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80. 偶然を装う

 翌日の午後、馬車に乗って本館への道を急ぐ。膝には黒猫を抱いている。 

 アルベルト様と打ち合わせをしたときの言葉が胸を横切る。


「君は偶然を装うこと」


 偶然にその場所に出くわしたのだ。そういった顔をして、コスツス伯爵に会うように言われた。

 玄関を入ると、大きな柱と美しい扉が四方にあり、目の前には大きな階段がまっすぐに伸びている。上から吊り上げられたシャンデリアのオレンジの光がやわらかく周りを照らしている。壁に掛けられた角がついたような頭蓋骨。ご当主が仕留めたと思われる装飾品を眺めていたら、声をかけられた。


「マーガレット様?」


 初老の執事、ベイジルだ。先代の頃からお世話になっていると聞いている。でも、背はまっすぐに伸び、足も曲がっていない。来年引退すると宣言はしているが、彼の抱えている仕事は多く、その後を任せることができる人材がクロードしかいないという噂を聞いた。


「ベイジル、お父様に取次ぎをお願いします」

「今、伯爵は非常にお忙しく、それに猫は困ります」

「こちらの猫はアンナ、いえ、お姉さまの猫だと聞いております。我が家まで遊びに来ていましたので、お姉さまに渡したいと思い」

「それでは、先にアンナ様のお部屋へ案内しましょう」


 しまった。案内をしてもらっていたら、約束の時間を過ぎてしまいそうだ。カイの懐中時計を借りてきていた。蔦がからまっているモチーフ、ここまで妖精王に侵食されている。時計の蓋を開いて時間を確認する。


「約束の時間に遅れるな」


 黒猫姿のカイが小さな声で教えてくれる。


「あと十分あるし、大丈夫じゃない?」


 黒猫カイは、私の腕から飛び降りると、階段を駆け上がるとちらりと一瞬振り返ったが、走っていってしまった。

 自分の役割を果たせと言われているようだった。


「猫はお姉さまの所へ行ってしまったようだから、お父様の所へお願いします」

「今はお会いになれないと思います」

「そこを何とかお願いできない? せめて執務室前まで案内をして」

「それでは執務室の隣の部屋へご案内しましょう」


 カイが走っていった階段を後を追いかけるように上がっていく。

 階段を上がると長い廊下が続いている。廊下は片面壁だが、反対側は窓になっているので意外と明るい。アーチ型の窓が続いている。ベルベット素材のようなカーテン。ドレープが細かくついているので、かなりの贅沢品だ。壁側には所々にサイドチェストが置いてある。その上には花瓶があり、小さなひまわりの花が活けられている。どれも同じ扉に見えるがひとつの扉の前で止まった。

 かなり重要な場面に立っているのは承知している。今、左右どちらかの扉の向こう側には、打ち合わせ通りの人物がいる。だから、何としても扉の向こう側へ行かなくてはいけない立場に立っている。足元に擦り寄ってきた猫がいた。


「カイ、帰ってきたの?」


 猫を抱き上げて振り返ると、後ろ側から誰か歩いてくるのが見えた。

 赤い髪の人物が二人。猫の後を追ってきたのか。

 ひとりはアンナ。もう一人は、伯爵夫人だった。伯爵夫人は、ひとりで立って歩いているところを見ると元気を少し取り戻したようだった。今日は具合がいいのかお化粧をしている。

 私が何も思い出せなくても娘として、ここに暮らしていいのだろうか。

 少しの罪悪感と、私という存在が伯爵夫人を元気にしたという思い、別々の思いが交錯する。

 今はここに居られる時間を増やしたい。

 そうしたら、何かを思い出して、伯爵夫人のこともお母さんだと思えるのかな。

 心臓がぎゅっと痛くなる。

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