第3話 過去
——火を斬ってみたいと思った。
ベリアルド家の長子セルジオ・ベリアルド六歳。
彼はいつもボーッとしていた。考えることも喋ることも、すべてが面倒臭いと言いたげにただボーッとしている時間がほとんどだった。
性分というのだろうか。
しかし彼の口に語らせれば「その必要がないから」と言うだろう。
「やっぱりセルジオ坊っちゃまはどこかおかしいわよ」
「今日もしばらく空を見上げていたのだけど、急に剣を抜いて小鳥を斬ってしまったのよ」
「恐ろしいわ…… いくらベリアルドだからって、不気味よねぇ」
「こんなこと言っちゃアレだけど、***なのではない?」
「でも呪い持ちでしょう? 座学は問題ないと聞いたわよ」
「それもどうだか。ご嫡男が善人どころか無能の***だなんて外聞が悪いから、そういうことにしているんじゃないの?」
「クロード坊っちゃまが先に生まれていればねえ……」
「本当にね、そしたら領地も安泰だったでしょうに」
「シッ、あんたたち声が大きい」
声を潜めたメイドたちはそのあともしばらく噂話に夢中だった。
セルジオはこれをなんとなく耳に入れ、そのまま理解し、なんの感情も揺らさない。
使用人の休憩室の扉は監獄のようにピッタリ閉め切られている。
扉は領主の城らしく飾り彫が施され充分な厚みもあるが、部屋自体は簡素な作りであった。大きなテーブルといくつかの椅子、それから備品などを並べるシンプルな棚があり、壁に沿うように木箱が二段か三段ずつ積み上げられている。
メイドは七人。二人は立って棚を整理しており、三人は椅子に座って白湯のような薄い紅茶でも飲んでいるのだろう。一人はシーツを運んでいるのかあくせく部屋のなかを往復し、もう一人は木箱に腰掛けていた。
セルジオはこれを漏れ聞こえる音だけで正確に読み取っている。
「……」
女の愉しみは湿り気があって、セルジオにはそれの何が楽しいのか分からない。
けれどこれこそが彼女たちにとっての娯楽であり、仲間の絆を確かにする儀式であり、大それた悪意もない事をよく理解していた。
それは屠殺を待つ家畜のようだった。
花を売る少女が見る素朴な夢のようだった。
セルジオは狩りの準備をするみたいに黙ってその音を聞いている。
あのパチパチと爆ぜるような紅蓮の少女を思い浮かべながら、人間というものを学んでいるのである。
「あ、こんなところにいた」
「ん」
「マーサを待ってるの?」
「うん」
弟のクロードは方々探し回ったと言いたげにホッと一息吐き、中のメイドに聞こえないよう小さな声で言った。
それからセルジオの隣にちょこんと腰を下ろし、ジッと耳を澄ませて女の噂話を聞く。
「兄さんには見えてるの?」
「まあ」
「うーん、僕は全然だ」
「そか」
「はぁ…… これだから天才は。そういえば、マルゴットが探してたよ」
「うわ」
「ここにいるとマズいかも」
「はぁ、全部あの子のせいだ。ホント最悪」
「ん? ディオール姉さんのこと?」
「そ。マーサが僕の専属から外された」
「ああ……」
セルジオが唯一名前で呼ぶメイド、それが“マーサ”だった。ディオールが来た日に外されたということは、つまりそういうことなのだろう。
お気に入りを取られたのだ。あの女の子に。あの、切り裂きたくなる炎に——
「もしかして、マーサを取られたくなくて姉さんを殺そうとしたの?」
「ちがうけど」
「だよね? あのときはまだ兄さんのメイドだったもんね」
「あの子、そんなに強いのかな?」
ちょっとした沈黙があり、クロードが気まずそうに口を開いた。
「あのね、兄さん」
「ん?」
「マーサは訓練の相手じゃなんだよ。メイドなの、一応」
「え?」
セルジオはバカみたいに目を丸めてクロードを見つめ返すばかりである。
このやり取りはすでに数十回は繰り返されているが、セルジオは毎度ご丁寧に衝撃の事実を知ったみたいな顔で固まってしまう。
セルジオはバカだった。マーサに初めて会った時から彼女をオラステリアで最強の人間だと認識し、いつか自分が倒すべき相手として目標に掲げる程度にはバカだったのだ。
「とりあえず、ディオール姉さんのところに行ってみよう? ここで待つより良いと思う」
「ん……」
晴れてベリアルド家の一員となったディオールには客間ではなく自室が用意されていた。
元々その予定があったために新しいシーツをかけたり花を飾るくらいで特別な準備は必要ない。
ふたりの部屋からも近く、扉の両脇には歓迎の意味も込めて可愛らしい花が飾られている。
セルジオとクロードが扉をノックしようとした瞬間、「バタン……」と鈍い音が聞こえてパッと同時に顔を見合わせた。
「……?」
おそるおそるノブを回して薄く扉を開く。
すると、部屋の中では仁王立ちになった山のごとき巨大な女と、その前でひっくり返っている小さな女の子が目に入った。
「姉さんッ! ディオール姉さん! 大丈夫!?」
「マーサいた」
「おや、お揃いで。お嬢ちゃんに何か用かい?」
「んーん、今日はまだマーサと戦ってないから」
マーサはグイッと片眉を上げてセルジオを見下ろし、セルジオはすでに剣に手をかけていた。
マーサはメイドである。
セルジオは領主の息子である。
クロードは四歳で、ディオールは今日からマーサの主である。
「良かった、外傷はないみたい。おーい、ディオール姉さーん、聞こえる〜?」
「懲りない子だねぇ、備品を壊すんじゃあないよ」
「ん、気をつける」
「ちょ、兄さん危ないよ! 部屋の中ではやめてってたら」
「ッしょ! セァ!」
「ガッハッハ、痒い痒い。バターナイフで撫でられてるのかと思ったよ」
「と、よいしょっ」
「あーあー、もう。ッと、姉さん起きて。僕じゃ運べないよ。だってまだ四歳だもの僕」
意識のないディオールにのんびり声をかけるクロード。
頭上ではセルジオが巨大な山に切り掛かっている。が、“山”ことマーサが軽々片手を振れば、セルジオは整えたばかりの寝台にボブっと吹っ飛ばされ、「キュウ〜」とただの子どもみたいに目をチカチカさせている。
入り口から寝台までかなりの距離があった。
マーサはクソガキをあやすのがとても上手いのだ。
◆
「ん…… ンン、」
「気が付いたかい?」
低くしゃがれた声がする。ディオールが頭をはっきりさせると、薄暗い部屋に明かりが控えめに灯っていた。
ディオールがガバッと上半身を起こすと、隣で巨大な人型が小さなナイフでリンゴの皮を剥いているのが見えた。
座っていても大岩のごとき巨漢である。
怪物の棲家に囚われたお姫様になった気分だ。しかしここは洞窟でも地下牢でもない。
足元には小さなクロードが丸くなって寝ており、床には頬を腫らしたセルジオが転がっていた。
「なに……?」
「リンゴだよ、食べるかい?」
「そうじゃなくて」
「んあ、その子たちかい? はしゃぎ過ぎたんだろう。マルゴットに見つかるとアタシが怒られるからね。こうして匿ってやってんのさ」
「は?」
「おや、ベリアルドのくせに鈍いんだねぇ」
「っ、」
流石にこの状況を理解するのは並の大人で難しい。しかしプライド一等賞のディオールは頭をフル回転させて状況把握に努めた。
物の配置が変わっている。花が数本入れ替わっていて、花瓶も最初に見たものと違うようだ。
つまり、自分はこのバケモノみたいなメイドに驚き気を失って、その間に本家の悪魔っ子たちが訪ねてきて、なにだか分からないけど悪魔vsバケモノの大乱闘がはじまり、彼らは良識のある大人に叱られると思って全員でディオールの部屋に隠れている。
そういうことらしい。
とは言え、メイドに驚いて気絶するとは何事か。そも、このバケモノみたいなメイドは何なのか。
「ふぁ…… 姉さん、おはよう」
「お、おはようクロード」
「びっくりしたでしょう? 気にしないで、初めてマーサに会ったら誰でもこうなるよ」
「そうなの?」
チラリとマーサの顔を盗み見るまでもなく、ゲラゲラゲラと豪快な笑い声が響いた。
彼女は「そうさ、特に大貴族の旦那なんてぇのはアタシと目が合っただけでタマァ縮み上がらせてひっくり返るよ。賭けてもいい」と言って、片手に持ったリンゴをついうっかりという具合ににぎり潰した。
「? え、なに? こわ……」
「何の話だって? ガハハ、男ってのは自分より強い女を想像したことがないんだ。だからいざ目の前にすると訳がわかんなくなっちまっておしまいなのさ。この子らはタフに育つよ、アタシのおかげでね」
「は? マーサは…… ヒト、なの?」
「そこからかい?」
ぐいっと片眉を上げたマーサはおとぎ話に出てくる悪い魔女みたいに意地悪なシワを刻んでいた。口元は愉快そうに笑っていて、ディオールは少しだけドキドキする。
恐怖ではない。恐怖に近いけれど、緊張と言っても良いほどだけれど、それよりもっと前向きで明るい感情だった。
それで、ディオールはとびきりマセたお姉さんの声で言う。
「巨人族なんて存在したのね。おとぎ話でも始まったのかと思ったわ」
「……、プッ、分かる、それ思った(笑)」
「アーッハッハッ、ンハハハ…… ッゲホ、ガハハ」
クロードはお腹を抱えたまま寝台の上で震え、マーサは豪快にのけ反って大笑いしている。
嫌味を言ったつもりはない。
ただ、彼女のような巨大な人間など見たことも聞いたこともなくて、上位貴族の自分にあけすけに物を言う人間を想像したこともなくて、それが彼女の言う“男”と同じだと気付いて、羞恥で腹を立てるほど子どもでもなくて、それで……
「……ふふ、あはは。おかし……」
それは初めて誰かに親しみを込めて言った軽口だとか、ジョークの類であった。
父なら悲しい顔をして「酷いことを言ってはいけないよ」と嗜めただろう。
母なら少し嫌そうな顔をして別の話を始めただろう。
姉なら…… キョトンとしたあと「巨人族のおとぎ話があるの? マーサがその巨人ってこと?」と阿呆面で聞いただろう(彼女は滑ったジョークを本人に解説させるという拷問みたいなことを平気でやるから)。
“会話”できることが、笑い合えることが、これほどに嬉しいことだったなんて。
こんなにも楽しいだなんて。
自分は今まで一体ナニと暮らしていたのだろう。
そう思わずにはいられない。
「それで嬢ちゃん、リンゴ食べるかい?」
「うさぎの形に切って。そしたら食べるわ」
「アタシのこの立派な手を見てよくもそんな注文ができたね」
「マーサはわたしのメイドでしょう? それくらい出来なくてどうするのよ」
「ガハハ! イエス、ボス。そりゃそうだ」
マーサは上機嫌で新しいリンゴを掴み取ると、ごつごつした岩みたいな手で器用にリンゴをくし切りにし、ちまちまと皮を切り取りはじめた。
意外と手先は器用らしい。とても美しいとは言えない傷だらけのずんぐりした指が、ディオールのためにリンゴをかわゆくしていくのが心地よかった。
「マーサはね、盗賊の首領だったんだって。母上が外国に行ったとき見つけてきたんだ」
「ヘルメス伯父様ではなくて?」
「うん。母上はなんでも拾ってきちゃうから」
「そうさ、あの女はアタシをその辺の野良猫みたいに拾いやがった。これだからお姫様は…… 酷い話だろう?」
「どうして盗賊なんてやっていたの?」
「ん? うちの村はみんなアタシみたいにデカくて丈夫なんさ。そんで畑作ったり猟をしたりしてひっそり暮らしてたんだが…… なにせこの図体だもんでね」
マーサは自慢するように大きなお腹をバシンと叩き、つやつやのリンゴをひとつ取ってゴリっと丸齧りする。
ディオールが両手でやっと持てるくらいの立派なリンゴもマーサの手に収まれば不思議と小さくて柔らかそうに見えた。
マーサの体長はゆうに三メートルを超えるだろう。たぶん、クマとかゾウとかと比べて語るのがちょうど良いくらいの規模感だ。
そんな種族が小さな村に収まるわけがなかった。土地を広げ、田畑を増やせるほど外の人間は彼らに寛容ではなかった。
「小さな村でね。あんなところに隠れ住もうってのが無理な話だったんさ。みーんな頑丈なもんで病気くらいじゃ死にやしない。ちいとお天道様がヘソを曲げりゃあすぐに食糧なんざ尽きちまう。短気な奴らはすぐに暴れ出すんさね」
マーサ級の村人——それも男たちが争い始めれば村が壊滅するのは目に見えている。
つまり、彼女は捨てられたのだ。
口減しで遠くの山奥に捨てられ、生きて、拾われ、此処にいる。
「恨んでいる? 村の人を…… 両親を」
「いんや、感謝してるくらいさ。あんな狭ぇとこで萎んでおっ死んでくのは御免だよ」
「ふーん」
分かるわ、とは言わない。たぶん同じ感情ではないし、そこに自身を重ねるのは違うと思っている。
けれど今朝まで過ごしていた自分の部屋は、もうすっかり古い絵画のように色褪せていた。
窮屈で退屈で不自由な人生は彼女の“過去”になっていた。
「僕が思うに、マーサの村はマーサの先祖が迫害されて出来た集落だったんじゃないかな。“鬼”と呼ばれていたそうだよ」
「鬼……」
「ンハハ、そーさね、そーさね。最初に会った野郎共も鬼だ鬼だと泣き喚いてうるさいのなんの。とっ捕まえてチョイと突いてやったら泡ァ吹いて気絶したんさ」
マーサは故郷の話をするとき聞きなれないイントネーションで喋る。
それから、小指にはめた真っ赤なルビーの指輪をチロチロと反対の指で弄っている。不格好で、似合っていた。
「その男たちが盗賊だったの?」
「そいつらはどっかの国で戦に敗れて逃げてきた敗走兵さ。アタシも鬼じゃあないから逃してやったよ。人を喰う趣味はないからね」
「なら、どうやって盗賊になったの?」
ディオールは自分でも気付かないうちにマーサに夢中になっていた。知らない世界の知らない話だ。
つい半日前まで綺麗で上品で何の面白味もない退屈な世界にいた彼女は、泥臭くて血生臭い野生の香りに惹かれている。
クロードの温室にあった生と死の香りによく似ている。
「マーサは僕の専属だ」
突然、むくりと起き上がったセルジオが頬をぷくっと腫らしたついでに唇を尖らせていた。
三人はリンゴをシャクシャクしながらそちらを見て、「あ、起きたんだ」「リンゴ食べるかい?」「謝って」とそれぞれ言い、すぐに「何の話だったっけ?」みたいに彼を無視して会話に戻る。
セルジオはしょんぼり肩を落としてよじよじと寝台に上がり、自分も皿からうさぎのリンゴを摘んでみんなと同じようにシャクと齧った。
「マーサは強いのね。でもどうしてメイドなの? 傭兵とか、他にも職はあるでしょう?」
「ああ、それは——」
「マーサは僕のなんだけど!」
「はい?」
「アッハッハ! 坊や、アタシを取り返したけりゃお嬢ちゃんとタイマン張りな。女だからって容赦するんじゃないよ」
「!」
「良いわよ、決闘でもなんでも受け立つわ」
「はは、面白い女」
「ヒェ、兄さんそれ禁止ワード! 何か始まっちゃうし六歳にはちょっと早いかも!」
「べ、べつにあなたのことなんて何とも思ってないんだからねッ!」
「姉さんまでやめてったら! 見てよマーサ、僕今すごい鳥肌立った。四歳児にこれ聞かせるの普通に虐待じゃない?」
クロードは袖を捲りながら一気に喋り、マーサが何か言う前に「アハ、アハハハッ」と笑い出した。
自分で言って、自分でおかしくなってしまったのだろう。まだ四歳だから。何が転げても可笑しい年頃だから。あらゆる刺激に敏感で、感情の制御が難しい幼児だから。
一方、クロードがヒイヒイ笑い転げる隣では、セルジオが期待に満ちた瞳でディオールを見つめていた。
「やる? 勝負、本当に」
「ええ、やりましょう」
「ワ……」
セルジオは途端に嬉しくなって、彼女の潔さに目の奥をクラクラさせた。
そも、頭のおかしな六歳児の言うことを真面目に取り合ってくれる人間は少ない。
同年代の貴族子女はまったく会話が成り立たないし(セルジオが悪い)、使用人は困り顔で愛想笑いをするだけだし(セルジオが悪い)、父は息子の言動がどのようなロジックで成り立つのかばかり興味を持っているようだし(ヘルメスが悪い)、母はのんびりしているので何を言っても楽しそうに笑って話を聞いてくれる(母が可愛い)。
「わたし、誰にも負けたことないの」
「奇遇だね、僕も」
火の精のように苛烈な女の子はセルジオの目をジッと見つめて真っ向から言葉を返してくれた。
バカみたいな話にバカみたいに乗ってくれた。
そして、彼女はツンとした顔でこうも言った。
「でも、戦うのはマーサよ。マーサはわたしの従者だもの。主のために戦うのは当然でしょう?」
「ッ!」
セルジオはただマーサと戦いたいだけだった。
ディオールはそれを叶えてくれた。
なんて優しい子だろうと思って、なんて賢い子だろうと思って、なんてカッコいいんだろうと思った。
セルジオはバカなのだ。
バカでチョロくて、剣術にしか興味がなくて、あれこれ考えるのが面倒な小さな男の子だった。
「僕、いつか火を斬ってみたい」
「はぁ?」
ディオールは火のように冷たくて、セルジオの頬は雪の夜みたいに熱かった。