94. 噂
「ちわーっす! レザーガントレットできてます?」
元気な挨拶で、革工房に入ってきた人がいた。
その顔には見覚えがあった。
彼は、ほんの少し前に結婚式を挙げた人物、キャルムだ。
「あーっ! クロードにお嬢様……むぐぐぐ」
彼の口を慌てて、手で塞ぐ。
「あはは! お嬢様じゃないわよね。いつも会うたびに冗談は止めてよね」
ジャックが目を見開いて、こちらを見ている。
さっき話をしていたお嬢様がここにいたら驚く。
キャルムの着ているベストを直すようにして近づく。
肩を寄せ合って、小さな声で手早く説明をする。
「今日の私はお嬢様じゃないの」
「じゃあ、あの噂は本当だったんだ?」
「どんな噂?」
「クロードと手を取り合って、駆け落ちしたって噂」
「誰から聞いたの?」
「まあね。往来の真ん中でキスしていたとか、抱きしめていたとか、駆け落ち資金がないからドレス売っていたとか」
どれも午前中にあった出来事だ。
噂の速さが尋常ではない。
ハントさん、口は堅いのではなかったのか。
奥に奥さんが潜んでいたとか。謎の情報員だったとか。
なぜ半日で噂が出回るの!
「それ、根も葉もない嘘だから、信じないで」
「まあね。俺は信じてないよ。お嬢様はクロードと親しいというよりもさ。カイの方と仲良かったなと思ってさ。でさ、本当はどっちが本命?」
「お嬢様、殴ってよろしいでしょうか?」
「クロード許します。思う存分殴ってください」
「えっ? あの? ちょっと待って!」
クロードから殴られてもちゃんと守るところはガードしている。人間の急所は、中心にかたまっていると言われている。殴ろうとするところを見ずして拳を突き出す。その技は身につけることはできなかったが、上級者の突きは本当に見えない。クロードの突きは、恐ろしいほど早い。この突きを避けるというのは、もはやレジェンド級のフットワークとしか思えない。
二人の立ち回りを見て、レジェンド級!と感動していた。
「二人ともストップだ。お店壊す前におまえら出ていけ! 今日は立ち入り禁止だ!」
声かけられた瞬間、二人の動きが止まったが、キャルムが自分を支えられなくて転んだ。
物が壊れる音がする。
もちろん容赦なく、店から追い出された。
「あーあ、弟子入りの話ダメになってしまったかも」
「俺のガントレットちゃんが……」
キャルムは、受け取れなくて肩を落としてしまっている。
「キャルムって、もっとかっこいい感じの人じゃなかったっけ? 旅している感じが生きている気がするとか何とか言っていたよね?」
「あっ、まあな。でも、出会っちゃったんだよね。俺の運命の人に」
また、運命の人。キーワードを見つけるゲームみたいに出てくる文字。
「運命の人ってわかるものなの?」
「わからない」
膝からがっくりと力が抜ける。
「何だか期待して、落とされた気分」
「でも、彼女といると自然体でそのままの自分でいい。一緒にいてお茶をしてのんびりして、お互いに好きなことをしていても大丈夫って感じる」
「それが当たり前じゃないの?」
「好きな相手には、恰好つけたい。それが人間の心理じゃないか? だから、普段の自分よりも少し恰好よく見せようとする」
「だから、この間、あの言い方だったの?」
「ああ、まあそうかな。でも、本音はここの土地から流れくてもいい仕事が欲しいとは思っていた。まあ、伯爵が……おっとこれは言っちゃいけなかった」
コスツス伯爵が彼にここに留まるようにした?
キャルムが留まるようにするには、定職が必要だ。
「定職は何についたの?」
「この町の自警団に入った」
コスツス伯爵は事の顛末を全部知っている。
この町で何が起きていたのか。
自警団を強固にしたかった。
この町に流れ着いたときに、傭兵の人の仕事が何もないほど、この町は平和だろうか。
「コスツス伯爵に言われて自警団に入ったの?」
「あーっ、バレちゃあ。しょうがないな。そうだよ」
「ここにあなたが来たのは偶然なの? 伯爵に言われて、私たちの後をつけてきた。そうじゃないの?」
「……」
沈黙は肯定の意味だと取る。
キャルムは、どう言って納得させるべきか迷っている。
相手に迷いがあるうちに畳み込む。
「最初から知っていたのね。午前中に尾行していたから、クロードとのことを知っていた」




