90. すれ違う思い
お隣さんに出会うまでに三十分以上歩いた。また町に行くまでにさらに同じ時間を費やした。ずっと土の道を歩いていたが、急に石畳の道になり、町が近いことを知った。
「ちょっと家から町って遠くない?」
「遠いですが、土地は安いですよ」
私にとっては耳がダンボになるような情報だ。
「妖精付きでしたから、少し遠くの場所を選びました」
父は妖精、母は人間と聞いている。
でも私は知らないことになっているから何も言わない方がいい。
「町の喧騒から離れた静かな場所と森の近くを妖精は好みます」
私にその話を聞かせてくれるということは、肩にいるはずのサラマンダーのことも気にかけないといけないということだ。
その場所にぴったりの当てはまるところを私は知っている。
セオが管理しているバンガロー、条件にぴったり合う。
しかし、あの場所は伯爵の管理する場所だ。でも、それを言ってしまうとこのコスツスと名のつく土地すべてを指すことになる。
とにかく町の様子を眺めて見ることから始めることにした。
最初に倒れていたときは、馬車に乗ってしまったので小高い丘の上から、町並みしか見ることができなかった。
壁や屋根が色とりどりに彩られていて、どこか遠い異国の土地にひとりのような気がして寂しくなった。
日本にいたとき、ひとりで生きていた気がしていた。
だけど、日本の町並みは知っている場所だった。
全然見知らぬ場所に投げ出されてみて、知っている風景それだけで、心強いことだと初めてわかる。
風景は見たことのない不思議な色彩だけど、隣を歩いているクロードは知っている。
ずっと彼の顔を見ていたのがわかったのか、こちらに視線を落とす。手の甲が何度かぶつかった後に彼の手が力強く、私の手を引く。クロードの唇まで持っていかれて、指先にキスを落とされた。
「ふぇ⁈」
変な声が出た。
「挨拶のキスは許されるのか。サラマンダー」
肩にいるはずのサラマンダーは、沈黙を貫いている。
「弱っているはずないよな」
「昨日からこの調子だから、なるべく町を避けた方がいいのかな」
胸が早鐘を打っている。この顔に気がつかないでほしい。
耳元に息を吹きかけられて、びっくりして顔を上げる。
「顔が赤いですよ。お嬢様」
「からかわないで」
「同郷ではないので、貴方のことを理解するのは時間がかかります。勘当がこのまま解けないのでしたら、貴方を違う地へと攫って行きたいぐらいです」
「マーガレット」
その言葉に反応をして、クロードの瞳が鋭く光った気がした。そのくらいに強く睨まれた。
「クロードが好きだったのは、彼女の方だよ。間違えないで」
クロードは、胸のポケットに何も入っていないのに押さえる仕草をした。いつもあのポケットの位置にマーガレットのリボンが入っていたのを覚えている。
「私は彼女にはなれない。同じように見えて、中身は違うよ。クロードが追いかけているのは、今でも彼女でしょう」
「俺には何もない。欲しいものは何も手に入らなかった!」
彼の体中の傷を思い出した。悲痛な声、今でも彼女が欲しい。心が欲しい。そう叫んでいるのに何も手に入らなかった。
「でも、クロード。マーガレットの初恋はあなただった。それは手に入れたと一緒ではなくて? その思いにお互いに気がつかなかっただけで」
少し時期が違っただけで思いはすれ違う。
「そんなに苦しいなら、食べてやってもいい。その思い」
この時を待ってましたとばかりに、小さな妖精がいたずらに姿を現した。
「苦しいんだろう。諦めきれない思いをどこかにかぶつけようとしている。なかったことにすることも可能だ」
「食べちゃダメだよ。サラマンダー! マーガレットの思い出がどこにもなくなるのは辛すぎるよ。クロードもそんな甘言に乗っちゃダメ! いつも賢いのにあなたのような人が騙されやすいんだよ!」
クロードは、ふふっと声に出して笑った。彼の目に涙が浮かんだ。泣き笑いのような顔になっている。眼鏡を外すと目尻に残っている涙を拭いて、寂しそうに笑う。
「貴方といると最後には笑顔になってしまいます」
そうだ。フェアリーハウスにいるときの彼は、いつも声を押し殺して笑っていた。執事が笑う場面でない場合も。それってマーガレットのときにはなかったことで、私のときにはいつも笑っているとしたら? 私が彼を笑顔にしたことになる?
「カイもマーガレットが好きだったと思いますよ。彼の思いは受け止めて、俺の思いは受け止められないのはなぜでしょう」
「止めて!」
胸に棘が刺さったみたいに痛みだす。こんな痛みは知らない。
知りたくなかった。
マーガレットに対する嫉妬、それが渦巻きだす。
好きだという思いが痛いのならば、知らなければよかった。
冗談言ったり、笑ったりして過ごしたかった。
「泣かせてすみませんでした。貴方が言うように思いはすれ違うものですよ」
往来のど真ん中で、抱きしめてもらったことが噂を広めることになるとは、この時の私は知る由もなかった。




