第2話 邂逅
こうしてディオールは当主であり伯父のヘルメスと面談の機会を得ることとなったのだが——
毎週城を訪れてはいるものの、ヘルメスとは年に一度会うか会わないかというところ。
これには様々な理由があるが、一番は両親の意向だろう。
ともあれ、姉の殺人未遂について一通りの事情聴取を終えたディオールは、次第に速度を上げる鼓動を誤魔化すように紅茶を口に運ぶ。
当主の執務室は意外にもこじんまりとしていて昼間でも薄暗い。
執務机にうっすらと光が差し込むくらいで、小さな灯りの魔導具がポツポツとついてるだけだった。
華美な調度品や宝石の類はひとつもなく、唯一、優しい色が混ざり合った輪郭のない絵画が一枚飾ってあった。
「……」
「ディオール、本当にここで暮らしたいか?」
ドクン、と心臓が音を立てた。殺人未遂の動機よりも大事なことだった。少なくとも彼女にとっては。
そして、なぜだか母の顔が思い浮かんだ。
「わたくしは、ここで暮らすべきだと思っています」
「ふむ」
「……」
ヘルメスはハンサムな溜息をひとつ吐き、カウチに深く座り直して足を組み替える。
彼が両手を下腹のあたりで組むと、ディオールはそれだけでグッとお腹に力が入る。
「なぜ呪い持ちの君が生家で過ごすことを許されたか分かるかな?」
「実の両親や姉からの愛情がベリアルドに必要な倫理の学びになるから、では?」
「それもある。善良な人間の営む家族愛を学ぶにあたり、あの家ほど適した環境はないからね。どの家庭も何かしらの歪みはある。が、君の家族は限りなく完璧に近い」
「その家族を愛せないわたくしは不適合…… ということでしょうか」
洗礼を一年後に控えたディオールは人の感情やしてはいけないこと、どういう時にどう振る舞うべきか理解している。
しかし、それでも姉に手を出してしまった。
あと一年でその衝動を抑えられなければ“見込みなし”として処分されるだろう。社会に適応できないベリアルドは早いうちに芽を摘まなくてはならないのだ。
「……」
死への恐怖よりも、呪い持ちである伯父に見放されるのではないかという不安が彼女を小さな女の子たらしめ、じわと瞳を濡らす。
「ディオール、私は君を歓迎する。だが……」
「?」
「一人でも良い、友人を作りなさい」
「え……」
「他人を愛すことは難しい。家族を愛せなかった君にはもっと難しいかもしれない。それでも、他人を愛する努力をするんだ」
思いがけない言葉にディオールは目をまん丸にして固まってしまった。
ヘルメスはそれにフッと口の端だけで笑って目尻を緩め、今度は揶揄うように、
「息子たちに会って行きなさい。上手くやれるようなら今日からここが君の家になる」
と言って立ち上がった。
「……伯父様のご子息」
◆
「初めまして、僕はクロード。こっちは兄のセルジオです」
「ごきげんよう、セルジオ様、クロード様。ディオールと申しま、ァ!?」
開口一番、否、邂逅一番。
大きい方のベリアルドが短剣を握って宙を舞っていた。
半身を捻りながらこちらに向かってくる悪魔の子。
陽の光を含んだ揺らめく濃いブルーの髪は、触れてはいけない炎のようだった。
爛々と輝く獣の瞳に囚われる。
彼女はこの殺意を“美しい”と思った。
永遠のような一瞬のなかで、心臓がドクドクと鼓動するのである。
「——」
ディオールは一拍遅れて頭を抱え込んだが、「どうどうどう!」というクロードの声が聞こえるだけでどこにも痛みはない。
そっと顔を上げるとセルジオが短剣を振りかぶったままフーフーと息をしており、それをクロードが後ろから羽交い締めにしていた。
「い、…… 以後お見知りおきを」
「アハハ、兄さんがごめんね。今大人しくさせるから」
クロードと名乗った男の子はディオールより二つ年下の四歳だ。
四歳の男の子が兄の代わりに挨拶し、暴れる兄の背に飛び乗って口元にハンカチを押し当てている。
彼こそ早々に処分した方が良いのではないかと思うディオールだが、ディオールも人のことを言えた義理ではない。
「はぁ、良かった。落ち着いたみたい」
セルジオは短剣を仕舞うと今度は一転、ボーッと斜め上とか壁のシミとかを見ていた。
ふたりとも侯爵家の御令息だけあって身なりはいい。シミひとつないフリルのシャツにグレーのベスト。半ズボンから真っ白な細い足が伸びている。
お揃いの服を着た正反対の兄弟は、なんというか、異様だった。
けれどもまあ、ディオールも似たようなものである。
「……あの、クロード様。セルジオ様はどこか悪くされているのかしら。たとえば頭とか」
「あ、これね、挨拶みたいなものだよ。普段はボーッとしてることが多いけど知能は大丈夫。やる気が無いだけなんだ」
「そ、そう……」
やる気があっても困りものだが、やる気が無いにも程がある。
セルジオは壊れた人形みたいにボケーっと天井の隅を見たままで、ディオールと目を合わせようともしない。
クロードはそんな兄を気にするでもなく、犬の手綱を握るようにセルジオの手をとりながら言った。
「城を案内するよ。庭の方がいい?」
「あなたの好きなところを案内してもらえると嬉しいわ」
「じゃあ僕のとっておきを見せてあげる!」
悪魔っ子たちは小さな足でトコトコ歩き、結構な時間をかけて裏庭に出ていた。
薄っすらと視線を感じるのは彼らのメイドか教育係だろう。
なぜあの時止めに入らなかったのか、と腹を立てるディオールだったが、少し考えて勝手に納得した。
セルジオがああいった行動に出るのは“日常”で、それをクロードが止めるのもまた日常なのだ。
自分が蔑ろにされているわけではないという妙な信頼があった。
「ここが僕のお気に入り。キレイでしょ?」
「……これは」
ジワっと肌が汗ばむような温かい空気はありとあらゆる甘い香りが混ざり合っている。
フレッシュな果実の香りに、濃密な花の香り。グリーンの青臭さも、湿った土の香りもすべてが調和して心地よい。
巨大な木々の上では色鮮やかな鳥がキレイな歌声を響かせている。
貴族がお茶会をするような品の良い温室ではなく、生と死が入り混じるジャングルのようだった。
「僕の温室なんだ。一応ちゃんとした温室もあるけどね」
「美しいわ……」
「ありがとう。ディオールもキレイだよ。すごく良い顔で笑うね」
「え」
言われて初めて自分が笑っていたことに気づいた。そっと自分の頬に触れて、ディオールの心臓がジンと熱くなる。
四歳児のキザな台詞に照れているわけではない。
この光景を「美しい」と言い合える人に出会えたことを嬉しく思ったのだ。
それで、チラリとセルジオを見れば、彼は弟に手を引かれながらトボトボと歩いていた。
「あ、ディオール、爬虫類は平気? 蛇がいるから気を付けてね」
「は?」
「蜘蛛と蠍もいるよ。基本的にここにあるものには触れないでね、だいたい毒だから」
「そ、そう…… 素敵な趣味ね」
「でしょ? 良かったら都合しようか?」
「!?」
「必要なときもあるでしょ。僕ら、この通りまだ子どもだもの」
脳裏に過ぎったのは自身の失敗——階段の手摺りを掴む姉の姿だった。
悔しくて恥ずかしい。そんな感情が頬を引き攣らせて、次の瞬間にはその頬がぞわりと鳥肌を立てる。
「どうして…… ヘルメス様からなにか聞いたの?」
「ん? なにを? ただの一般論のつもりだったんだけど」
クロードは水色の髪をさらりと耳に掛けながら、少しだけ眉を寄せて困ったような顔をする。
何か良くないことを言っちゃったかな、と相手の顔色を窺うような子どもらしい顔とも言えるが、ディオールはさらに心臓を冷やしていた。
あまりにもタイミングが良過ぎる。
まるですべてを知っているみたいで、すべてを理解しているみたいに思えた。
「毒は良いよ、頭さえ使えば体格は関係ないから」
「遠慮するわ」
「そう? 必要なときはいつでも言ってね」
「ありがとう、クロード」
不思議と家族への苛立ちや殺意が消えていた。
何かを上書きされたような心地だった。
◆
温室での優雅な昼下がりのティータイム。
クロードとの会話は楽しかった。
無邪気で、自由で、初めて子どもらしく居られるような気さえする。
「僕ね、姉さんが欲しかったんだ」
「妹ではなくて?」
「僕もたまには甘えたいんだよ。だってまだ四つだよ? 兄さんはあの通りだしさ」
「お母様がいらっしゃるじゃない」
「うーん…… ディオールなら分かるでしょ」
「ふふ、そうね」
彼らの母親はディオールの母と同じく普通の貴族だ。ヘルメスという呪い持ちの父がいる分、母親に対する違和感が顕著に出るのだろう。
「あ、でも母上のことは好きだよ。なんて言うかな。たまにごめんねって思うんだ」
「大切なのね」
「うん。大切だし、好きだからたまに悲しくなる。でもまあ、あの人抜けてるからあんまり気にしてないみたい。そういうところが好きなんだ。可愛いよ、うちの母は」
「お会いするのが楽しみだわ」
「ディオール姉さん」
「なぁに、クロード」
「そろそろ兄さんを許してやってくれない?」
「まだよ」
クロードは「はぁ……」と大袈裟にため息を吐いて見せ、大人みたいな苦笑いで肩をすくめると、視線を上げてスッと大きく息を吸い込んだ。
「兄さーん! ちゃんと謝りなぁー! あと一時間で死ぬよー!」
「うぅ…… ごめん。もうしない。許して……」
「いやよ」
クロードの視線の先——セルジオは温室の巨大な木に蓑虫のように逆さ吊りにされていた。
ディオールが初めて彼と交わした会話はこのなんとも情けない命乞いになってしまったのだった。
というのも、それは三十分ほど前のこと。
セルジオは突然、何の予備動作もなく剣を抜いて近くの木に投げた。あれだけクロードが触るなと言っていたのにだ。
ギョッとしてそちらを見れば、子どもを丸呑みできるくらいの巨大な蛇がソロソロと木を登っていただけだった。
別に、威嚇されたわけでも狙われていたわけでもない。
そして、大蛇はちょうど身体の真ん中あたりを串刺しにされ、ビタビタ暴れたせいで鳥の群れが一斉に羽ばたき、そのときいくつか鳥のフンが落ちてきてディオールのドレスを汚してしまう。
たったそれだけのことだがディオールは凄まじい殺気を放っていた。
なにせ彼女はまだ六歳だ。いくら賢くても沸点の低さはどうにもならないのである。
『信じられない…… 最悪、死ね』
かくして鳥達はさらに混乱し、普段は立ち入らないエリアにまで入り込んでしまったのだが……
何とも不運なことに、そこは食獣きのこ——マジックマッシュールの領域だった。
樹が生い茂り薄暗くなった地面に、巨大なキノコが群生している。
そのキノコは大人が寝転がれるくらい大きくて、丸っこくて、ふわふわしていて、薄らと発光していた。
見た目はかなり幻想的。
けれど、マジックマッシュールの養分は獣の血肉である。動物の気配を察知すると気分の良くなる胞子を放ち、どんな猛獣でも目をとろりとさせてフラフラとマッシュルームの笠の下に寝転んでしまう。
そうして誘い込み、生きたまま体を溶かし、溶けた血肉は土に染み込み、ゆっくりと吸い上げられてやがて骨だけなる。
別名、骨茸——普通の森には自生しない魔法生物であった。
そんなところに鳥たちがバサバサと迷い込めば、当然マジックマッシュルームは獣を誘う甘い香りを濃くするだろう。
麻薬のような特別な香りは少し離れたセルジオにも良く効いた。
それで、セルジオは別の剣を抜き、とろんとした目で言った。
『稽古の時間かも〜! 全員出てこ〜い!』
次期当主の命令だ。
まあ、洗礼を終えてないセルジオにはそんな肩書きあってないようなものだが、彼の訓練相手はベリアルド城に仕える騎士であるため、この剣術バカに特別期待している。
我らが若様には剣術の才がある!
天才を育てることこそ我らの使命である!
とかなんとか思いながら、おじさんたちは大張り切りで集合し、次々にセルジオに襲いかかった。
たぶん、おじさんたちもキマッていたのだろう。
単純に出番が来て嬉しかったのかもしれない。
そんなこんなで午後の美しい温室は剣術バカの戦闘フィールドに変わり、鳥のフンを落とされたディオールにメイドが近づくこともできずにいた。
突発的なゲリラ戦の渦中でお気に入りのドレスをジッと眺めること約二十分。
セルジオの戦いぶりは六歳とは思えないほど見事であったが、ディオールはドロっと垂れて固まり始めたフンの方が一大事である。
『なんなのよ。わたしが何をしたって言うのよ』
今日は自分の運命が決まる大事な日だから一番お気に入りのドレスを着てきたのに。
大人が思わず相好を崩すような可愛らしいフリルが付いていて、同年代の男の子なら頬を真っ赤にしてモジモジすること間違い無しの、つまり乙女の精一杯である。
真っ赤な髪は高い位置でふたつに結び、子どもっぽくなり過ぎないようシンプルな黒のリボンを垂らすように結んでもらった。
いつもは自分のためにお洒落をするのに、今日だけは気に入られたくておめかしした。
それなのにだ。
彼、セルジオは顔を見るなり頬を赤くするでもなく斬り掛かって来たし、今だって自分をまるで視界に入れてない。
無視されるだけならまだしも、すべてを台無しにされた気がして悲しくなった。
覚悟を、希望を、踏み躙られた気がして……
だからディオールは震えそうになる声を努めて冷静に整え言った。
『よく聞きなさい。そのバカ息子を捕まえた者に金貨百枚払うわ。すぐに始末して』
『ウォォォ!』
天才悪魔っ子と言えどまだ六歳。
セルジオは呆気なく捕まり、騎士の手によって木から吊り下げられたのだった。
ディオールはメイドにその場でドレスを洗浄してもらい、シミが消えたことを何度も確認し、わざわざセルジオの下にテーブルを用意させて温かい紅茶を淹れてもらった。
毒に囲まれた優雅な昼下がりのティータイム。
セルジオは顔を赤黒くしてブラブラ揺れている。
「うぅ、降ろして〜」
「あれがベリアルドの次期当主なのね。大丈夫なの?」
「執務は僕が補佐するから心配しないで」
「お兄様のことも大切なのね」
「アハハッ、ちがうよディオール。兄さんもじゃない。僕はね、兄さんが一番大切なんだよ」
「え」
意外な言葉にカチャと茶器が鳴る。
クロードも意外そうに動きを止め、「だってそうでしょ?」と目を丸めた。
「父上も母上も僕らより先に死ぬじゃない? もし兄さんが居なくなったら、僕はこの世界でひとりぼっちになってしまう。僕と最期まで一緒に居てくれるのは兄さんだけ…… だからね、僕は兄さんが一番大事」
柔らかい言葉でゆっくり話すクロードはとても貴族らしく上品なのに、なぜだかこの鬱蒼としたジャングルが良く似合っていた。
ディオールには無い感覚だ。彼女は生まれた時からひとりぼっちだったから。
「ディオールもすぐに分かるよ。僕らには僕らしかいないから」
まだ恋を知らない小さな子どもの口から紡がれる台詞は仄暗く、そして、とびきり甘い蜜のようだった。
「ベリアルドへようこそ。ディオール姉さん」