第1話 呪縛
「ディオール、君はお姉さんを故意に階段から突き落としたね?」
「ええ」
「理由を聞いても?」
ディオールの小さな身体は雲のようなふかふかのソファーにちょこんと乗っている。
背筋をピンと伸ばした姿は六歳とは思えないほど貴族らしく、淑女のような落ち着きさえあった。
「……」
伯父であるヘルメスの表情はいたってフラットだ。怒っているわけでも責めているわけでもない。
純粋に理由を訊ねている——いや、本当はすべて分かっていて、ただ本人の口から語らせることが目的のようだった。
「ディオール?」
「わたくしの身体では八つも上のお姉様に敵わないでしょう? 湖でもよかったのだけれど、外は人の目があるもの」
「そうだね」
「なにか?」
「殺すつもりだったのかい?」
「あの高さから落ちたらどうなるかくらい分かります。まあ、死ななかったのですから、偉そうなことは言えませんわね」
彼女は自嘲するようにフッと視線を斜めに降ろし、それからまたツンと香りたつ深紅の薔薇の顔をした。
白い肌はみずみずしく、唇は血のように赤かった。
だがしかし、瞳に輝きはなく頬も青白い。それが一段と彼女の紅蓮を鮮やかにするのである。
「ディオール、人を殺してはいけない」
「ええ……」
「君はそれを理解しているね。だが、衝動を抑えられなかった。その感情の理由は理解しているかな?」
ディオールはジッとヘルメスを見つめたまま、静かに唇を動かした。
「邪魔だったの。鬱陶しかった…… 言葉が通じないから、黙らせるにはああするしかなかったのよ。伯父様なら、分かってくださるでしょう?」
「ああ」
ヘルメスは目尻に薄く皺を寄せるように笑い、ディオールはやっと頬に血を通わせて少しだけ微笑んだ。
彼はただ“理解できる”というだけで、ディオールの感情に呼応して怒ることも、悲しむことも、焦れることもない。
それでも二人は「よくあることだ」というようにフッと肩を楽にして笑い合うのである。
◆
「ねえ、ディオール。あなたは大切なわたしの妹よ。悪魔なんかじゃない、普通の可愛い女の子。大丈夫よ、わたしたちは分かってるから。ディオールは本当は優しくて、少し不器用なだけよね?」
「……」
ディオールはたった今、この優しい姉を殺そうとした。
階段から突き落としたが、姉は途中で手摺を掴んで足を捻っただけだった。
「いいのよ、わたしは怒ってないわ。お母様もお父様も、ディオールを愛してる。だから、もう泣かないで」
「……」
ディオールは唇を仕舞い込んで静かに涙を流している。
優しい姉の優しい許しに感動しているわけではない。
罪悪感でも、後悔でもなかった。
殺意が湧くほど悔しいのだ。
この善良で心優しい姉が分かったような口をきくたび、跡形もなく燃やし尽くしてやりたいと思い、上手く殺せなかったことが悔しくて堪らない。
そして、姉の“許し”がまた新しい鎖となって彼女の心臓を重たくするのである。
ゾラド家の次女ディオールは優しい家族に愛されている。
ダメなことはダメと叱られ、そのあとたっぷり抱きしめられてたくさん頭を撫でてもらえる。
欲しいものは大抵手に入った。
父は盗賊に襲われても彼らの身の上を想像して同情の涙を流し、自ら金銭を差し出すほどの善人だった。
もちろん姉妹を分け隔てなく平等に愛している。
なにかがあっても無くても忙しい中こうしてふたりの時間を作り、声を荒げることもなく優しく話を聞いてくれる。
「ディオール、何があったのか話してごらん。姉さんに嫌なことをされたのかい?」
「ええ。価値観の押し付けは虐待と同じだわ」
「そうか、押し付けか…… ディオールは優しくされるのが嫌なのかな」
「優しさと尊重は違うでしょう。わたしはわたしを尊重してほしいだけなの。どうして伝わらないのかしら」
「あの子はお前を愛しているんだ。だから優しくしたいし、理解したいと思っている」
「理解したいと思っているなら、“分かってる”なんて言わないはずよ」
「……ディオールは家族を理解したいと思わないのかい?」
「理解しているわ。理解しているから息苦しいの」
家族に愛されているのだと理解している。
彼らには悪意はひとつもない。ただ、少しの哀れみと彼らの“正義”があるだけだ。
人は善良でなければならない。
善良で心優しく、人を許せる慈悲深さが人としての最善である。
と、彼らは盲目的に信じている。
「ホント、反吐が出る……」
「汚い言葉はいけないよ」
「失礼しました」
ディオールは丁寧に頭を下げ、「もういいかしら?」みたいな顔をする。信じられないくらい可愛い顔で、目が眩むほどに可愛い表情だった。それを分かってやっているという事実が大人には不気味に映った。
だから父は困ったように柔らかく笑って両手を軽く開く。
お決まりのハグの時間。
この年頃の子どもなら一番嬉しい時間であるが、ディオールにとっては一番面倒な時間だった。
優しく抱きしめられ、「おやすみ、ディオール。愛してるよ」と囁かれ、頬に軽いキスをされて最後に頭を撫でられる。
怒られなかった。話を聞いてくれた。
それでも……
「おやすみなさい、お父様」
ディオールはそれだけ言って足早に父の執務室を後にした。
父に嫌悪感があるわけではない。
抱きしめられるのもおやすみのキスも嫌ではない。
ただ、一連のスキンシップが儀式的で、愛を強制されているみたいに感じるのだ。
ディオールは生まれた時から「愛を強いられている」と感じている。
それがとてつもなく窮屈で、嫌だった。
季節は春。
階段の一件からまだ数日というところ。
姉が懲りもせずに片足を引きずってディオールのところまでやってきた。
「ディオール、勉強はそのくらいにして少し庭を散歩しない?」
「まだ無理をしない方が良いのではありませんか」
「あら、心配してくれるの? でももう平気よ。お父様が神官を呼んでくださったから、痛みはないの。包帯のせいで歩きづらいだけなんだから」
「そうですか」
「ねぇ、それ何を読んでるの?」
姉はディオールが読んでいた古い紙を取り上げて、光に透かしながら目を細める。
百年前の紙は黄ばんでいて、ところどころ端が破れている。そこに、紙が真っ黒になるくらい小さな文字が隙間なく詰め込まれていた。
光に透かすと多少は読み易いが、魔花でできた紙は日光に弱い。
「あー、えーと…… ラヘル期の歴史考察かしら? 難しくて読めないわ」
「アーリチェスト家滅亡に関する論文よ」
「……、そんなの学院でも習わないわよ。お勉強するならタリア語の方が良いのではない?」
「タリア語はもう覚えたわ」
「え、そうなの? うーん…… じゃあ、お勉強は必要ないわね。お外で遊びましょうよ」
「返して」
「もう…… はい、どうぞ」
小さな妹の癇癪を優しい微笑みとともに許す姉。
しかしディオールからすれば単なる無能のおままごとである。
姉は、百年前の紙に詰め込まれた記録を読んでいるのがどういうことだか分かっていない。
紙も書物も貴重であると知っていても、その書が傷み朽ちることの意味を分かっていない。
ディオールがなぜ書を読んでいるのか分かっていない。
「あのね、お姉様」
「なぁに」
「わたしは自分が知りたくて学んでいるの。面白いと思えることを探すためにいろんな分野の書を読み、たくさんの書を読むためにたくさんの言語も覚えたいのよ」
「こんなものが面白いの?」
「読んでみないと分からないでしょう? 実際、記録から読み取れる人間模様は面白かったわ。特別興味を抱くほどではなかったけれど」
「ほらね? こんなものが楽しいなんてあるわけないじゃない。お庭で花でも愛でていた方がきっと楽しいわ」
「花の美しさは知っているわ。空の美しさも、季節が移り変わる無常の美しさも知っています」
「だったらやっぱりお庭でお茶をするべきだわ!」
姉は優しい。すべてディオールのためを思ってやっている。
けれど、ことごとく話が通じない。
お利口な六歳児であれば、「もう、お姉様ったら。仕方ないので付き合ってあげますわ」と、呆れつつも姉の好意を受け入れ、その手を取るだろう。
しかしディオールは利口過ぎた。
そして幼かった。
姉の配慮のなさ、デリカシーの無さ、つまり無能の怠慢が許せない。
なぜ理解できないのか。
なぜ想像しようとしないのか。
なぜ言葉の意味を考えようとしないのか。
少し考えれば分かることだろう。
その“少し”の努力をしないのは相手を蔑ろにすると同義ではないか。
一瞬でこれだけのことが頭を過ぎり、カッとなってしまう。それで、目の前の人間がまるで未知の生物のように思えてくる。
言葉の通じない家畜と同じだ。
犬が待てを出来るように、この姉も「少し待ってくださる?」と言えば書を片付けるくらいの時間は黙っている。
けれどこれをどう愛せと言うのだろう。
どうして家族の愛を尊いものとして受け取らねばならないのだろう。
これなら色鮮やかな羽根を持つ鳥の方がマシではないか。
と、ディオールは思う。
「それでね、今は学院がお休みじゃない? だから仲の良い子たちで湖に遊びに行く計画をしてるのよ」
「良かったですね」
「ディオールも試験…… えと、洗礼が終われば連れて行ってあげられるわ。ごめんね、わたしばっかり」
「お気になさらず。お姉様のご友人にも興味はありませんので」
「会ってみたら気にいるかもしらないのに。あ、そうだ。今度我が家に招待してお茶会でもしようかしら。ディオールは礼儀作法も完璧だもの。少し早いけれど、わたしの友達なら問題ないわよね!」
「結構です。本当に興味が無いんです。煩わしいだけだわ」
「そんなこと言わないで、ね? 可愛くて賢い妹を自慢したいの。少しだけ付き合ってくれない?」
「ご友人はわたしが呪い持ちだとご存知なのですか」
「あ…… それは。だから、ディオールは呪い持ちでも、良い子だもの。誰も気にしないわよ」
「それはベリアルド家に対する侮辱ですよ、お姉様」
「え、そんなつもりは……」
“ベリアルド”とは生まれつき共感力に欠け、倫理も道徳も持ち合わせない非人格者が生まれる家系である。
彼らはこの遺伝を“呪い”と呼び、人は彼らを“悪魔”と呼んだ。
なぜディオールが“呪い”を受け継いだのか。
彼女の父が呪いを持たないベリアルドだったのだ。
呪いを持たないベリアルドは彼らの善性を補うように底なしの善人であった。そういった者は新たな姓を得てベリアルドではなくなる——
つまりディオールは分家に生まれた呪い持ちということになる。
「ベリアルドが治めるこの土地でベリアルドの呪いを欠陥と考えるのは如何なものかと思いますが」
「そ、そうよね。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの。でもね、ディオール。本家の方々は…… その」
「異常者とでも?」
その通りである。
呪い持ちであるディオールが六歳で姉を殺そうとするのだから、その特性がいかに有害であるかは明白だろう。
それでもこうして「本家」として血筋を守り、広大な領地を治めているのには訳がある。
負の感情が穢れとなって心を蝕み、果ては魔物を生むこの世界では、罪悪感を知らない悪魔は何かと便利なのだ。
処刑、暗殺、魔物の討伐。小さなイジメから大戦争まで人が心を痛めるようなことは大得意。
安全性を考えれば早々に血筋を根絶やしにした方が良いのだが、残念なことに、悪魔と呼ばれるだけあって彼らは人より賢かった。
基本的に天才。さらには何かひとつに執着し、その偏執的な興味は国を揺るがす才となる。
本家では彼らをギリギリ害にならない人間に矯正する教育制度があり、上手く育てば人を魅了し、害悪だと分かりながらも「まぁベリアルドだからな」と、お目溢しいただくくらいには社会の役に立つ。
ディオールは本来、呪いの有無が判明した時点で本家に引き取られるはずだった。
しかし、六歳の現在まで週に一度本家を訪ねることを条件に実家での生活を許されている。
——否、強いられている。
◆
「お母様、お茶会の件ですが」
「ええ、聞いているわ。楽しみね」
「出席したくありません」
「あら、そうなの? 貴女のことだからすぐにでもお茶会をしたいのだと思っていたのに」
「……それは」
たしかに、そろそろお茶会をしても良いとは思っていた。ベリアルドの本家で学んだ礼儀作法は完璧に身についている。
擬態も申し分ないとお墨付きを貰い、同年代の子ども相手なら問題なく立ち回れるだろう。
しかし、姉のお茶会で姉の望む妹を演じるのは本意ではない。
姉の思うディオールは、ディオールが思うディオールとは違うから。
「お披露目の練習は必要無いかしら」
「無いわ」
「でも、貴女は賢いから同年代の子たちよりも年上のお姉様方の方が話が合うと思うわよ?」
「同い年であれば目を瞑れることが、年上だと看過できないということもあるかと」
「そうねぇ…… じゃあ、わたしから言っておくわね。貴女が本家に行く日に合わせましょう」
「ありがとうございます」
母は意外と話が通じる。
それが余計にディオールを苦しめた。
姉のように話が通じないわけでも、父のように咽せ返るような善意で包んでくるわけでもない。
それでも、母の死に目に泣ける自信がない。
彼女がもし明日不慮の事故で死んだとして、悲しむ自分が想像できない。
良い母だと思っている。煩わしいことも鬱陶しいところもあるが、ディオールを一人の人間として扱い尊重してくれる。
そんな母を愛せないことが不安で仕方ない。
自分はずっとひとりぼっちなのではないかと、未来に寂しさを覚えるのである。
「ディオール」
「……?」
「貴女、もう本家で暮らした方が良さそうね」
「はい。はい……!」
他所へ行けというのは六歳の子どもに対して少々酷なことである。
だが、これこそディオールの望みだった。
やはり母だけは自分の意思を尊重してくれる。初めて母に対して感謝や尊敬といった感情を抱いた。
「その代わり、もうあの子に何もしないでね。お願いよ?」
「もちろんです」
「あの子にもあまり関わらないように言っておくわ。本当に困った子よね、ベリアルドを何だと思っているのかしら」
「ええ、本当に」
「うふふ、やっぱり貴女はベリアルドの子ね」
可笑しそうに笑う母を見て、ディオールは「ああ、なるほど」と納得した。
母を心地よく感じるのは、母が自分を我が子として見ていないからだと気付いたのだ。
ベリアルド家とは関係のない普通の貴族であった母は、ベリアルドという一族の特性をよく理解している。
ディオールにその特性があると知った時点で、彼女は我が子を他人のように思ったのだろう。
本家からディオールを預かっているくらいの感覚で、乳母のようなものだ。
故に、我が子に危害が及ぶならば早々に手放してしまいたい。
ディオールには心地よい家族愛など最初から存在しなかったのである。
「ありがとうございます、お母様」
彼女はそう言ってにっこり笑った。
母に向ける笑みではない。他人に対する礼儀の笑みであった。
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