! マルゴットが死んだらあなた処刑よ?」
「大丈夫、アレは毒じゃ死なないから。でもそうだね、マルゴットばかり相手にしてたらそのへんの感覚が狂うから気を付けないとだね」
「マルゴットって何者なの?」
「なんだろうね? でも本当に凄いんだから。僕ね、三歳の時初めて人に毒を盛ったんだけど、マルゴットに二時間子守唄を聴かされて気が狂いかけたよ。兄さんは平気で寝てたけど、僕は本当にダメだった。次は半日歌うって言われて泣いちゃったもん」
「それ、今夜じゃないの?」
「あ……」
クロードは世界の終わりみたいに絶望して、一丁前に組んでいた足をぶらっとさせた。
それからブンブンと頭を振って、自分に言い聞かせるように一段と饒舌になる。
「や、あれは大丈夫だって。きっとベリアルドとしては加点要素だ。マルゴットに毒を盛れたら一人前ってね…… 無いか。怒られる? 僕もしかして今夜終わらない悪夢と朝を待つことになる?」
「わたしだったら許さないわ。でもまあ、マルゴットなら褒めてくれるかもしれないわね」
「ね、ね! そうだよね。最近兄さんのおかげで機嫌がいいし。ありがとう兄さん、僕の命を救ってくれて」
「ん」
これが日常だった。ディオールもこのよく分からない日常を心地よいと思っている。
ただ、セルジオの様子がおかしい理由がわからず、それがちょっとだけ寂しかった。
同じベリアルドとは言えそれぞれの価値観や大切なものは少しずつ違う。ただお互いが特別だと思っているだけで、完全に理解し合えないのだと痛感し……
『僕らには僕らだけだから』
クロードの言葉が宙に浮いたまま、うっすらと懐かしい疎外感を感じるのである。
それでも、いつでも、三人一緒にいる。
どうにか授業をサボろうと知恵を働かせて、ある時は失敗してこっぴどく叱られ、ある時は上手く逃げ仰せてあーだこーだと次の作戦を立てた。
勉強が嫌いというより、いかにしてサボるかを考える方が楽しいから。
なにせ外国語も古語も数式も歴史も一度説明されれば理解できるし応用もきく。
やれば出来ると知っているから学ぶことを軽視するという最悪な成功体験だ。しかもどれだけ舐め腐っても実際出来てしまうからタチが悪い。
「姉さん、母上のお見舞いに行かない?」
「そうね、セルジオも行くでしょう?」
「あ、うん」
クロードはこうやって自分から誘ってくるが、そこには“義務”が含まれているようだった。
長い廊下を歩きながら、均等な光と影を交互に踏んで歩く。
「ねえ、伯母様は本当にご病気なのよね?」
「うん? そうだよ」
「そ、なら良いわ」
「あはは、やだな。大丈夫だよ、何もしてないって」
明るい笑い声はちょうど影に入っていた。
◆
「そろそろ兄さんたちの試験対策を始めた方がいいと思うんだけど」
「対策?」
「そう。僕、協力するよ。予習にもなるし」
ここで言う試験とは語学や史学といったお勉強の試験ではない。
ベリアルドは七歳の洗礼までに社会に適応できるか判断するための試験があるのだ。趣味嗜好は変えられなくても「我慢」ができる人間であれば問題ない。
もっと言えば自分の欲求を社会の役に立てる形で活用できれば御の字である。
セルジオならば剣術の才を活かして騎士団に入るなどし、一般人を無闇やたらと斬りつけないというのが最低条件となるだろう。
「——とは言ってもだよ? 実際はもっと複雑な試験になるはずなんだ。ディオールは外で育ったからあまりピンと来てないよね?」
「そうね。普段の人心の授業を理解して行動できていれば問題ないと言われただけで、具体的なことは教えてもらえなかったわ」
「今年はふたり同時に試験になるだろうから、まずは基本的なことをおさらいしよう」
試験対策を仕切るのはこの中の最年少、クロード坊や四歳である。
彼は裏方気質というか、調べ物をしたり計画を立てるのが得意らしく、率先して情報を集めていた。
「まず、人は殺しちゃいけない。でも例外がある」
「わたしたちに許されているのは正当防衛だけね。あとは誰かの指示で殺す場合」
「そう。ただ、兄さんはそのへんが曖昧になってくる。領主になれば兄さんが自治権を持つことになるから、後からどうとでも出来てしまうんだ」
「お」
「でもそれじゃダメよ。市民の反発から国の規制が入るでしょう?」
「うん。だから何をするにも根回しとお膳立てが必要になるよね。基本は補佐官を頼るしかない。なんなら補佐官にすべてを委任しても良いくらいだ。僕らは根が腐っているから、自分が正しいと思うことは大抵正しくないし」
「あなた本当に四歳?」
「ディオールだって似たようなものだったでしょう?」
「ふふん。まぁね」
ディオールはちょっと得意げに鼻を鳴らしたあとクロードの頭を撫でてやる。
その間セルジオはまたボーッと蝶々でも見ているのかと思えば、意外にも真面目に二人の話を聞いていた。
「ごめんね話が逸れた。とりあえず、試験に合格しないことには補佐官も付けてもらえないから、今回は僕が補佐官として動くね。それで、僕の予想だけど、試験は姉さんが軸になると思う」
「わたし?」
「うん。姉さんはまだ執着するような趣味はないんだよね?」
「そうね。毒だとかか、人斬りだとかいう物騒な欲求はないわ」
「だからそれをハッキリさせるためにも姉さんを中心に組み立てくると思う」
「筆記試験や口頭尋問だと思ってた」
「試験はそんなに簡単じゃないよ」
クロードがなぜそんなことまで知っているかはさておき、命がかかっているので本気で取り組むしかない。冗談抜きで試験をパス出来なければ処刑される。
ちなみに、この年齢になるとベリアルドはみんな良い子になるそうだ。どこでどんな試験が行われるのか分からないため、なるべく社会性・安全性をアピールしながら過ごすことになるという。
「で、クロードの考える試験対策ってなんなの?」
「とりあえず、みんなで価値観…… とるべき行動の指針を擦り合わせをするのはどうかな? 授業で学んでも案外よく分かってなかったりするでしょう?」
「わたしたちだけで人心の問答をしようってことね」
クロードはコクリと頷き、セルジオは「なぜそんな面倒なことをするのだろう」みたいな顔をしていた。
しかしディオールはこれがとても大事なことのように思えた。授業では教師が気に入りそうな回答を無意識に探すため、わずかに認識にズレが生じるのだ。
たとえば……
「もし、町で飢えた親子が死にかけていたとするよ? 兄さんはきっと“自領の民なら税や政策を見直す”って答えるよね」
「うん」
「それは次期当主として望ましい回答だ。で、本音は?」
「その場で殺すかな」
「もう少し掘り下げてみよう?」
「んー、その親子は仕事がないか働けないから飢えている、と仮定して。あと二日三日で死ぬような人間は政策をどうこうしたところで間に合わない。だったら数日苦しむよりその場で楽になった方が幸せ、だと思う。僕も練習ができる。痩せた女こどもの肉を断つのにどれくらいの力加減と速度で剣を振るのが最適か知りたい。全員がうれしい」
「そうだよね。でもこれじゃ不正解だ。兄さんもそれが分かってるから望ましい模範回答しか答えないし、それしか正解を知らない」
「クロードはその模範回答が試験では通用しないって言いたいのね?」
「そういうこと。たぶん、もっと深い本質を探られるんだと思う。父上の専門分野だから僕らはかなり不利だよ」
「なるほど、困った」
「で、姉さんは? 姉さんは現実的に何が正解だと思う?」
「そうね……」
ディオールは民の苦しみを終わらせてあげようというセルジオを“優しい”と思った。
だが、人の望む優しさが別のところにあるのも知っている。ゆえに。
「銀貨を与えるわ。それだけで良いのよ、きっと」
「え? お金?」
「うーん、それじゃ何の解決にならないと思うんだけどな。お金なんて渡したら他の人に殺されて奪われるかもしれない。食べ物を買いに行く体力だってないかもしれない」
「あら、善行ってそういうものよ? 相手のためになるかは重要じゃないの。相手がどう思って、その行為が誰にどう映るかだけなんだから。もしそれで親子が襲われても襲った人間が悪いのであってわたしは悪くないわ。わたしたちは後から悲劇を知って、悲しい顔で涙を流せば良いの。そんなつもりじゃなかった、ってね」
「簡単そうで難しいね。なんていうか、それをして何になるのって思っちゃう」
「でもわたしの父ならそうするわ」
「それが良い人間?」
「ええ。与える者は良い人間。奪う者は悪い人間。殺人は命を奪うから悪い人間。簡単でしょ?」
「嫌な世の中だね。でも、ベリアルドが“銀貨を与える”で許されるかな? 仮にも試験なわけだし」
「クロード、わたしたちはまだ子どもよ」
「そうだった!」
クロードはパッと目を大きくして声を張り上げ、それに驚いたセルジオが猫みたいに椅子の上でピョンと跳ねる。
「え、なに? どういうこと?」
「誰も子どもに難しいことなんて求めてないってことだよ」
「複雑な問題を解決しても理解できる人は少ないもの。だからね、見栄えさえ良ければ良いのよ。“力”だって与えることができる…… セルジオならその剣で困っている人を助けたら良いわ。一番分かりやすいでしょう?」
「困っているか分からないときは?」
「困っているか聞けば良いんじゃない?」
「なるほど?」
「じゃ、一旦、判断が難しいものや試されているようなときは相手に何かを与える選択をしよう。あとはかわい子ぶってれば大体のことは許されると思う」
「子どもだから?」
「そ、子どもだから」
三人はまったく可愛げのない作戦を大真面目に話し合いを続けた。
これを扉の影で盗み聞いている者がいた。
「ええ、ええ…… それで良いのです。自ずとその真理に辿り着くなんて……」
「本気で言ってんのかい? あんなのただのクソガキ会議じゃないか」
「お黙りなさい! 盗賊崩れにベリアルド御一族の繊細な御心など分かるはずないでしょう!」
「いや、頭おかしいだろうアンタ」
「それはそうとマーサ。諜報部の訓練ですけれど、今夜相談に乗ってくださる? 裏社会の生の声というのは貴重ですからね」
「おいおい、今さっき盗賊をバカにした口で良く言えたもんだねぇ。ま、謝礼によっちゃあ考えなくもないが」
「オホホ、コレでどうかしら?」
マルゴットは無造作に胸元から小さな木箱を取り出し、片手でパカっと開けて見せる。
繊細にカットされた大粒のエメラルドが光っていた。
「カッカッカ! さすがマルゴット! どこの悪党から取り上げたんだい?」
「失礼な。あちらが勝手に差し出してきただけですわ」
「アッハッハ!」
「オホホホホ……」